[五代十国(907〜960)]
⇒五代(後梁,後唐,後晋,後漢,後周)
⇒十国(呉,南唐,前蜀,後蜀,南漢,楚,荊南,呉越,閩,北漢)
[前蜀(907〜925)]
高祖(王建)−後主(王衍)
王建(847〜918)
字は光図。前蜀の高祖。在位907〜918。許州舞陽の人。若いころは無頼で、賊王八と呼ばれた。塩賊から忠武軍の兵卒となり、黄巣の乱の鎮圧に参加し、功績を立てた。光啓元年(885)、長安を落ちようとする僖宗を救って、成都に迎えた。神策軍使・璧州刺史を歴任して、永年節度使に上った。顧彦焉A陳敬瑄らと争って、四川を統一し、天復三年(903)には蜀王に封ぜられた。開平元年(907)、成都で帝位に就き、国号を大蜀とした。唐の亡命士人を優遇して、蜀の文化を高めた。
王宗佶(?〜908)
もとの姓は甘。洪州の人。王建の養子となった。王建を助けて軍功を重ね、武信軍節度使に任ぜられ、晋国公に封ぜられた。前蜀が建国されると、中書令に任ぜられた。功を恃んで専権のこと多く、王建に憎まれて殺された。
韋荘(836?〜910)
字は端己。京兆杜陵の人。韋応物の四世の子孫。若いころは貧しく、黄巣の乱に巻き込まれて苦しんだ。江南を放浪し、幾度も科挙に落第したのち、乾寧元年(894)にようやく及第、校書郎となった。両川宣輸和協使・李詢の判官として四川の王建を宣撫に向かった。四年後再び蜀に入り、王建に仕えて掌書記となった。王建が後蜀王朝を立てるのに協力して、吏部侍郎同平章事(宰相)に任ぜられた。かつて杜甫が住んでいた成都郊外の浣花草堂に住んだ。『浣花集』、『又元集』。
僧貫休(832〜912)
俗姓は姜、字は徳隠。金華蘭渓の人。七歳のときに出家した。法華経と起信論に精通した。唐の乾寧年間に呉越王銭鏐に詩を献じた。のちに荊南に遊んで、節度使成汭のために罪をえた。天復年間に蜀へ移った。蜀主の王建に厚遇され、禅月大師の称号を受けた。歌吟して風刺に満ち、貴顕に憎まれた。水墨は閻立本に学び、力強い画風で羅漢を描き、梵相をなすと称された。書は草書にすぐれた。画に「十六羅漢図」があり、詩集に『禅月集』がある。
花蕊夫人(?〜926)
姓は徐。成都の人。徐耕の娘。前蜀の高祖(王建)の妃となった。王衍(のちの後主)を産んだ。王建の死後、順聖太后に封ぜられた。咸康元年(925)に前蜀が後唐に降ると、その翌年に殺された。詩人として知られ、前蜀の宣華宮での遊楽を題材とした詩詞を多く残した。
王衍(901〜926)
もとの名は宗衍。字は化源。前蜀の後主。在位918〜925。王建の子。成都で生まれ、鄭王に封ぜられた。母の徐氏が王建の寵愛をうるようになると、太子に立てられた。父が亡くなると、位を継いだ。国政を宦官の宋光嗣らに任せ、自らは奢侈宴遊にふけって、民心を失った。咸康元年(925)、後唐の荘宗(李存勗)が魏王李継岌や郭崇韜らを派遣して蜀を攻めた。出兵七十日で唐軍が成都にいたり、王衍は唐に降り、前蜀は滅んだ。翌年、長安に護送される途中、関中の秦川駅で一族とともに殺された。後唐の明宗(李嗣源)のとき、順正公と追諡された。
杜光庭(850〜933)
字は聖賓、号は東瀛子。科挙に応じたが及第せず、天台山に入って道士となった。唐の僖宗に招かれて、紫服を賜った。のちに四川の青城山にこもって、前蜀の王建より広成先生の称号を受けた。『広成集』。
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