[五代十国(907〜960)]
⇒五代(後梁,後唐,後晋,後漢,後周)
⇒十国(呉,南唐,前蜀,後蜀,南漢,楚,荊南,呉越,閩,北漢)
[楚(907〜951)]
武穆王(馬殷)−衡陽王(馬希声)−文昭王(馬希範)−廃王(馬希広)−恭孝王(馬希萼)−廃王(馬希崇)
馬殷(852〜930)
字は覇図。楚の武穆王。在位907〜930。許州焉陵の人。木工より身を起こし、流賊の秦宗権の部将孫儒の下に従って江淮を転戦した。孫儒の死後、劉建峯の部将となって、湖南地方の経略を助け、潭州に鎮した。劉建峯の死後、その軍衆により擁されて潭州刺史となり、のち武安軍節度使となった。開平元年(907)、後梁が建国されると、天策上将軍に任ぜられ、楚王に封ぜられて湖南地方を掌握した。以後、中原王朝に修貢の態度を取り続けた。民心を安定させ、産業を奨励して、富国強兵につとめた。晩年は諸子の党争に悩まされた。
馬希声(899〜932)
字は若訥。楚の衡陽王。在位930〜932。馬殷の次男。馬殷が楚を建国すると、判内外諸軍事となった。荊南の高季興による離間策を受けて、高郁が馬氏を滅ぼそうとしていると信じ、父の命といつわって高郁を殺した。馬殷が亡くなると、喪中にもかかわらず、日に五十の鶏を煮て食していたので、世人にそしられた。後唐の武安軍節度使・静江軍節度使などを歴任した。暗愚で内政をかえりみず、享楽に溺れた。
馬希範(899〜947)
字は宝規。楚の文昭王。在位932〜947。馬殷の四男。清泰元年(934)、楚王に封ぜられた。天福四年(939)、天策上将軍を加えた。馬殷の旧制にならい、中原王朝と修好した。湘黔辺界の諸族の帰順を受け、渓州に銅柱を立てたほか、昆明・寧州の諸族とも通交した。奢侈は兄馬希声をもしのぎ、宴を好み、春園に会をなし、巨万の富を費やして、領内に新たな賦役を加えた。
馬希広(?〜950)
字は徳丕。楚の廃王。在位947〜950。馬殷の十五男。兄の馬希範の跡を継いで楚王となった。兄の朗州節度使馬希萼が南唐の支援をえて長沙に来攻すると、城破れて妻子とともに殺された。
馬希萼(?〜?)
楚の恭孝王。在位950〜951。馬殷の子。天福十二年(947)、弟馬希広が楚王位を継ぐと、南唐の支援を得て挙兵し、長沙に攻め入って位を争った。順天将軍と号し、渓洞諸族の参戦を取り付けると、長沙を攻め落として、馬希広を殺して位を奪った。殺戮を好み、酒色にふけり、宮室を大規模に建造して、士民を虐待した。弟の馬希崇と徐威らがかれを衡山に幽閉した。保大九年(951)、南唐軍が楚を滅ぼすと、洪州にうつされた。のちに金陵で没した。
馬希崇(?〜?)
楚の廃王。在位951。馬殷の子。兄王馬希萼のもとで湖南の軍政をつかさどったが、人材任用を情実で左右したので、刑政は乱れた。保大九年(951)、兄を逐って自立し、武安軍留後となった。酒色にふけり、人心をえられなかった。朗州権留後事の劉言がかれに服さず、兵を発して長沙を攻めた。南唐がこの機に乗じて出兵し、長沙に入ったため、ここに楚は滅んだ。馬氏一族とともに金陵にうつされ、南唐の永泰軍節度使に任ぜられ、揚州に鎮した。のちに後周が淮南を攻めると、兄弟十七人とともに後周に保護され、右羽林統軍となった。
劉言(?〜953)
廬陵の人。吉州刺史彭玕に従って楚に帰順し、辰州刺史に任ぜられ、渓洞諸蛮の鎮撫にあたった。のちに王逵・周行逢が朗州に拠ると、迎えられてその帥となった。保大九年(951)に南唐が楚を滅ぼしたが、その翌年に王逵とともに南唐軍を追い出し、楚の嶺北旧地を恢復した。後周太祖(郭威)により行朗州大都督・武平軍節度使に任ぜられた。まもなく王逵に捕らえられて殺された。
王逵(?〜956)
王進逵ともいう。武陵の人。はじめ静江軍の士卒から身を立てた。楚の馬希萼のとき、静江指揮使に進んだ。保大九年(951)、楚王馬希萼が王逵・周行逢らに楚王府の修築を命じたが、賞賜が与えられず、王逵・周行逢は兵を率いて朗州に逃げ帰り、馬光恵を武平節度使に推挙した。のちに馬光恵を廃し、劉言を権武平留後とした。翌年、周行逢らとともに潭州(長沙)を攻め、南唐軍を破った。広順三年(953)、朗州の劉言を攻撃して捕らえ、部将の潘叔嗣に劉言を殺させると、武平節度使に上った。顕徳三年(956)、後周の世宗(柴栄)により南唐への侵攻を命じられ、岳州に進んだところ、潘叔嗣に殺された。
周行逢(917〜962)
朗州武陵の人。若いころから無頼で、法を犯して楚の軍卒となり、驍勇によって小校に上った。保大九年(951)、王逵とともに朗州を占拠し、劉言を帥に迎えた。翌年、王逵とともに潭州(長沙)を攻め、南唐の辺鎬を破った。広順三年(953)、王逵に劉言を殺すよう勧め、王逵が武陵に拠ると、潭州に拠った。翌年、武清軍節度使・権知潭州軍府事に任ぜられた。王逵が殺されると、朗州にうつり、武安・武平両鎮を領した。湖南をおさめ、倹約節制につとめたので、数年のうちに倉廩は充実した。後周末年、城壁を改修し、練兵を重ねて、武備に傾いた。のちに宋に帰順し、中書令を加えられた。
周保権(952〜985)
朗州武陵の人。周行逢の子。周行逢が武平節度使となったとき、節度副使となった。建隆三年(962)、周行逢が没すると、宋により武平節度使に任ぜられた。衡州刺史の張文表が乱を起こしたが、楊師璠に命じて鎮圧させた。のちに宋に湖南を接収されると、開封にうつされて、右千牛衛上将軍に任ぜられた。乾徳五年(967)、右羽林統軍にうつった。太平興国元年(976)、知并州として出向した。
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