[十六国(304〜439)]
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⇒十六国以外(西燕,仇池,,冉魏,翟魏,段部,宇文部,
[後趙(319〜351)]
高祖(石勒)−海陽王(石弘)−太祖(石虎)−斉公(石世)−彭城王(石遵)−義陽王(石鑒)−新興王(石祗)
石勒(274〜333)
  字は世龍。後趙の初代高祖明帝。在位319〜333。上党郡武郷の人。周曷朱の子。羯族の部族長の子であったが、窮乏したため漢人に売られ、山東の民家の奴隷となった。太安年間に飢饉のために山野に逃れて、馬賊の首領となり、諸勢力の下を転々とした。のちに、漢の劉淵に帰属し、河南・山東の経略を任された。永嘉三年(309)、鉅鹿・常山を攻め、君子営を作って漢人の知識人を集め、その中から張賓を抜擢した。劉聡が即位すると、并州刺史となり、汲郡公に封ぜられた。五年(311)、西晋の太尉・王衍を捕らえ殺した。光初元年(318)、劉曜が即位すると、大司馬・大将軍に上った。翌年、靳準の乱を平定し、趙王を自称した。趙王の十年(328)、太和と建元し、前趙の軍を破った。翌太和二年(329)、前趙を滅ぼし、劉曜を殺すと、天王を称し、のちに帝位についた。羯族を軍事基盤として、華北の大半を平定し、華南の東晋と対峙した。漢人士大夫を登用して、律令・官制を整えた。『趙書』などの史書を編纂させたといわれる。仏教を崇拝し、仏図澄を信奉したことでも知られる。

張賓(?〜323)
  字は孟孫。趙郡中丘の人。張瑤の子。若くして学問を好み、経史に広く通じた。日頃から自らを張良になぞらえ、劉邦に比する君主に出会うことを念願していた。西晋の永嘉三年(309)、石勒の軍が河北にいたると、石勒が大事をなすと見て、これに帰順した。はじめ軍功曹に任ぜられ、しばしば謀を献じて認められ、謀主となった。六年(312)、右長史・中塁将軍となった。石勒が趙王となると、濮陽侯に封ぜられた。朝政を総覧し、五品を選挙して定めた。石勒はかれを右侯と尊称した。晩年は程遐のために君臣の間を裂かれ、権力は削られた。まもなく病没した。

孔萇(?〜?)
  石勒が河北で勢力を伸ばすと、その爪牙となった。晋の王衍の軍を破って捕らえたとき、石勒に王衍を殺すよう勧めた。劉琨・倦ア・段匹テイ
※1らを攻め、幽州諸郡を平定するのに功績があった。
王陽(?〜?)
  永嘉元年(307)、石勒に従って起兵し、十八騎のひとりとなる。石勒が河北に勢力を伸ばすと、遊撃将軍となった。石勒が趙王を称すると、胡漢分治を実行し、支雄とともに門臣祭酒となり、胡人の争訟を担当した。東晋の祖逖が没すると、石勒の命を受けて豫州に屯し、祖約を圧迫した。また石勒の次男石弘の教育にあたった。趙王の八年(326)、石弘が鄴に鎮すると、驍騎将軍となり、門臣祭酒を領した。

石弘(314〜335)
  字は大雅。後趙の二代廃帝。在位333〜334。石勒の次男。趙王の四年(322)、世子に立てられ、中領軍となり、のち衛将軍をつとめた。石勒が鄴宮を建てると、鄴に鎮した。石勒が趙天王を称すると、太子に立てられ、大単于を称した。石勒が没すると、即位したが、従兄の石虎に政務を専断された。在位二年にして廃され、海陽王とされた。のち殺された。

石虎(295〜349)
  字は季龍。後趙の三代太祖武帝。在位334〜349。石勒の甥にあたる。石勒の養子となり、軍を率いて敵する者がなかった。劉煕を捕殺し、前趙を滅ぼした。石勒が帝位につくと、太尉・尚書令となり、中山王に封ぜられた。石勒が没して、子の石弘が帝位を継ぐと、朝政を総攬した。在位二年で弘を殺し、趙の天王を称し、建武と改元した。後趙の国勢はもっとも栄えたが、遊猟や宮殿建築にふけり、後宮を拡張して数万におよぶ婦女を徴発するなど、濫費を重ねた。また宗族や臣下や庶民を多く殺傷したので、人心は離反した。

夔安(?〜340)
  永嘉元年(307)、石勒に従って起兵し、十八騎のひとりとなる。石勒が河北に勢力を伸ばすと、中堅将軍となった。石勒に従って寿春を攻め、また王浚を攻めた。石勒が趙天王を称すると、左司馬から尚書になった。石弘が立ち、石虎が専権を握ると、鎮軍将軍・左僕射となる。石虎が石弘を廃して立つと、侍中・太尉・尚書令となり、のち太保に進んだ。百官とともに石虎に帝を称するよう勧めた。建武五年(339)、征討大都督となり、歩騎七万を率いて、東晋の荊州・揚州の北部を攻め、七万戸を掠めて凱旋した。

支雄(?〜?)
  祖先は月氏の出身という。永興二年(305)、石勒に従って起兵し、十八騎のひとりとなる。王浚・劉演を攻めて功を重ね、中塁将軍となる。石勒が趙王を称すると、門臣祭酒となり、胡人の争訟を担当した。後趙の建武四年(338)、龍驤大将軍となり、石虎に従って遼西鮮卑の段部を攻め、長駆して薊に入った。漁陽など遼西の諸郡を降らせ、段部を滅ぼした。

