[十六国(304〜439)]
⇒十六国(前趙,後趙,成漢,前涼,前燕,前秦,後秦,後涼,後燕,西秦,南燕,南涼,北涼,西涼,夏,北燕)
⇒十六国以外(西燕,仇池,代,冉魏,翟魏,段部,宇文部,蜀)
[前燕(337〜370)]
高祖(慕容廆)−太祖(慕容皝)−烈祖(慕容儁)−幽帝(慕容暐)
慕容廆(269〜333)
字は弈洛瓌。前燕の高祖宣武帝と追尊された。在位285〜333。昌黎郡棘城の人。鮮卑族慕容部の出身。慕容渉帰の子。晋の太康六年(285)、族人によって慕容部の首長に擁立された。兵を発して東は扶余を攻め、また晋の東北辺境を騒がせた。のち晋に降り、鮮卑都督に任ぜられた。元康四年(294)、大棘に都を定めた。諸部に農耕養蚕を勧め、中原の法制を学ばせた。永嘉元年(307)、鮮卑大単于を自称した。愍帝の建興年間に、昌黎遼東二国公に任ぜられた。西晋が滅ぶと、中原から流民数万家がかれのもとに投じた。郡を立てて流民を統治し、賢才を挙げて庶政を委ねた。東晋より車騎将軍に任ぜられた。燕王に封ぜられることを求めたが、東晋の朝議が定まらぬうちに没した。
裴嶷(?〜?)
字は文冀。河東郡聞喜の人。西晋のとき、中書侍郎・昌黎太守などを歴任した。京師に帰ろうとしたが、遼西の乱に遭って道が途絶し、慕容廆に投じた。慕容廆のもとで長史となり、軍国の謀を献じた。大興二年(319)、宇文悉独官と高句麗と段部が連合して棘城に来攻すると、かれは慕容廆に謀を授けて連合軍を破った。東晋に使いして慕容廆の名を江左に知らしめ、東晋元帝(司馬睿)の封賞を得た。帰国後、遼東相となり、楽浪太守に転じた。
高瞻(?〜320)
字は子前。渤海郡脩県の人。西晋の末年、尚書郎に任ぜられた。永嘉の乱が起こると、幽州刺史王浚の下についたが、王浚の政策に一貫性がなかったので去り、遼東の崔についた。崔が慕容廆に敗れると、衆を率いて慕容廆に降った。病と称して、将軍の任につかなかった。宋該が慕容廆にかれを除くよう勧めたので、憂死した。
慕容皝(297〜348)
もとの名は晃。字は元真。前燕の太祖文明帝。在位333〜348。慕容廆の三男。慕容廆が遼東公となると、世子に立てられた。東晋の建武元年(317)、冠軍将軍に任ぜられた。のち左賢王・平北将軍となり、朝鮮公に封ぜられた。咸和八年(333)、慕容廆が没すると、位を継いだ。翌年、東晋より平州刺史・大単于・遼東公に任ぜられた。咸康三年(337)、自ら燕王を称した。翌年、後趙の石虎が数十万の兵を率いて来攻したが、子の慕容恪を遣わして撃退した。七年(341)、陽裕らに竜城を築かせて、新たな都とした。八年(342)、東に高句麗を攻め、丸都城を毀った。建元元年(343)、宇文逸豆帰を破って、宇文部を滅ぼした。『典誡』。
慕容仁(?〜336)
昌黎郡棘城の人。鮮卑族慕容部の出身。慕容廆の子。はじめ征虜将軍となり、平郭に鎮した。太寧三年(325)、石勒が宇文乞得帰を遣わして燕を攻めさせると、平郭より出兵して迎え撃ち、宇文乞得帰を大いに破った。慕容廆が没して、慕容皝が継ぐと、弟の慕容昭と謀って挙兵し、慕容皝を廃さんとした。敗れて平郭に帰り、遼東の地を併せて、車騎将軍・平州刺史・遼東公を自称した。のち慕容皝に攻められ、捕殺された。
陽裕(?〜?)
字は士倫。北平郡無終の人。陽耽の甥にあたる。西晋の末年、幽州刺史王浚のもとで治中従事に任ぜられた。王浚が敗れると段眷に投じ、郎中令・中軍将軍となった。段氏の五主に歴仕し、重んぜられた。咸康四年(338)、後趙の石虎に降って北平太守に任ぜられた。まもなく前燕の慕容皝に捕らえられて、燕の郎中令・大将軍左司馬・唐国内史を歴任した。七年(341)、龍城建設を主導した。慕容皝が東に高句麗を破り、北に宇文帰を破るのに謀を献じた。
慕容儁(319〜360)
字は宣英。前燕の烈祖景昭帝。在位348〜360。昌黎郡棘城の人。鮮卑族慕容部の出身。慕容皝の次男。慕容皝が燕王となると、左賢王に封ぜられ、その世子となった。永和四年(348)、皝の死去にともない燕王位を継いだ。後趙に内乱が起こり、冉閔が帝を称すると、これを攻め破った。儁の四年(352)、冉魏を滅ぼし、帝位についた。国号は大燕。翌年、薊に都を遷した。光寿元年(357)、鄴に都を遷し、江南の東晋、陝西の前秦と対峙した。中国的国家体制を取り入れて、統治につとめた。太子の慕容嘩の急死によって、幼い慕容暐が皇太子となり、後事に憂いを残しつつ病没した。
韓恒(?〜?)
