[五代十国(907〜960)]
⇒五代(後梁,後唐,後晋,後漢,後周
⇒十国(,南唐,前蜀,後蜀,南漢,,荊南,呉越,,北漢
[呉越(907〜978)]
太祖(銭鏐)−世宗(銭元瓘)−忠献王(銭佐)−忠遜王(銭倧)−忠懿王(銭俶)
銭鏐(852〜932)
  字は具美。呉越の太祖武肅王。在位907〜932。杭州臨安の人。若い頃は無頼の徒で、塩の密売を生業とし、盗みを働いていた。唐末に石鏡鎮の董昌の軍に投じ、偏将となり、黄巣の乱の鎮圧に活躍した。杭州刺史に任ぜられた。楊行密から蘇州・常州を奪い、鎮海軍節度使に任ぜられた。次いで彭城郡王に封ぜられ、鎮海・鎮東軍節度使に上った。両浙地方を支配し、後梁が興ると、呉越王に封ぜられ、淮南節度使を兼任した。郢王友珪の代には尚父と尊称され、末帝の時代には元帥の位が加えられた。李存勗の後唐が興ると入貢するなど、時の中原王朝と結んで呉と対抗した。杭州城を修築し、水利事業につとめ、文人を優遇するなど内政にもつとめた。

羅隠(833〜909)
  もとの名は横、字は昭諫。新登の人。『讒書』を作って唐の政治を風刺し、権門に逆らったため、何度科挙に応じても進士に及第しなかった。節度使の幕下を転々としたが満足せず、故郷に帰った。晩年、呉越王銭鏐に仕えて、銭塘県令・塩鉄発運副司・司勲郎中・諫議大夫などを歴任した。後梁の朱全忠が即位すると、給事中として招いたが応ぜず、杭州で没した。『甲乙集』。

銭元瓘(887〜941)
  字は明宝。呉越の世宗文穆王。在位932〜941。銭鏐の五男。杭州で生まれ、幼いころ田頵のもとに人質に出された。のちに田頵に殺されそうになったが、田頵の母に庇護された。田頵が戦死すると、帰ることができた。父の下で功績を立てることが多く、軍民の支持をえた。長興三年(932)、国王位を継ぎ、よく租税を免じて、民力をたくわえた。王延政が建州で自立すると閩を攻めたが、敗れた。弟の銭元珦が驕慢で、不法をほしいままにしたので、これを幽閉した。のちに杭州で大火があり、宮室を焼いたため精神を病み、亡くなった。文集に『錦楼集』があったがすでに佚した。『全唐文』に文四篇が残る。

銭佐(928〜947)
  字は元祐。呉越の忠献王。在位941〜947。銭元瓘の六男。父が亡くなると、十四歳で位を継いだ。曹仲達が摂政にあたった。民間の租税を免じ、関梁の禁を除いた。章徳安・李文慶らの大将を除き、内都監杜昭達らを殺して、驕将をいましめた。天福八年(943)、後晋により呉越国王に封ぜられた。開運三年(946)、福州の李弘達が南唐に攻められて救援を求めると、呉越の兵を海陸両路から進めた。翌年、南唐の軍を破り、福州を併呑した。

銭倧(929?〜971?)
  字は隆道。呉越の忠遜王。在位947。銭元瓘の七男。兄の銭佐が亡くなると、位を継いだ。兵権をもつ宿将たちを制することができず、礼法をもって縛ろうとしたため支持もえられなかった。乾祐元年(948)初、統軍使胡進思が政変を発動し、東府越州(紹興)にうつされて幽閉された。以後詩と酒を楽しみ、二十年余の歳月を費消しつつ亡くなった。

銭俶(929〜988)
  字は文徳。呉越の忠懿王。在位948〜978。銭元瓘の九男。兄の銭倧が廃されると、位を継いだ。後漢により呉越国王に封ぜられた。中原王朝に臣事し、進貢を絶やさなかった。在位中よく租税を免じ、民を募って開墾につとめ、農業が発達した。後周が淮南を攻めると、兵を出して後周を助けた。宋が建国されると、貢献につとめた。宋が南唐を平定するとき、兵を出して宋を助けた。太平興国三年(978)、自ら入朝して呉越の地を宋に献じ、淮海国王に封ぜられ、開封に移住した。呉越はここに滅んだ。のちにケ王に改封された。


人物事典トップへもどる