[十六国(304〜439)]
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[前趙(漢)(304〜329)]
[漢]高祖(劉淵)−梁王(劉和)−烈宗(劉聡)−隠帝(劉粲)…
[前趙]趙主(劉曜)−(劉煕)

劉淵(251?〜310)
  字は元海。漢の初代高祖光文帝。在位304〜310。新興の人。南匈奴の単于の一族の出身。劉豹の子。幼いころ崔遊に師事し、漢民族の文化に通じ、文武兼備を自負した。西晋の初年、父劉豹が没すると、匈奴左部帥となった。八王の乱が起こって晋朝が乱れると、祖業を恢復しようとする匈奴諸部にひそかに単于に推された。成都王司馬穎に取り入って、北単于・参丞相軍事に任ぜられた。永興元年(304)、離石において起兵し、大単于を称した。次いで左国城に進み、漢帝の後裔を自ら任じ、国号を漢と定め、漢王を称した。永嘉二年(308)、帝号を称し、永鳳と建元した。翌年には平陽に都を移し、河瑞と改元した。洛陽攻略を望んだが、志半ばにして病没した。

劉宣(?〜308)
  字は士則。劉淵の従祖父にあたる。儒者に師事し、『毛詩』『左伝』を学んだ。晋の武帝のとき、右部都尉・右賢王となった。八王の乱が起こると、鄴より劉淵を左国城に召し帰して、劉淵に大単于の号を奉った。劉淵が漢王となると、丞相・都督中外諸軍事となり、開国の元勲として特に尊重された。

劉和(?〜310)
  字は玄泰。漢の二代。在位310。劉淵の子。劉淵が漢王を称すると、大将軍に任ぜられた。劉淵が帝位につくと、大司馬となり、梁王に封ぜられ、太子に立てられた。劉淵が没すると、位を継いだが、在位一月にして、弟の劉聡に殺された。

劉聡(?〜318)
  字は玄明。漢の三代烈宗昭武帝。在位310〜318。劉淵の四男。経書に通じ、武芸の腕は群を抜いた。はじめ晋の新興太守主簿となり、右部都尉に累進した。のち成都王司馬穎のもとで、積駑将軍をつとめた。劉淵が北単于となると、右賢王として立てられ、劉淵が大単于を称すると、鹿蠡王となった。劉淵が帝を称すると、車騎大将軍・大司徒・大司馬・大単于を歴任した。河端二年(310)、兄の劉和が帝位を継ぐと、誅殺されそうになったため、反攻して劉和を弑した。帝位につき、光興と改元した。翌年、王弥・劉曜らに洛陽を攻めさせ、晋の懐帝を捕虜とした。のち長安を攻めて晋の愍帝を捕らえ、西晋を滅ぼした。日増しに酒色に溺れ、遊興に節度なく、大規模な宮殿造営をおこない、連年にわたって兵を用いて、民の流亡をまねいた。大臣に対して刑罰を濫用し、諫言を聞き入れなかった。

王弥(?〜311)
  青州東莱の人。弓馬に優れ、膂力は人並み外れていて、そのため飛豹と号した。若いころ京師に遊び、劉淵と親交を結んだ。永興三年(306)、劉柏根が晋に叛いたのに従って、その長史となった。柏根が敗死するとその余衆を集めて、青・徐二州にわたって転戦し、衆数万に拡大した。永嘉元年(307)、劉淵に降り、鎮東大将軍・青徐二州牧に任ぜられ、東莱公に封ぜられた。翌年、洛陽を攻めたが、晋軍に敗れた。司隷校尉・侍中となった。光興二年(311)、劉曜・石勒らとともに洛陽を陥し、大いに掠奪した。青州に軍を返す途中、石勒と争って殺された。

劉殷(?〜312)
  字は長盛。新興の人。若くして経史に通じた。司馬冏の輔政のもとで新興太守となった。永嘉の乱が起こると、劉淵に従った。漢の建国の謀にあずかり、侍中・左光禄大夫・尚書左僕射を歴任した。劉聡のとき、大司徒・太保・録尚書事を歴任し、佩剣のまま昇殿する特権をえた。ふたりの娘と四人の孫娘が貴嬪・貴人となり、劉聡によるこの六劉への寵愛が後宮を傾けたという。七人の息子に経学を伝授し、北州の学問がこのために盛んになったという。

劉易(?〜316)
  劉聡の子。劉聡が立つと、河間王に封ぜられ、太尉・太宰を歴任した。劉聡が朝政をみず、劉粲・王沈らが国政を専断しているのを憂えて上疏したが、劉聡が怒ってその表を破り捨てると、劉易は憤死した。