字は景山。安平郡灌津の人。経籍に広く通じた。西晋の末年、遼東の平州刺史崔に投じた。慕容廆が崔を破ると、慕容廆のもとで参軍事となった。慕容廆が王を称することに反対し、新昌令に出された。慕容皝のとき、また参軍事となり、営丘太守にうつった。慕容儁が大将軍となると、諮議参軍・揚烈将軍となった。慕容儁が帝を称すると、中書令となった。慕容儁が群臣を召して燕の五行の次を定めようとしたとき、衆議に反して木徳を主張して、慕容儁はこれに従った。のちに李産とともに太子慕容曄の傅役となった。
李産(?〜?)
字は子喬。范陽の人。西晋の末年、祖逖に従って南渡した。のちに祖逖と合わず、郷里に帰って後趙に仕え、范陽太守に任ぜられた。慕容儁が南征して薊にいたると、衆は潰えて降り、范陽守に任ぜられた。のち尚書に進んだ。慕容儁はその儒雅なるを敬い、太子太保に任じたが、固辞して帰り、家で亡くなった。
慕容暐(350〜384)
字は景茂。前燕の幽帝。在位360〜370。慕容儁の次男。元璽三年(354)に中山王に封ぜられ、翌年に皇太子に立てられた。建煕元年(360)、位を継ぎ、国事を慕容恪に委ねた。太師慕輿根が簒奪を図ったため、これを誅した。慕容恪は死に臨んで慕容垂を後継に推したが、皇太后可足渾氏と慕容評が慕容垂を謀殺しようとしたため、慕容垂は前秦の苻堅を頼って逃げた。可足渾氏と慕容評の施政によって、前燕の政治は退廃し、軍の士気も落ち込んだ。十一年(370)、前秦の王猛が前燕を滅ぼし、慕容暐を捕らえた。前秦により新興侯に封ぜられ、尚書に任ぜられた。苻堅が淝水に敗れ、慕容垂が起兵して前秦に叛くと、呼応して兵を挙げようとしたが、事洩れて苻堅に殺された。
慕容恪(?〜369)
字は玄恭。昌黎郡棘城の人。鮮卑族慕容部の出身。慕容皝の四男。若くして慕容皝の征戦に従い、臨機応変の奇策を多く出したという。咸康七年(341)、度遼将軍に任ぜられ、平郭に鎮し、高句麗をことごとく破った。慕容皝の十三年(346)、慕容儁とともに扶余を攻め、その王を捕らえ、その民五万余を得て凱旋した。慕容皝の死に臨んで、輔相の任を委ねられた。慕容儁により、輔国将軍に任ぜられ、主力を率いて冉閔を攻め、転戦して大功を挙げた。慕容儁が帝を称すると、太原王に封ぜられ、侍中・仮節・大都督・録尚書事となった。慕容暐が立つと、太宰・録尚書・行周公事となった。かれの生前は前秦の苻堅もかれの手腕をはばかって攻めて来なかった。死に臨んで慕容垂を後継に推薦した。
陽騖(?〜369)
字は士秋。右北平郡無終の人。陽耽の子。慕容廆のとき、平州別駕に任ぜられた。慕容皝のとき、司隷校尉となり、帷幄に参じて謀を献じた。慕容儁のとき、尚書令・司空に進み、慕容儁が中原に進出するのを補佐した。慕容暐が即位すると、太尉に任ぜられた。顕位に上ってもなお恭謙篤実な態度をくずさなかった。
皇甫真(?〜?)
字は楚季。安定郡朝那の人。慕容廆のもとで遼東国侍郎となった。慕容皝のとき、平州別駕となった。歳賦を減らし夫役を休ませるよう発議して、慕容皝の意にそまず、免官された。のちに後趙を破った功により、奉車都尉・遼東営丘二郡太守に任ぜられた。慕容儁のとき、尚書左僕射に上った。慕容暐のとき、太尉・侍中となった。前秦の苻堅が前燕を滅ぼすと、奉車都尉として用いられた。数年後に没した。
人物事典トップへもどる