[五代十国(907〜960)]
⇒五代(後梁,後唐,後晋,後漢,後周)
⇒十国(,南唐,前蜀,後蜀,南漢,,荊南,呉越,,北漢
[後周(951〜960)]
太祖(郭威)世宗(柴栄)恭帝(柴宗訓)
郭威(904〜954)
  後周の太祖⇒
王峻(902〜953?)
  字は秀峰。相州安陽の人。幼くして歌童となる。後漢高祖(劉知遠)のとき、客省使となった。隠帝(劉承祐)のとき、宣徽使となる。郭威が鄴で起兵すると、監軍となり、後周建国を助けた。戸部侍郎・平章事を加えた。広順元年(951)冬、北漢・契丹が連合して晋州を囲むと、兵を率いて囲みを解いた。功績を誇って驕傲の振る舞いが多かった。三年(953)、すでに枢密使・宰相でありながら、合わせて平盧節度使を領するよう求めた。太祖(郭威)は別所にかれを捕らえ、商州司馬に左遷して、まもなく没した。

馮道(882〜954)
  字は可道、号は長楽老子。瀛州景城の人。はじめ劉守光に仕えて参軍となったが、易定出兵に反対して投獄された。劉守光が李存勗に敗れると、張承業に見出されて、李存勗のもとで河東節度掌書記となった。後唐が建国されると、戸部侍郎・翰林学士に上った。父が死んで服喪していたとき、李嗣源(後唐明宗)が荘宗(李存勗)を滅ぼすと、明宗に仕えて中書侍郎・平章事(宰相)に任ぜられた。そののち、後晋・遼・後漢・後周に仕え、合わせて五朝八姓十一君に仕えた。五代の戦乱の中、平和裡の政権交代につとめ、人民の救済に心がけた。君主をたびたび変えたため、『資治通鑑』や『新五代史』などでは論難された。明末の李卓吾は「孟子曰く、社稷を重く為し、君を軽しと為す。信に至言なり。〔馮〕道、之を知れり」とかれを熱烈に弁護した。

楊凝式(873〜954)
  字は景度、号は虚白。華陰の人。楊渉の子。唐末の昭宗のころ、進士に及第して、秘書郎となった。後梁・後唐・後晋・後漢・後周の五朝に仕えて、官は太子太保に上った。書法にすぐれ、欧陽詢・顔真卿を継ぎながらも飄逸で変化に富み、草書の「古意帖」、行書の「乞花帖」、楷書の「韮花帖」などをものした。また詩歌にも長じた。『歩虚詞』。

和凝(898〜955)
  字は成績。鄆州須昌の人。和矩の子。幼いころから聡明煥発であった。進士に挙げられて、後梁の義成軍節度使賀瓌の下で従事となった。賀瓌が胡柳で敗れて逃走したとき、ひとりつき従った。後唐の天成年間に殿中侍御史となり、主客員外郎・知制誥に転じた。後晋が建てられると端明殿学士となり、翰林学士承旨となった。天福五年(940)、中書侍郎・同中書門下平章事に上った。後漢高祖(劉知遠)のとき、太子太傅に任ぜられ、魯国公に封ぜられた。曲子詞を自作して流布したが、後に集めて焼き捨てたという。

王仁裕(880〜956)
  字は徳輦。天水の人。唐末に秦州節度使判官となり、のちに蜀の中書舎人・翰林学士となった。後唐に入って、末帝(李従珂)の下で司封員外郎知制誥・翰林学士となった。後晋のとき、左散騎常侍に上った。後漢のとき、戸部侍郎・翰林学士承旨に任ぜられた。後周のとき、兵部尚書・太子少保となった。著作に『開元天宝遺事』、『唐末聞見録』、『王氏見聞録』、『玉堂閑話』、『西江集』など。

柴栄(921〜959)
  
後周の世宗⇒
李重進(?〜960)
  滄州の人。後周太祖(郭威)の甥。殿前都指揮使に上った。恭帝(柴宗訓)が立つと淮南道節度使として揚州に鎮した。宋が建てられると、周室の近親であったため、恐れを抱いた。青州への移鎮を命ぜられて、ますます恐れた。宋太祖(趙匡胤)が鉄券を賜って使者を派遣したが、かれはその使者を抑留した。建隆元年(960)七月、揚州で挙兵して宋に叛いた。石守信の討伐を受け、十一月には親軍が揚州にいたり、落城して自ら焼死した。

王景(889〜963)
  莱州掖県の人。農家に生まれた。騎射をよくし、生業につかず、若くして従軍して後梁・後唐に仕えた。後晋の天福初年、相州刺史に上った。開運元年(944)、侍衛馬軍左廂都校に任ぜられた。二年、南下してきた契丹軍を威城で破り、侍衛馬軍都指揮使に進んだ。横海軍節度使として、滄州に鎮した。後漢の乾祐初年、同平章事を加えられた。後周の初年、侍中を兼ね、鳳翔節度使に転じた。世宗が即位すると、中書令を加えた。顕徳二年(955)、世宗の命により後蜀を攻め、秦州・鳳州・成州・階州を取った。宋に入って太原郡王に封ぜられた。
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