[十六国(304〜439)]
⇒十六国(前趙,後趙,成漢,前涼,前燕,前秦,後秦,後涼,後燕,西秦,南燕,南涼,北涼,西涼,,北燕
⇒十六国以外(西燕,仇池,,冉魏,翟魏,段部,宇文部,
[前涼(317〜376)]
武王(張軌)−昭公(張寔)−成公(張茂)−文公(張駿)−桓公(張重華)−哀公(張耀霊)−威王(張祚)−沖公(張玄靚)−悼公(張天錫)
張軌(255〜314)
  字は士彦。前涼の初代武王と追尊された。在位301〜314。安定郡烏氏の人。張温の子。家は代々儒学を伝え、孝廉で知られた。晋初に尚書郎・太子洗馬・散騎常侍などを歴任した。晋末の混乱のとき、河西のオアシス地帯が平穏で豊かなことに眼をつけた。永寧元年(301)、涼州刺史に任ぜられて赴任し、鮮卑族の叛乱を抑えて河西を支配した。永嘉の乱において、王弥・劉曜らが洛陽・長安を攻めたときは、勤王の軍を派遣した。晋の侍中・太尉・涼州牧に上り、西平郡公に封ぜられた。乱を避けた中原の人士を受け入れて、武興郡を立てた。農業や学問を奨励し、涼州の士人を重用して、半独立の体制を保った。生前は王を称することはなかった。

張寔(271〜320)
  字は安遜。前涼の二代高祖昭公。在位314〜320。張軌の子。西晋末に秀才に挙げられ、尚書カに任ぜられた。永嘉初年に涼州に入り、建武亭侯に封ぜられた。西中郎将となり、福禄県侯に改封された。父張軌が病にたおれると、副涼州刺史となった。張軌が没すると、州人に推されて州政を執った。晋の愍帝により涼州刺史・護羌校尉に任ぜられ、西平公に封ぜられた。西晋が滅ぶと、司馬睿に遣使して帝位につくよう勧めたが、領内では東晋年号を使わず、建興の年号を用い続けた。ときに劉弘が左道を用いて涼州の民心を惑わし、劉弘の信者の閻渉により殺害された。

張茂(276〜324)
  字は成遜。前涼の三代成公。在位320〜324。張軌の子。兄の張寔が没すると位を継ぎ、持節・平西将軍・涼州牧・西平公を称した。建興十年(322)、韓璞を遣わして隴西・南安の地を経略させ、その地に秦州を置いた。翌年、前趙の劉曜が二十八万の兵を率いて来攻したため、前趙の藩を称し、劉曜により涼州牧に任ぜられ、涼王に封ぜられた。

張駿(306〜346)
  字は公庭。前涼の四代世祖文公。在位324〜346。張寔の子。西晋の末年、霸城侯に封ぜられた。前涼二代張寔が没し、張茂が立つと、撫軍将軍・武威太守に任ぜられた。張茂が没すると位を継ぎ、持節・大将軍・涼州牧を称した。前趙に従属し、劉曜により涼王に封ぜられた。のち成漢に属し、東晋との間に仮道を通し、東晋より鎮西大将軍に任ぜられた。計略にたくみで、内政につとめ、賢者を登用して諫言をよく聞き入れた。隴西の地をことごとく領有し、前涼の全盛期を築いた。沙州刺史楊宣を遣わして、亀茲・鄯善を討ち、西域諸国に通交させた。また晋の戊己校尉趙貞がなびかなかったので、これを討ち捕らえ、高昌郡を置いた。建興三十三年(345)、涼州を涼州・河州・沙州に三分し、大都督・大将軍・仮涼王を自称し、三州を統治し、官署を置いた。

張重華(330〜353)
  字は泰臨。前涼の五代桓公。在位346〜353。張駿の次男。はじめ五官中郎将・涼州刺史となった。父が没すると位を継ぎ、涼州刺史・西平公・仮涼王を称した。後趙の将の麻秋が来攻したが、これを撃退した。麻秋が十数万の兵を率いて再び侵攻してきたが、謝艾を遣わしてこれを大いに破った。敵を連破してより、すこぶる政治を怠るようになり、讒言を信じて謝艾を酒泉太守として遠ざけた。軍を遣わして前秦の苻健を討ったが、大敗した。後趙からの降将王擢を秦州に遣わした。東晋により涼州牧に任ぜられたので、涼王の称が認められるよう工作したが、認められなかった。自領では丞相・涼王・雍秦涼三州牧を称した。

張耀霊(343〜353)
  字は元舒。前涼の六代哀公。在位353。張重華の子。張重華が没すると、十歳にして位を継ぎ、涼州刺史・西平公を称した。伯父の張祚が父の遺命により輔政にあたった。在位一月にして張祚に廃され、のち殺された。

張祚(?〜355)
  字は太伯。前涼の七代威王。在位353〜355。張駿の長男。張駿のとき、長寧侯に封ぜられた。張重華が没し、張耀霊が継ぐと、趙長らとともに張耀霊を廃し、自ら涼州牧・涼王を称した。のち帝を称し、和平と改元した。諫言をおこなった馬岌を免官し、功績の大きい謝艾を殺した。残虐無道で百姓に恨まれた。河州刺史張瓘・宋混らにより殺された。

謝艾(?〜354)
  前涼五代の張重華に仕え、はじめ主簿となった。後趙の石虎が王擢・麻秋の軍を遣わして前涼を攻めたとき、前涼の中堅将軍に任ぜられてこれを撃退した。その功績で、福禄伯に封ぜられた。さらに左長史に進み、福禄県侯に改封された。麻秋が十二万の軍を集めると、謝艾は持節・都督征討諸軍事・行衛将軍に任ぜられ、麻秋を破った。張重華はこれらの軍功を賞し、かれを重用したが、左右の嫉視を買って、酒泉太守として出された。かれは張祚が叛乱を起こそうとしていることを上疏したが、張重華の病が重く、取りあげられなかった。張重華が没すると、張祚が簒奪し、そのため殺された。『謝艾集』。

張玄靚(350〜363)
  字は元安。前涼の八代沖公。在位355〜363。張重華の庶子。和平二年(355)、河州刺史張瓘が張祚を殺すと、張瓘によって擁立された。建興年号に復し、四十三年とした。張瓘が功をたのんで簒奪を図ったため、尚書僕射宋混が張瓘を殺し、輔政にあたった。のち宋混は右司馬張邕によって殺され、張邕・張天錫が輔政にあたった。張天錫が張邕の一党をことごとく誅し、専権を握った。ついに張玄靚は張天錫に殺された。

張天錫(346〜406)
  字は純嘏。前涼の九代悼公。在位363〜376。張駿の末子。兄の張祚が立つと、長寧侯に封ぜられた。甥の張玄靚が立つと、中領軍に任ぜられ、張邕とともに輔政にあたった。のち張邕を殺した。升平七年(363)、張玄靚を殺して、涼州牧・西平公を自称した。内に庶政をかえりみず、外に前秦の攻撃を受け続けた。二十年(376)、苻堅が大挙して涼州に来攻したため、ついに前秦に降伏し、前涼は滅んだ。苻堅により北部尚書に任ぜられ、帰義侯に封ぜられた。のち右僕射となった。淝水の大戦において苻融のもとで征南司馬となり、戦陣において東晋に降った。西平郡公に封ぜられ、金紫光禄大夫に任ぜられた。隆安年間に廬江太守となった。桓玄が東晋に叛くと、涼州刺史に任ぜられた。


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