[五代十国(907〜960)]
⇒五代(後梁,後唐,後晋,後漢,後周
⇒十国(,南唐,前蜀,後蜀,南漢,,荊南,呉越,,北漢
[後漢(947〜950)]
高祖(劉知遠)隠帝(劉承祐)
劉知遠(895〜948)
  後漢の高祖⇒
杜重威(?〜948)
  朔州の人。後晋高祖(石敬瑭)の妹婿にあたる。禁兵をつかさどり、潞:州節度使・同平章事となった。成徳節度使安重栄が謀反すると、これを討ち平らげ、成徳節度使に任ぜられて、鎮州に駐屯した。民に重税を課し、府州の財物を私物化した。契丹に近いことを恐れたため、鄴都留守にうつされた。開運三年(946)、元帥となって恒州で契丹の侵攻を防いだが、善戦した王清を見捨て、帝となることを許した契丹の甘言に乗って降伏した。契丹に従って汴京に入り、大同元年(947)に遼太宗(耶律徳光)が汴京に入ると、鄴都に帰らされた。劉知遠が後漢を建てると、帰徳に移鎮を命ぜられたので、叛乱を起こした。食糧が尽きたため降伏し、中書令に任ぜられた。出かけるたびに道行く人に罵声を浴びせられ、瓦礫を投げつけられたという。劉知遠が亡くなると殺されて、市民が争ってその肉を食らったという。

李守貞(?〜949)
  兵卒の出身で、後晋の高祖(石敬塘)の征戦に従って重んじられるようになった。後晋の少帝(石重貴)が帝位を継ぐと、守貞は杜重威とともに契丹に投降し、のちに杜重威は誅殺された。趙思綰が長安を占拠すると、李守貞は秦王を自称した。劉知遠が帝を称して後漢を建てると、守貞は河中にうつった。乾佑元年(948)、守貞は永興の趙思綰と鳳翔の王景崇と結んで叛乱を起こした。郭威に河中城を包囲されて兵糧攻めを受けた。翌年、河中を落とされて子城に退き、妻子とともに自ら火を放って死んだ。

史弘肇(?〜950)
  字は化元。鄭州滎沢の人。驍勇にして寡黙な人物であった。後梁の末年に徴兵されて従軍した。後晋のとき、控鶴小校となった。劉知遠が禁兵をつかさどると、その下で軍校となり、武節指揮・雷州刺史となった。軍を率いて規律があり、かれの兵は各地を転戦して、秋毫も犯すことがなかった。忠武軍節度使・侍衛歩軍都指揮使に累進した。後漢の乾祐元年(948)、帰徳軍節度使・同平章事となった。高祖(劉知遠)の臨終にあたって、蘇逢吉・楊邠らとともに遺命を受けた。のちに中書令に任ぜられた。政治にあたっては酷刑を好み、微罪でも極刑で臨んだ。また文人と折り合いが悪く、「禍乱を定めるのは長槍大剣であり、どうして毛筆を用いようか」と放言した。とくに蘇逢吉との間柄は水火のごとく相容れなかった。専横のことを隠帝に憎まれ、参内の途中に楊邠・王章らとともに斬り殺された。

蘇逢吉(?〜950)
  京兆長安の人。蘇悦の子。劉知遠が河東に鎮すると、節度判官となった。刑獄裁判を担当して、罪の軽重や理非曲直にかかわらず、囚人をことごとく殺したので「静獄」と称された。後漢が建国されると、中書侍郎・同平章事・集賢殿大学士に任ぜられ、朝廷の大事はみな彼から出た。李ッを陥れてその一族を滅ぼし、衛州刺史葉仁魯の不法をかばうなど、非行が多かった。後漢が滅亡すると、自殺した。
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