[十六国(304〜439)]
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⇒十六国以外(西燕,仇池,,冉魏,翟魏,段部,宇文部,
[後涼(386〜403)]
太祖(呂光)−隠王(呂紹)−霊帝(呂纂)−後主(呂隆)
呂光(337〜399)
  字は世明。後涼の初代太祖懿武帝。在位386〜399。略陽郡の人。氐族の出身。呂婆楼の子。名家の生まれで、前秦に賢良として挙げられ、はじめ美陽令に任ぜられた。鷹揚将軍に進んだ。前燕が滅ぶと、都亭侯に封ぜられた。苻洛の叛乱を平定し、驍騎将軍に任ぜられた。建元十九年(383)、苻堅の命により十余万の兵を発して、西域を経略し、焉耆・亀慈などの西域諸国を平らげた。名僧・鳩摩羅什を得て帰国の途上、苻堅の淝水での敗戦を知った。呂光は姑蔵に入って自ら涼州刺史を称し、土着勢力の抵抗を抑え、前涼の残党を制圧した。苻堅が姚萇に殺害されたことを聞くと、自ら涼州牧・酒泉公を称した。太安四年(389)、三河王を称した。麟嘉八年(396)、天王を称した。国号は大涼。しかし政権は不安定で、旧勢力の叛乱や部下の内紛が絶えず、末年には匈奴族の北涼や鮮卑族の南涼が分離し、さらに王位継承の争いまで生じた。承康元年(399)、太子の呂紹に位を譲り、太上皇を称した。のち病没した。

王詳(?〜397)
  後涼の呂光に仕えて、中書令・尚書左僕射を歴任した。龍飛二年(397)、太常郭麘が呂光の老病に乗じて謀反をたくらみ、王詳も内応しようとした。事が洩れて、殺された。

呂紹(?〜399)
  字は永業。後涼の二代隠王。在位399。呂光の子。麟嘉元年(389)に世子に立てられ、龍飛元年(396)に太子に立てられた。承康元年(399)、呂光の病が重くなると、天王に立てられた。呂光が没すると、庶兄の呂纂に害されることをおそれて位を譲ろうとしたが、呂纂は受けなかった。呂纂と呂弘が起兵して攻められ、ついに自殺した。

呂纂(?〜401)
  字は永緒。後涼の三代霊帝。在位399〜401。呂光の庶長子。呂光のとき、虎賁中郎将となり、太原公に封ぜられた。承康元年(399)、呂光が太上皇となると、太尉に任ぜられた。呂光の死後、兵を率いて呂紹を攻め、位を奪った。酒色にふけって内政をかえりみず、南涼・北涼と争いを繰り返したため、国勢は衰微した。のちに呂超に殺された。

呂隆(?〜416?)
  字は永基。後涼の四代後主。在位401〜403。呂宝の子。北部護軍・中領軍などを歴任した。咸寧三年(401)、弟の呂超が呂纂を殺すと、天王位についた。権威を確立せんとして、豪族や名望家を多く殺したため、人心は離反した。後秦の姚興に攻められて、兵敗れて藩属した。後秦の涼州刺史・建康公となった。神鼎三年(403)、南涼・北涼に攻められて、長安に遷り、後涼は滅んだ。後秦により散騎常侍に任ぜられた。姚興の病が重くなると、姚愔の叛乱に従ったため、姚泓に殺された。


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