[十六国(304〜439)]
⇒十六国(前趙,後趙,成漢,前涼,前燕,前秦,後秦,後涼,後燕,西秦,南燕,南涼,北涼,西涼,夏,北燕)
⇒十六国以外(西燕,仇池,代,冉魏,翟魏,段部,宇文部,蜀)
[仇池(296〜506)]
楊茂捜−楊難敵−楊毅−楊初−楊国−楊俊−楊世−楊纂−楊定−楊盛−楊玄−楊保宗−楊難当−楊保熾−楊文徳−楊元和−楊僧嗣−楊文度−楊文弘−楊后起−楊集始−楊紹先
楊茂捜(?〜317)
前仇池の初代。もとの姓は令狐。名は戊捜とも書く。略陽郡清水の人。氐族の出身。氐王の楊飛竜の養子となって、改姓して楊氏を名乗った。西晋の末年、楊飛竜の死後に部衆を率いて略陽より仇池に遷った。輔国将軍・右賢王を自称し、関中の人士を多く集めた。晋の愍帝により、驍騎将軍・左賢王に任ぜられた。
楊難敵(?〜334)
前仇池の二代。略陽郡清水の人。氐族の出身。楊茂捜の子。建武元年(317)、楊茂捜が亡くなると、跡を継いだ。自ら左賢王を号して、下弁に駐屯し、弟の賢頭に右賢王を号させて、河池に駐屯させた。永昌元年(322)、前趙の劉曜の軍が来攻したため、前趙の藩を称した。太寧元年(323)、前趙の攻撃を受けて、仇池から漢中にうつり、成漢に人質を送って降った。成漢に臣節をつくさず、成将の李琀・李稚に攻められたが、これを撃ち破った。前趙が衰退すると再び仇池に拠った。のちに再び成漢に降った。
楊定(?〜394)
後仇池の初代。武王。略陽郡清水の人。氐族の出身。楊仏奴の子。仇池で内乱が起こると、父に従って前秦に逃れた。苻堅の娘をめとり、前秦に仕えて尚書・領軍将軍となった。淝水の戦いの後、前秦が乱れたが、秦のために力を尽くした。苻堅が没すると、秦州牧・隴西王を自称した。前秦の苻登により左丞相・都督中外諸軍事・秦梁二州牧を加えられた。また東晋の臣を称し、孝武帝に仇池郡に国を立てられるよう願い出た。のちに西秦の乞伏乾帰の部将の軻弾らに攻められて殺された。
楊盛(364〜425)
後仇池の二代。略陽郡清水の人。氐族の出身。楊定の甥。太元十九年(394)、楊定が西秦の乞伏乾帰に殺されると、仇池において跡を継ぎ、征西将軍・秦州刺史・仇池公を自ら号した。諸氐羌を二十部に分けて護軍とし、郡県を置かず、各地に駐屯させた。東晋の藩を称し、仇池公に封ぜられた。また北魏の藩を称し、仇池王に封ぜられた。義煕元年(405)、後秦に攻められて降り、武都侯に封ぜられた。八年(412)、後秦に叛き、岐山を攻めた。南朝宋が建国されると、武都王に封ぜられた。しかるに、晋臣を自称し、東晋の義煕年号を使いつづけた。
楊難当(?〜?)
後仇池の五代。略陽郡清水の人。氐族の出身。楊盛の子。元嘉二年(425)、父が亡くなると、兄の楊玄が立った。六年(429)、楊玄が没すると、楊玄の子の楊保宗が立った。まもなく保宗を廃して、都督雍涼秦三州諸軍事・征西大将軍・開府儀同三司・秦州刺史・武都王を自称した。翌年、南朝宋により武都王に封ぜられた。九年(432)、益州の流民の許穆が衆を集めて叛乱すると、兵を遣わしてこれを援助し、益州を侵させた。翌年、北魏により、征南大将軍・秦梁二州牧に任ぜられ、南秦王に封ぜられた。兵を挙げて宋を襲い、漢中の地を併せ、西に兵を返して上邽に拠った。十三年(436)、大秦王を自称し、建義と建元した。日和見して宋と北魏の間を腹背繰り返した。のちに北魏の来攻をおそれて、仇池に退いてそこに鎮した。十九年(442)、宋に敗れて仇池を捨て北魏に亡命した。
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