[十六国(304〜439)]
⇒十六国(前趙,後趙,成漢,前涼,前燕,前秦,後秦,後涼,後燕,西秦,南燕,南涼,北涼,西涼,,北燕
⇒十六国以外(西燕,仇池,代,冉魏,翟魏,段部,宇文部,
[代(310〜376)]
神元帝(拓跋力微)…章帝(拓跋悉鹿)…平帝(拓跋綽)…思帝(拓跋弗)…昭帝(拓跋録官)…桓帝(拓跋猗他)…穆帝(拓跋猗盧)−平文帝(拓跋鬱律)−恵帝(拓跋賀ジョク)−煬帝(拓跋紇那)−烈帝(拓跋翳槐)−昭成帝(拓跋什翼犍)…献明帝(拓跋寔君)…北魏道武帝
拓跋猗他(?〜305)
  鮮卑拓跋部の首長。拓跋録官の子。拓跋猗盧の兄。晋の元康五年(295)、父録官が拓跋部を分けて三部とし、猗他は中部を率いて、参合陂の北にあった。漢人の衛操を輔相とした。恵帝のとき晋を助けて劉淵を破り、晋の封を受けて大単于となった。北魏のとき、桓帝と追尊された。

拓跋猗盧(?〜316)
  代王。在位315〜316。鮮卑拓跋部の出身。拓跋録官の子。晋の元康五年(295)、父録官が拓跋部を分けて三部とし、猗盧は西部を率いて、盛楽にあった。西晋末の大乱において、并州刺史の劉琨が拓跋部の力を借りようとしたため、かれと義兄弟となった。永嘉四年(310)、劉琨が晋朝の封を請うて、猗盧は代公・大単于となった。陘嶺以北の五県を与えられて、勢力が拡大した。六年(312)、劉琨を助けて出兵し、漢を破って晋陽を収復した。建興元年(313)、盛楽を北都とし、新たに平城を築いて南都とした。三年(315)、代王に封ぜられ、官署を置き、刑法を厳しくした。翌年、子の拓跋六脩に殺された。北魏のとき、穆帝と追尊された。

衛操(?〜311)
  字は徳元。代郡の人。若いころは無頼で、才覚を現した。衛瓘のもとで牙門将となり、しばしば鮮卑拓跋部に使いして、拓跋力微と結びついた。拓跋力微の死後、従子の衛雄らとともに拓跋部に帰順した。拓跋猗他・拓跋猗盧に晋人を招聘するよう説いて、拓跋部に附く者が増加した。拓跋猗他はその功を嘉して輔相とし、国事を任せた。劉淵・石勒が起兵すると、拓跋猗他に勧めて晋を助けさせた。東瀛公司馬騰がこれを奏聞して、晋朝は将軍位を与えた。拓跋猗他の死後、大邗城の南に石碑を立て、功徳を顕彰した。

拓跋什翼犍(318〜376)
  代王。在位338〜376。鮮卑拓跋部の出身。はじめ後趙の石虎のもとに人質になった。兄の拓跋翳槐が、自分の死後は什翼犍を迎えれば安泰だろうと遺言した。高涼王拓跋孤が群臣の異議を排して、鄴に詣でてかれを迎えた。咸康四年(338)、繁畤において代王に即位し、建国と改元した。翌年、百官を置き、衆職を分掌した。建国三年(340)、雲中の盛楽宮に都を遷し、故城の南に盛楽城を築いた。翌年、匈奴の劉虎の侵攻を撃退した。劉虎が没して、子の劉務桓が和を請うてくると、婚姻を通じてこれと結んだ。二十六年(363)、高車を大破し、捕虜万余口、家畜百余万を得た。三十九年(376)、前秦に敗れ、軍を率いて陽山の北に逃れたが、高車各部がことごとく叛いた。諸子の間で内訌が起こり、庶長子の拓跋寔君に殺された。北魏のとき、昭成帝と追尊された。


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