劉乂(?〜317)
  劉淵の子。劉淵のとき、北海王に封ぜられ、撫軍大将軍・司隷校尉となった。劉聡が劉和を殺して立つと、皇太弟・大単于・大司徒となった。劉聡をしばしば諫めたが、聞き入れられなかった。劉粲・靳準らが謀って謀反の罪で誣告させたので、廃されて北部王となり、まもなく劉粲・靳準らに殺された。

陳元達(?〜317)
  もとの姓は高、字は長宏。新興の人。匈奴族後部の出身。幼くして孤児となり、耕作しながら書を読み、四十過ぎまで仕えなかった。劉淵が漢王を称すると、出仕して黄門郎となった。劉聡が立つと、廷尉に任ぜられ、直諫を憚らなかったので名が知られた。劉聡が中常侍王沈を重用するようになると、太宰の劉易とともに王沈を弾劾したが、かえって王沈が列侯に封ぜられると、劉易は憤死し、かれもまもなく自殺に追いこまれた。

劉粲(?〜318)
  字は士光。漢の四代少主隠帝。在位318。劉聡の子。劉聡が即位すると、河内王に封ぜられ、撫軍大将軍・都督中外諸軍事をつとめた。劉曜とともに長安を攻め落とし、晋陽を奪回して、丞相・大将軍・録尚書事に上り、晋王に改封された。のち相国・総百揆に任ぜられた。靳準・王沈らと謀って北海王劉乂に謀反の罪を着せて殺害し、ついに皇太子・大単于となった。劉聡が没すると、帝位を継ぎ、漢昌と改元した。酒色にふけり、朝廷の元勲を殺害し、国事をすべて靳準に決裁させた。在位わずか一月で靳準に殺された。

劉曜(?〜329)
  字は永明。前趙の建国者。在位318〜328。劉淵の甥にあたる。幼いころ孤児となり、劉淵に養われた。劉聡が即位すると、しばしば戦功を立て、王弥らとともに洛陽を攻め落とし、晋の懐帝を捕虜とした。さらに長安を陥し、車騎大将軍・開府儀同三司・雍州牧に上り、中山王に封ぜられた。のち長安を失陥し、龍譲大将軍に下り、大司馬となった。建元二年(316)、再び長安を攻めて晋の愍帝を捕らえた。大都督・太宰に任ぜられ、秦王に封ぜられた。劉聡が没すると、丞相となった。劉粲のもとで相国・都督中外諸軍事に上った。光初元年(318)、靳準の乱を平定して即位し、国号を趙と改めた。陳安の乱を平定し、さらに前涼を討って藩国とした。学問を奨励し、善政を布いた。八年(325)、後趙の石生に敗れて、軍や領土の多くを失い、国勢が衰えた。十一年(328)、後趙の石虎が来攻して大敗した。さらに石勒に攻められて敗れ、捕らえられて殺害された。

靳準(?〜319)
  匈奴族屠各部の出身。漢の劉聡のとき、中護軍に任ぜられ、ふたりの娘は左右貴嬪となった。劉粲・王沈らと組んで、氐羌の首長たちに進物を迫り、また北海王劉义に謀反の罪を着せて殺害した。氐羌十余万が叛乱すると、行車騎大将軍となってこれを討ち平らげた。大司空・司隷校尉に進んだ。劉粲が立つと、国政をほしいままにし、重臣を濫刑に落とした。大将軍・録尚書事となった。漢昌元年(318)、平陽で叛乱を起こし、劉粲および宗室を殺し、大将軍・漢天王を自称して、晋の藩をとなえた。劉曜・石勒が両路から迫ってくると、漢の旧将王騰らに殺された。

劉岳(?〜?)
  劉曜の従弟にあたる。劉曜のとき大将軍に任ぜられ、広平王に封ぜられた。征東大将軍に進み、洛陽に鎮した。侍中・都督中外諸軍事に上り、中山王に進んだ。前趙の光初八年(325)、後趙の将の石他を討って斬った。まもなく金墉で石生を囲んだが、石虎が兵を率いて石生の救援に来ると、敗れて捕らえられ、襄国にうつされた。

劉煕(?〜329)
  字は義光。在位328〜329。劉曜の子。劉曜が即位すると、太子に立てられた。劉曜が石勒に捕らえられると、劉胤らとともに百官を率いて上邽に奔った。光初十二年(329)、石虎が上邽を陥すと、将相公卿三千余人とともに殺され、前趙は滅んだ。

卜泰(?〜329?)
  前趙主劉曜の妃卜氏の弟にあたる。劉聡のとき侍中に任ぜられた。劉聡が薨ずると、靳準が乱を起こしたため、これに従った。靳準は石勒に和を請うため卜泰を派遣したが、石勒はかれを捕らえて劉曜のもとに送った。のち靳明が劉曜に降るのを接受し、左光禄に進んだ。劉曜が太子の劉煕を廃し、劉胤を立てようとすると、これを諫めた。のちに上光禄大夫・儀同三司・太子太傅となり、のちに大司空に進んだ。


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