[十六国(304〜439)]
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⇒十六国以外(西燕,仇池,,冉魏,翟魏,段部,宇文部,
[後燕(384〜407)]
世祖(慕容垂)−烈宗(慕容宝)−開封公(慕容詳)−趙王(慕容麟)−中宗(慕容盛)−昭文帝(慕容煕)
慕容垂(326〜396)
  もとの名は霸。字は道明。後燕の初代世祖武帝。在位384〜396。昌黎郡棘城の人。鮮卑族慕容部の出身。前燕の慕容皝の五男。十三歳のとき、前燕の偏将となった。宇文氏を滅ぼすのに功績があり、都郷侯に封ぜられた。烈祖(慕容儁)が帝を称すると、呉王に封ぜられた。幽帝(慕容暐)が即位すると、河南大都督・征南将軍となった。建煕十年(369)、枋頭で桓温を破った。太傅の慕容評に疎まれて、命を狙われ、前秦に亡命した。冠軍将軍に任ぜられ、賓都侯に封ぜられた。前燕が滅びると、泉州侯に改封された。前秦の苻堅が淝水で東晋に敗れると、独立して燕王を称した。燕元三年(386)、都を中山に定め、帝を称し、建興と改元した。建興九年(394)には西燕を滅ぼし、旧前燕領をほぼ回復した。翌年、太子の慕容宝らに軍を率いて北魏を攻めさせたが、大敗して七万余の兵を失った。十一年(396)、北魏討伐の途上、喀血して病を発して没した。

慕容宝(355〜398)
  字は道祐。後燕の二代烈宗恵愍帝。在位396〜398。慕容垂の四男。前秦のとき、太子洗馬・陵江将軍をつとめた。父慕容垂が後燕を建て、帝を称すると、太子に立てられ、録尚書事を兼ねた。のち侍中・大単于・驃騎大将軍を加えた。建興十年(395)、兵八万を率いて北魏を攻めたが、参合陂で大敗して、軍を失って逃げ帰った。慕容垂が没すると、位を継ぎ、永康と改元した。慕容垂の遺令を守り、戸口を校閲し、諸軍営が郡県に分属するのをやめさせ、士族旧籍を定めさせた。しかし法令は峻厳で、上下の心は離れ、北魏と戦うとことごとく敗れた。永康三年(398)、臣下の蘭汗に龍城で殺された。

慕容麟(?〜398)
  昌黎郡棘城の人。慕容垂の庶子。慕容垂のもとで、撫軍将軍に任ぜられた。慕容垂が帝を称すると、趙王に封ぜられ、衛大将軍・尚書右僕射などを歴任した。慕容宝らとともに北魏を攻め、大敗して軍を失った。慕容宝が立つと、尚書左僕射となる。永康二年(397)、慕容宝を殺して自立しようとし、事敗れて丁零に出奔した。慕容詳が中山で帝を称すと、慕容詳を襲って殺し、自ら帝を称した。北魏に敗れて慕容徳を頼って逃れた。翌年、慕容徳に尊号を奉り、南燕の司空・尚書令となった。まもなく謀反の罪で死を賜った。

慕容盛(373〜401)
  字は道連。後燕の三代中宗昭武帝。在位398〜401。慕容宝の庶長子。長安で生まれた。前秦の建元二十年(384)、苻堅が長安の鮮卑族をことごとく殺そうとすると、ひそかに慕容沖のもとに逃れた。慕容沖が没すると、慕容垂に投じ、長楽公に封ぜられ、征西将軍・司隷校尉を歴任した。慕容宝が即位すると、長楽王に進んだ。永康三年(398)、慕容宝が蘭汗に殺されると、慕容盛も殺されそうになったが、これを返り討ちにした。建平と改元して、王位のまま統治を代行した。まもなく黄龍において帝を称した。翌年、長楽と改元した。性格が峻厳にすぎ、刑罰を濫用したので、臣僚はみな保身を危ぶんだ。長楽二年(400)、自ら庶民天王と貶号したが、濫刑は改まらなかった。翌年、禁中に兵変が起こり、傷を受けてまもなく没した。

慕容煕(385〜407)
  字は道文。後燕の四代昭文帝。在位401〜407。慕容垂の末子。建興八年(393)、河間王に封ぜられた。長楽元年(399)、都督中外諸軍事・驃騎大将軍・尚書左僕射に任ぜられた。三年(401)、慕容盛が段璣に殺されると、丁太后により立てられ、段氏をことごとく誅した。奢侈を好み、土木工事を興し、宮殿苑園を造営した。連年にわたって軍を出征させて、百姓を苦しめた。建始元年(407)、皇后の葬儀のため城を出たところ、部将の馮跋らが機に乗じて宮城を乗っ取り、次いで捕らえられて殺された。後燕はここに滅んだ。


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