[五代十国(907〜960)]
⇒五代(後梁,後唐,後晋,後漢,後周
⇒十国(,南唐,前蜀,後蜀,南漢,,荊南,呉越,,北漢)
[北漢(951〜979)]
世祖(劉崇)−睿宗(劉鈞)−少主(劉継恩)−英武帝(劉継元)
劉崇(895〜954)
  北漢の世祖。在位951〜954。後漢高祖(劉知遠)の同母弟で、父は不明。後晋のとき、兄劉知遠が河東節度使となると、都指揮使となった。劉知遠が帝を称し、後漢を建国すると、太原尹・北京留守となった。広順元年(951)、隠帝(劉承祐)が郭威に位を奪われると、太原で帝を称した。国号を漢とし、北漢と史称される。旻と改名し、乾祐年号を用い、十二州を領有した。勢力が弱く、契丹と叔姪の関係を結んで、後周と対抗した。外に契丹への奉献と内に軍役と、民衆の負担は重く、百姓で後周に逃入するものがはなはだ多かった。顕徳元年(954)、後周の郭威が崩ずると、契丹とともに後周を攻め、後周世宗(柴栄)の軍と高平で決戦して大敗し、晋陽に逃げ帰ってまもなく亡くなった。

衛融(905〜973)
  字は明遠。青州博興の人。後晋の天福年間に進士に及第した。斉澶二州従事・忠武軍掌書記などをつとめた。後漢初年、太原観察支使となった。劉崇が北漢を建てると、翰林学士に任ぜられ、中書侍郎・同平章事に上った。宋の建隆元年(960)、潞州の李筠のもとに使に赴き、李筠が敗れたために宋軍に捕らえられた。宋に仕えて太府卿となり、のち司農卿、陳・舒・黄の三州の知州をつとめた。

劉鈞(926〜968)
  もとの名は承鈞。北漢の睿宗孝和帝。在位954〜968。劉崇の次男。父が亡くなると位を継ぎ、遼主に表を奉じて児皇帝を称した。建隆元年(960)、北宋が建てられると、後周の昭義節度使李筠の起兵を助けて、宋に対抗したが敗れた。士人を任用して、内政は比較的安定したが、対外的な失敗のため国力は疲弊した。

劉継恩(?〜968)
  もとの姓は薛。北漢の少主廃帝。在位968。薛サの子。母方の祖父が劉崇。劉鈞の養子となる。劉鈞が即位すると、太原尹となった。劉鈞が亡くなると即位し、在位六十日あまりで供奉官侯霸栄らに殺された。

郭無為(?〜979)
  棣州の人。号は抱腹山人。若くして道士となり、武当山で出家した。後漢の乾佑三年(950)、郭威が出兵して李守貞を討つと、自らを軍前で売り込んだ。郭威はかれの国事に対する見識に驚いたが、後漢の隱帝(劉承祐)の猜忌をかって受け入れられなかった。北漢の劉承鈞が即位すると、諫議大夫として召され、まもなく相に上って国政を掌握した。劉承鈞の死後、劉継恩が位を継ぐと、太子位争いのときの恨みで無為追放をはかったが果たさなかった。劉継恩が侍從のために殺されると、無為はその弟の劉継元を擁立した。太平興国四年(979)、宋の太宗が北漢を征討すると、無為は降伏をはかって劉継元のために絞め殺された。

劉継元(?〜991?)
  もとの姓は何。北漢の英武帝。在位968〜979。母方の祖父が劉崇。劉鈞の養子となる。劉継恩が殺されると、宰相・枢密使の郭無為に迎えられて即位した。性格は残忍で、劉崇の諸子や養母らを殺した。宦官を重用し、政治は乱れた。太平興国四年(979)、宋の太宗が太原に親征してくると、降伏し、ここに北漢は滅んだ。宋朝により彭城公に封ぜられ、保康軍節度使に任ぜられた。淳化年間に房州で没した。


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