[十六国(304〜439)]
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⇒十六国以外(西燕,仇池,,冉魏,翟魏,段部,宇文部,
[北涼(397〜439)]
建康公(段業)−武宣王(沮渠蒙遜)−哀王(沮渠牧犍)−河西王(沮渠無諱)−河西王(沮渠安周)
段業(?〜401)
  京兆郡の人。はじめ前秦の呂光のもとで参軍をつとめ、西域遠征に従った。呂光が後涼を建てると、著作郎・尚書・建康太守を歴任した。竜飛二年(397)、後涼から自立し、沮渠蒙遜に推されて大都督・竜驤大将軍・涼州牧・建康公を称した。のちに涼王を称した。沮渠蒙遜からの奪権を企図したが、かえって殺された。

沮渠蒙遜(368〜433)
  北涼の太祖武宣王。在位401〜433。臨松の人。盧水胡の出身。はじめ後涼に属していたが、伯父たちが西秦攻撃中に叛乱を企てて殺されると、蒙遜も叛乱を謀って失敗した。建康太守の段業を推戴して、張掖太守・臨池侯となり、河西の西半分を勢力下においた。尚書左丞・西安太守に遷った。基礎が固まると、段業を殺して張掖で自立した。涼州牧・張掖公を称した。後秦の藩国となり、沙州刺史・西海侯に任ぜられた。支配下から西涼が独立したが、南涼と結んで後涼を滅ぼした。ついで南涼を駆逐し、玄始元年(412)には河西王と称し、姑臧に都を置いた。十年(421)、西涼を滅ぼして西域との道を開いた。晩年は荒淫猜虐にふけったという。

沮渠牧犍(?〜447)
  北涼の二代哀王。在位433〜439。沮渠蒙遜の三男。はじめ酒泉・敦煌の太守を歴任し、のち世子として立てられた。永和元年(433)、河西王の位を継いだ。文学を好み、闞駰・張湛・劉モらが重用され、ひととき河西の文風が盛んになった。北魏に遣使して涼州刺史に任ぜられた。また南朝宋に遣使して、『敦煌実録』『謝艾集』などを献じた。七年(439)、北魏の太武帝が大軍を率いて来攻し、北涼は滅ぼされた。沮渠牧犍と宗族士民三万戸は平城に遷された。征西大将軍に任ぜられた。のち謀反の罪により死を賜った。

沮渠無諱(?〜444)
  河西王。在位443〜444。沮渠蒙遜の四男。沮渠牧犍のとき、征西将軍・沙州刺史を歴任した。永和七年(439)、兄の牧犍が北魏に降ると、族人を率いて敦煌太守沮渠唐児のもとに逃れた。北魏の酒泉を攻め、太守を捕らえた。のち北魏に降り、涼州牧となり、酒泉王に封ぜられた。沮渠唐児の叛乱に遭い、これを斬ったが、機に乗じて北魏の来攻を受け、敦煌を捨てて弟の沮渠安周の拠る鄯善に逃れた。高昌を攻めて陥し、南朝宋に遣使して涼州刺史に任ぜられ、河西王に封ぜられた。翌年没した。

沮渠安周(?〜460)
  河西王。在位444〜460。沮渠蒙遜の子。沮渠牧犍のとき、楽都太守となった。永和七年(439)、牧犍が北魏に降ると、吐谷渾に投じた。のち兄の沮渠無諱が高昌で自立すると、鄯善に鎮した。承平二年(444)、無諱が没すると、跡を継いだ。宋に遣使して、西域戊己校尉・涼州刺史に任ぜられ、河西王に封ぜられた。八年(450)、車師を攻めて抜いた。十八年(460)、柔然が高昌に来攻すると殺された。


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