[十六国(304〜439)]
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[成漢(前蜀)(304〜347)]
景帝(李特)−秦文王(李流)−武帝(李雄)−哀帝(李班)−廃帝(李期)−昭文帝(李寿)−後主(李勢)
李特(?〜303)
  字は玄林。成漢の始祖景帝と追尊された。略陽郡臨渭の人。巴氐族の出身。李慕の子。元康八年(298)、一族や天水など六郡の流民を率いて蜀に入った。晋の益州刺史趙廞の爪牙となったが、趙廞が謀反をはかったため、これを攻め滅ぼした。功により宣威将軍に任ぜられ、長楽郷侯に封ぜられた。益州刺史羅尚が流民を郷里に帰そうとしたため、ついに起兵して羅尚の軍を破った。鎮北大将軍を称し、蜀の民に法三章を約し、財貨を施し、人材を選挙した。のち大将軍・益州牧を称した。太安二年(303)、成都に入城したが、備えを怠って羅尚らの兵に襲殺された。

李流(?〜303)
  字は玄通。成漢の秦文王。李特の弟。はじめ東羌督をつとめた。元康八年(298)、蜀に入った。永寧元年(301)、謀反をはかった益州刺史趙廞を兄李特とともに攻め滅ぼし、晋朝に報告して奮威将軍に任ぜられ、武陽侯に封ぜられた。のち李特が流民を率いて晋朝に反抗すると、そのもとで鎮東将軍をつとめ、東営にあって東督護と号した。建初元年(303)、李特が敗死すると、跡を継いで大将軍・大都督・益州牧を称した。晋軍を破り、晋の益州刺史羅尚を成都に囲んだ。晋の援軍を撃退し、郫城を奪った。范長生に軍糧を支援され、勢威は大いに振るった。同年のうちに病没した。

李雄(273〜334)
  字は仲儁。成漢の太宗武帝。在位304〜334。略陽郡臨渭の人。巴氐族の出身。李特の三男。李雄の母は大蛇が身にまとわりつく夢を見て李雄を孕んだという。西晋末に父李特が流民を率いて晋朝に反抗すると、前将軍となった。父の死後、叔父の李流が跡を継いだが、数ヶ月で病死し、李雄が首長となった。大都督・大将軍・益州牧を称し、晋に奪われた成都を奪還した。建初二年(304)、成都王を称し、建興と建元した。翌年には帝を称し、晏平と改元し、国号を大成とした。晏平六年(311)、李驤を遣わして涪城を奪い、玉衡と改元した。刑罰法令を簡略にし、夫役を軽減して、民心を定めた。治世の三十年間善政を布いたので、「時に海内大乱なるも、蜀のみひとり事なし」といわれた。

范長生(?〜318)
  もとの名は延久、字は元。涪陵郡丹興の人。博学で天文術数をよくした。天師道の首領となり、西晋末年に数千家を率いて青城山に拠った。李流の軍が飢えに苦しんだとき、軍糧を支援した。李雄は范長生が蜀人の間に声望があったため、君主として擁立しようとしたが、范長生はかえって李雄に自立を勧めた。李雄が成都王を称すると、丞相となり、范賢と尊称された。李雄が帝位につくと、四時八節天地太師と加号され、西山侯に封ぜられた。蜀人に神のように尊崇され、齢百歳近くして亡くなった。

李驤(?〜328)
  字は玄龍。李特の弟。李特が鎮北大将軍を称すると、驍騎将軍に任ぜられた。しばしば晋軍と戦い、功を挙げた。李特の死後、李流は晋に降ろうとしたが、李雄とともに反対した。李雄が成都王を自称すると、太傅となった。玉衡八年(318)、梁州刺史李鳳が巴西で叛くと、これを討ち滅ぼした。李雄の寛政を助け、生産を回復させ、文教を興し、学官を立てた。十八年(328)に没した。のちに子の李寿が帝位についたため、献皇帝と追尊された。

李班(287〜334)
  字は世文。成漢の哀帝。在位334。李蕩の四男。叔父の李雄の養子となった。玉衡十四年(324)、李雄が衆議に反して太子に立てた。下士に対して恭謙で、古制を守った。二十四年(334)、李雄が没すると、跡が継いで帝を称した。政治を李寿らに委ねて、喪礼を守った。李越・李期らが位を奪わんと起兵したため、ついに殯宮で殺された。

李期(314〜338)
  字は世運。成漢の廃帝。在位334〜338。李雄の四男。はじめ安東将軍となる。玉衡二十四年(334)、李雄が没すると、太子の李班が継いだが、李班が李雄の子でないのに不満を抱き、兄の李越とともに李班を弑し、帝を称した。旧臣を軽視し、阿諛の徒を寵遇して、朝政は乱れた。漢王李寿が禍がおのれに及ぶのをおそれて涪城に起兵し、歩騎一万で成都を襲った。李寿は太后の令と偽って李期を廃して邛都県令とし、別宮に幽閉した。のち殺された。

李寿(300〜343)
  字は武考。成漢の中宗昭文帝。在位338〜343。李驤の子。李雄が成都王を称したころ、母とともに晋の羅尚に捕らえられた。晏平五年(310)、釈放された。玉衡七年(317)、前将軍・督巴西軍事に任ぜられ、のち征東将軍となった。十八年(328)、大将軍・大都督・侍中に進み、扶風公に封ぜられた。二十三年(333)、寧州を落とし、南中の地を征服した。建寧王に封ぜられた。李雄の遺詔により輔政にあたることとなり、李班が立つと録尚書事となった。李期が立つと、漢王に改封され、涪城に鎮した。寵臣の李越・景騫らに憎まれたため、禍が及ぶのをおそれ、玉桓四年(338)についに起兵して成都を襲った。李期を廃して自ら帝を称した。国号を漢と改め、漢興と改元した。李雄の旧臣や六郡出身の人々は排斥された。石虎と連合して東晋を攻めようと企て、群臣に諫められた。奢侈を好み、宮室の増修築を繰り返したため、百姓は使役に苦しんだ。大臣で直諫する者はみな誅された。

李勢(?〜361)
  字は子仁。成漢の後主。在位343〜347。李寿の長男。李寿が没すると帝位についた。弟の李広を太弟に立てたが、のち自殺させた。荒淫にして政治をかえりみず、刑罰を濫用したため、国が傾いていった。嘉寧二年(347)、東晋の桓温の征討を受け、兵敗れて降り、成漢は滅んだ。東晋より帰義侯に封ぜられて、のち建康で没した。


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