王波(?〜344)
  はじめ石勒のもとで牙門将となった。趙王の八年(326)、記室参軍となり、九流を定め、秀才・孝廉試経の制を定めた。また裴憲とともに朝儀を撰し、石勒の王者としての容儀を整えさせた。石虎が摂趙天王を称すると中書令となった。のち武郷から玉璽が献じられると、「玄璽頌」を奉って石虎にへつらった。中書監に転じたが、建武六年(340)に成漢の無礼を許すように進言して、石虎の怒りを買い、白衣守中書監に降格された。十年(344)、石虎は天文に凶兆があるとそそのかされて、貴臣を殺そうと決意し、王波の前科を追求して殺した。のち名誉回復されて司空を追贈された。

仏図澄(232〜348)
  俗姓は帛。亀慈の人。ケイ
※2賓国に行って小乗仏教を学んだ。永嘉四年(310)に洛陽にいたり仏法を広めようと志した。洛陽に寺を建立しようとしたが、劉曜の寇略にあって頓挫。ときに石勒が葛陂にあって沙門を多く殺していたので、これを諭そうと軍門を叩いた。器に張った水に焼香し呪すと、須臾のうちに青蓮華を生み、光色が曜変したので、石勒はかれに信服した。石勒の死後、石虎が鄴に遷都すると、これに従った。石虎の尊崇もえて、「大和尚」と尊称された。寺院の建立は八百九十三、門下は一万人といわれた。また神異道術の達人であったともいわれる。のちに鄴官寺で百十七歳で寂した。
麻秋(?〜350)
  太原の人。延煕元年(334)、石虎のもとで将軍となり、氐の蒲洪を討って降した。建武四年(338)、遼西鮮卑の段遼がいつわって降伏してくると、麻秋は三万の兵を率いて降を迎えようとしたが、伏兵に遭って大敗し、官を削られた。十二年(346)、涼州刺史に任ぜられて、前涼を攻めたが、涼将の謝艾のために敗れた。冉閔が後趙から自立すると、枹罕から鄴に帰ろうとした。途中で氐の苻雄に捕らえられ、苻洪のもとで軍師将軍となった。苻洪に長安を都とするよう説いて、容れられた。のちに苻洪を毒殺すると、苻雄に殺された。

石世(339〜349)
  後趙の四代廃帝斉公。在位349。石虎の子。はじめ斉公に封ぜられた。石虎が太子の石宣を廃殺したのち、張豺の建議により太子に立てられた。太寧元年(349)、石虎が没すると、即位した。母劉太后と丞相張豺が政務を専断した。在位三十三日にして石遵が兵を率いて入朝し、張豺を斬ると、廃されて譙王となった。のち殺された。

張豺(?〜349)
  西晋末年に王浚に従い、游綸とともに数万の兵を擁して苑郷に鎮した。のち石勒に降り、戎昭将軍となる。前趙を攻めて上邽を抜き、劉曜の娘を捕らえて石虎に献じた。その劉氏は石世を産んだ。建武十四年(348)、石虎を説いて石世を太子となした。翌年、石虎の病が篤くなると、鎮衛大将軍・領軍将軍・吏部尚書となり、石遵・石斌とともに輔政にあたるよう遺言された。石虎が没し石世が立つと、劉太后と謀って石斌を殺し、太保・都督中外諸軍事・録尚書事に上った。また李農を誅殺しようとして謀って、人心を失った。ときに石遵が起兵して鄴に入り、捕らえられて殺された。

石遵(?〜349)
  字は太祗。後趙の五代彭城王。在位349。石虎の九男。はじめ斉王に封ぜられた。石虎が即位すると、彭城公となった。石虎の病が篤くなると、大将軍となり、関右に鎮した。石虎が没し石世が立つと、劉太后と張豺が専権を握ったので、これを打倒すべく姚弋仲・苻洪・冉閔らを説いて起兵した。太寧元年(349)、軍を率いて鄴に入り、張豺を斬り、石世を殺して帝を称した。のち冉閔と政権を争い、在位百八十三日にして殺された。

石鑒(?〜350)
  字は太焉B後趙の六代義陽王。在位349〜350。石虎の三男。はじめ代王に封ぜられ、のち義陽王に改封された。関中に鎮して、重い賦役で民を苦しめた。民心を失って、石虎の怒りを買い、鄴に呼び戻された。石虎が没し石世が立つと、右丞相となった。石遵が石世を廃して立つと、侍中・太傅となった。冉閔が石遵を殺して石鑒を擁立した。国号を衛と改め、青龍と改元した。冉閔を除こうとして、兵敗れ、冉閔に捕殺された。

石祗(?〜351)
  後趙の七代新興王。在位350〜351。石虎の庶子。はじめ新興王に封ぜられた。冉閔が石鑒を殺して自立すると、石祗は襄国において帝を称した。石琨を相国とし、兵十万を率いて冉閔を攻めたが、邯鄲において敗れた。冉閔が襄国を攻めると、おそれて帝号を去り、趙王を称した。のち部将の劉顕に殺された。

[註]
1.テイ=テイ

2.ケイ=


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