[十六国(304〜439)]
⇒十六国(前趙,後趙,成漢,前涼,前燕,前秦,後秦,後涼,後燕,西秦,南燕,南涼,北涼,西涼,,北燕
⇒十六国以外(西燕,仇池,,冉魏,翟魏,段部,宇文部,
[後秦(384〜417)]
太祖(姚萇)−高祖(姚興)−後主(姚泓)
姚萇(330〜393)
  字は景茂。後秦の初代太祖武昭帝。在位384〜393。南安郡赤亭の人。羌族の出身。姚弋仲の二十四男。父の代には前趙・後趙に属し、兄の姚襄の代に東晋に降伏したが、兄は前秦の苻堅と戦って敗死した。そのため姚萇は前秦に降伏して、苻堅に重用された。揚武将軍・左衛将軍・隴東太守・寧州刺史・幽州刺史・歩兵校尉などを歴任し、益都侯に封ぜられた。淝水の戦いの後、叛いた慕容泓の討伐を命じられたが大敗し、苻堅の怒りを恐れて渭北に遁走した。羌族の盟主となり、大将軍・大単于・万年秦王を称し、白雀と建元した。翌年、苻堅が慕容沖に敗れて長安を脱出すると、これを捕らえて殺害した。長安で帝を称し、国号を大秦とした。前秦の苻氏の勢力と闘い続けたが、根絶にいたらず、病没した。

姚興(366〜416)
  字は子略。後秦の二代高祖文桓帝。在位394〜416。姚萇の長男。前秦の苻堅のとき、太子舎人をつとめた。父・姚萇が後秦を建てると、皇太子となった。父が病没すると位を継いだ。前秦の残党を滅ぼすと、内政を整備し国力を充実させて、軍を西進させた。鮮卑の西秦を降伏させ、氐の後涼を滅ぼし、北涼・西涼を藩国として、華北西部に強盛を誇った。仏教を篤く信じ、大乗に通じ、鳩摩羅什を招聘した。晩年、病に苦しみ、宗室の内乱に悩んだ。

鳩摩羅什(343〜413)
  鳩摩羅耆婆。亀慈の人。鳩摩羅炎の子。母は亀慈の王妹。幼いころ母に従って出家した。はじめ槃頭達多に師事して小乗を学んだが、のち須利耶蘇摩に師事して大乗を修めた。苻堅が什の高名を聞いて迎えようとして、太安元年(385)に呂光に命じて亀慈を攻めさせた。呂光が自立すると抑留され、厚遇されたが、呂光は仏教の普及に無関心だったため志をえなかった。弘始三年(401)に後秦の姚興に迎えられて、国師の待遇を受けた。長安で大乗仏典の漢訳事業を推進し、七十四部三百八十四巻を訳した。とくに『妙法蓮華経』は名訳とされる。

(384?〜414)
  俗姓は張。京兆の人。はじめ家が貧しく、写本の仕事をしていて、老荘に通じていた。維摩経に感激して出家し、鳩摩羅什が姑臧にいたったことを知ると、赴いてこれに師事した。什に従って長安に入ると、その訳経事業に助力した。什はかれを「解空第一」(空理解の第一人者)と賞讃した。『注維摩詰経』、『肇論』。

尹緯(?〜?)
  字は景亮。天水の人。一族の尹赤が東晋の姚襄に降ったため、はじめ前秦に任官できなかった。のちに吏部令史となった。苻堅が淝水で敗れて後、尹詳・龐演らとともに羌の豪族たちを糾合し、五万戸を率いて姚萇に帰順し、姚萇を盟主に推して、姚萇に王と称するよう勧めた。後秦が建国されると右司馬となり、尚書左僕射に転じた。姚萇の病が重くなると、詔により輔政にあたった。姚興が立つと、長史となって軍を率いて前秦の苻登を討ち、これを大いに破った。鮮卑の薛勃が叛くと、姚崇とともに討ち平らげた。輔国将軍・司隷校尉・尚書左右僕射を歴任し、清河侯に封ぜられた。

姚泓(388〜417)
  字は元子。後秦の三代後主。在位416〜417。姚興の長男。博士淳于岐に経学を授けられ、博学で談論をよくし、詩詠を好んだ。太子に立てられ、録尚書事をつとめた。姚興が没すると即位した。外憂内患になやまされ、国勢は衰退した。東晋の劉裕の北伐を受け、洛陽以東を失陥した。并州刺史姚懿・征北将軍姚恢らがあいついで乱を起こし、これを討ち平らげたが、ますます勢威がふるわなくなった。永和二年(417)、劉裕の軍に長安に攻め入られ、捕らえられて建康で斬られた。これにより後秦は滅んだ。

韋華(?〜?)
  京兆の人。前秦に仕えて黄門郎となり、のち東晋に帰順した。隆安初年、襄陽の流民一万を率いて晋に叛き、後秦の姚興に降った。姚興に東晋の政治について問われると、「政策は多数の門閥から出て、緩んでいたり厳しかったりと適正を失している」と答えた。中書令に任ぜられ、司徒を兼ね、のち尚書右僕射・兗州刺史に転じた。東晋の劉裕の北伐を受けると降り、雍州別駕として用いられた。義煕十四年(418)、夏の赫連勃勃が関中を攻めると、夏に降った。


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