[十六国(304〜439)]
⇒十六国(前趙,後趙,成漢,前涼,前燕,前秦,後秦,後涼,後燕,西秦,南燕,南涼,北涼,西涼,,北燕
⇒十六国以外(西燕,仇池,,冉魏,翟魏,段部,宇文部,
[冉魏(350〜352)]
武悼天王(冉閔)
冉閔(?〜352)
  字は永會。魏の武悼天王。在位350〜352。魏郡内黄の人。冉瞻の子。石虎の養孫にあたる。後趙の石虎のもとで修成侯に封ぜられた。太寧元年(349)、石虎が没すると、石世を経て、後趙五代石遵のもとで都督中外諸軍事・輔国大将軍となった。しかしわずか半年で石遵を殺し、石鑒を帝として立て、大将軍に任ぜられた。永寧元年(350)、石鑒を殺して自立し、国号を衛とし、青龍と建元した。さらに帝位について、国号を魏とし、永興と改元した。石虎の子孫三十八人を殺し、羯族二十万人を老若男女の区別なく虐殺したといわれる。後趙残党の石祗を滅ぼしたが、前燕の慕容儁の軍に捕らわれて殺害された。

韋ソウ
※1(?〜350)
  字は憲道。京兆の人。儒学を好み著述をよくした。前趙の劉曜に仕え、黄門郎となった。のち後趙の石虎のもとで散騎常侍となり、七郡の太守を歴任した。廷尉に上った。太子太傅となり、京兆公に封ぜられた。冉閔が後趙に叛いて自立すると、光禄大夫となった。冉閔が子の冉胤を大単于とし、降胡をその麾下に配したが、これを固く諫めて冉閔の不興を買い、殺された。『伏林』、『典林』。
李農(?〜350)
  またの名は菟。石虎のとき、撫軍将軍に任ぜられた。建武五年(339)、持節・監遼西北平諸軍事・征東将軍・営州牧となり、令支に鎮した。十三年(347)、司空に上った。太寧元年(349)、梁犢が叛くと、大都督・行大将軍事に任ぜられ、歩騎十万を率いてこれを討ち、新安・洛陽において連破した。石世の即位後、張豺・張挙らに殺されそうになったため、衆を率いて都落ちした。石遵が石世を殺して自立すると、原職に復した。石冲が薊で叛乱を起こすと、冉閔とともに兵を率いてこれを討ち、石冲を捕らえた。また東晋の褚裒の北伐を撃退した。冉閔が石遵を殺して石鑒を立てると、大司馬・録尚書事となった。冉閔が石鑒を殺して魏帝を称すると、太宰・太尉・録尚書事となり、斉王に封ぜられた。冉魏の永興元年(350)、三人の子とともに冉閔により誅された。

王謨(?〜350)
  字は思賢。石虎のとき、尚書令に任ぜられた。冉閔・李農が後趙に叛くと、冉閔に従って尚書令に任ぜられた。のち李農とともに冉閔に殺された。

[註]
1.ソウ=ソウ


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