[十六国(304〜439)]
⇒十六国(前趙,後趙,成漢,前涼,前燕,前秦,後秦,後涼,後燕,西秦,南燕,南涼,北涼,西涼,夏,北燕
⇒十六国以外(西燕,仇池,,冉魏,翟魏,段部,宇文部,
[夏(407〜431)]
世祖(赫連勃勃)−廃主(赫連昌)−後主(赫連定)
赫連勃勃(381〜425)
  字は屈孑。夏の初代世祖武烈帝。在位407〜425。匈奴族鉄弗部の出身。劉衛辰の三男。父は前秦に帰属していたが、北魏の道武帝に攻められて一族とともに殺された。赫連勃勃は逃れて、後秦の姚興に従った。驍騎将軍に任ぜられ、奉車都尉を加えられた。安遠将軍に進み、陽川侯に封ぜられた。安北将軍に上り、五原公に改封された。のち朔方において自立して、陝西北部を平定し、天王大単于を称した。国号は大夏。鳳翔元年(413)、統万に都城を築いた。六年(418)、東晋の劉裕が北伐して長安を取り、後秦を滅ぼした。まもなく劉裕が南帰すると、赫連勃勃は長安を攻略し、帝を称した。長安を南都とした。性質は暴虐で、統治も苛酷であったといわれる。

赫連昌(?〜434)
  夏の二代廃主。在位425〜428。赫連勃勃の三男。はじめ太原公に封ぜられた。赫連勃勃が後秦の上邽を攻めると、前将軍・雍州刺史となり、陰密に鎮した。東晋が後秦を滅ぼすと、潼関に鎮し、諸軍と会して晋の劉義真・朱齢石らを攻めた。真興六年(424)、太子赫連潰が乱を起こすと、これを襲い殺し、太子に立てられた。翌年、位を継ぎ、承光と改元した。承光三年(427)、北魏に都の統万を落とされ、上邽に走った。四年(428)、再び北魏に敗れて平涼に奔り、安定で戦って、魏将の安頡に捕らえられた。平城に送られ、北魏の始平公主を娶され、会稽公に封ぜられた。のち秦王に改封された。延和三年(434)、北魏に叛いて西走したが、捕殺された。

赫連定(?〜432)
  夏の三代後主。在位428〜431。赫連勃勃の五男。はじめ平原公に封ぜられた。太子赫連潰が乱を起こして殺されると、雍州牧として長安に鎮した。兄の赫連昌が位を継ぐと、都に戻った。承光二年(426)、北魏の奚斤が長安を落とすと、長安奪回のため、これを攻めた。四年(428)、赫連昌が北魏に捕らえられると、平涼で帝を称した。長安を恢復し、いっとき北魏に臣を称した。南朝宋と連合して北魏を攻めようとしたが、鶉觚原で北魏と戦って敗れ、上邽に走り、関中を失った。勝光四年(431)、軍を遣わして南安を破り、西秦を滅ぼした。渡河して北涼を攻めようとしたが、吐谷渾に攻められて捕らえられ、身柄を北魏に送られた。ここに夏は滅んだ。翌年、殺された。


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