[五代十国(907〜960)]
⇒五代(後梁,後唐,後晋,後漢,後周
⇒十国(,南唐,前蜀,後蜀,南漢,,荊南,呉越,,北漢
[後唐(923〜936)]
太祖(李克用)…
荘宗(李存勗)明宗(李嗣源)閔帝(李従厚)末帝(李従珂)
李克用(858〜908)
  後唐の太祖と追尊された。沙陀突厥朱邪氏の出身。朱邪赤心の子。片目が小さく、独眼竜と呼ばれた。黄巣の乱の討伐に参加して、雁門節度使となり、河東節度使に上った。乾寧二年(895)には晋王に封ぜられた。黒鴉軍を率い、朱全忠と河北三鎮をめぐって争い、後唐王朝の基礎を築いた。太原で病没した。
李存勗(885〜926)
  
後唐の荘宗⇒
周徳威(?〜918)
  字は鎮遠。朔州馬邑の人。はじめ晋王李克用のもとで騎将となり、功により衙内指揮使となった。振武節度使・同中書門下平章事に上った。天祐七年(910)、後梁が王鎔を攻めたとき、増援を命じられて少勢でおもむき、後梁の軍を大いに破った。また燕の劉守光を攻めて、涿州・幽州を下し、功により盧龍軍節度使に任ぜられた。十五年(918)、李存勗に軽戦を諫めたが、聞き入れられず、胡柳陂の戦いで敗れて戦死した。

張承業(845〜921)
  字は継元。唐の僖宗のころ、宦官として宮中にあった。崔胤が宦官一掃に乗り出したとき、李克用に匿われた。昭宗が亡くなると監軍として復帰した。李克用が没するとき、李存勗の補佐を遺嘱されて、後梁と戦い、李存勗政権の軍政の大権を握った。竜徳元年(921)、李存勗が帝位につこうとしたとき、痛哭して諫めたが容れられず、絶食して死んだ。

李嗣昭(?〜922)
  字は益光。もとの姓は韓、名は進通。汾州太谷の人。李克用の弟の李克柔の養子となった。李克用の征戦に従って、衙内指揮使となった。戦功により累進して昭義軍節度使となる。天祐四年(907)、潞州を守備して後梁軍をはばみ、一年近くにわたって奮戦した。のち李存勗に従った。十五年(918)、胡柳陂の戦いで敗勢を覆し、後梁軍を撃破した。のちに鎮州攻撃中に矢に当たって戦死した。

李存進(857〜922)
  もとの姓は孫、名は重進。振武の人。はじめ嵐州軍校となった。のちに李克用に帰順し、姓名を賜り、養子となった。内地に入って黄巣の乱の鎮圧に従い、義児軍使となった。李存勗のとき、戦功により蕃漢馬歩副総管・振武節度使に上った。天祐十九年(922)、招討使となり、叛軍に殺された。

李存璋(?〜922)
  字は徳璜。雲中の人。若くして雲中の牙将となった。乾符五年(878)、李尽忠・康君立らとともに大同防御使の段文楚を殺し、沙陀副兵馬使の李克用を留後として立てた。のちに李克用に従って黄巣の乱の鎮圧にあたり、義児軍使となった。李克用が病にたおれると、張承業とともに遺命を受け、李存勗を晋王として擁立し、河東馬歩軍使に任ぜられた。領内の軍紀は粛然としたという。のちに大同軍節度使に上った。

王処直(862〜922)
  字は允明。京兆万年の人。王宗の子。王処存の弟にあたる。はじめ定州後院軍都知兵馬使となった。光化三年(900)、王処存の子の王郜を追放して、義武軍留後となり、朱全忠に帰順して義武軍節度使となった。後梁が建てられると、北平王に封ぜられた。のちに後梁との関係を絶って晋についた。竜徳元年(921)に養子の王都に捕らえられて廃され、翌年に憂憤のうちに没した。

韓握(844〜923)
  字は致堯、号は玉山樵人。京兆万年の人。竜紀元年(889)、進士に及第した。左拾遺から翰林学士・中書舎人を歴任して兵部侍郎に上り、昭宗の信任が厚かったが、朱全忠に憎まれて濮州司馬に左遷された。唐の滅亡後は隠棲して仕官しなかった。『韓翰林集』、『迷楼記』。

郭崇韜(?〜926)
  字は安時。代州雁門の人。郭子儀の後裔と称した。李克用、李存勗父子に仕えて中門使に上った。李存勗が帝を称して後唐を建国すると、兵部尚書・枢密使となった。後梁を滅ぼすと、論功第一に挙げられ、鉄券を賜り、侍中・成徳軍節度使となった。位は将相を兼ね、人に権勢を奪われるのをおそれて、魏国夫人劉氏を皇后に立てるよう密奏した。時務利害二十五条を述べて、宦官を排斥した。同光三年(925)、魏王李継岌に従って蜀を攻め、東北面行営都招討使をつとめた。蜀が平定されると、李継岌の猜疑を受け、加えて宦官に誣告された。李存勗は激怒して宦官馬彦珪を蜀に下し、郭崇韜・廷晦の父子は成都で斬られた。

張全義(852〜926)
  もとの名は言。字は国維。濮州臨濮の人。農民の出身。乾符末年、県令に侮辱を受けて、黄巣の乱に参加。斉が建てられると、吏部尚書・水運使に任ぜられた。黄巣が敗れると、唐の河陽節度使諸葛爽に降り、昭宗により全義の名を賜った。諸葛爽の死後、李罕之とともに爽の子を追放し、河南尹となって洛陽に拠った。のちに朱全忠につき、李罕之を追放して洛陽付近を統治した。後梁が建国されると、魏王に封ぜられた。かれがはじめて洛陽に入ったとき、兵火にかかって荒涼としていたが、流民を招致して農耕殖産を奨励し、自腹を切って酒食でもてなしたので、数年のうちに京畿の休閑田はなくなったという。後唐の荘宗(李存勗)が後梁を滅ぼすと、洛陽をもって降り、河南尹に任ぜられ、斉王に封ぜられた。河陽を兼領した。同光四年(926)、魏博の兵が鄴都に拠り、李嗣源(明宗)を擁立すると、憂懼のうちに没した。

任圜(?〜927)
  京兆三原の人。明敏で弁舌にすぐれた。はじめ李嗣昭に召されて観察支使となった。李嗣昭と李存勗の間に隙ができると、使者として往来して破局を防いだ。胡柳陂の戦いで功を挙げ、李存勗に仁者の勇とたたえられた。李存勗が後唐を建てると、工部尚書・真定令・知北京留守事をつとめた。明宗(李嗣源)が立つと、中書侍郎・同平章事に任ぜられた。直言をはばからなかったので、安重晦に憎まれ、誣告されて殺された。

安重晦(?〜931)
  応州の人。安福遷の子。若くして李嗣源(のちの明宗)に仕えて、中門使となり、十余年にわたって征討に従い、親しく信任された。明宗が即位すると、左領軍衛大将軍・山南東道節度使・枢密使に任ぜられたが固辞した。改めて兵部尚書に任ぜられた。のち侍中・中書令を加えられた。軍政の機密をあつかい、事の大小なく政治の決定に参与し、かれの権勢は天下を傾けた。藩鎮の権限を抑制しようとして、孟知祥や董璋の乱を招いた。叛乱を討つために蜀に下ったが、明宗に疑われて解任され、河中で殺された。

李従璋(887〜937)
  字は子良。後唐明宗(李嗣源)の甥。明宗が即位すると、皇城使となり、のちに河中節度使に任ぜられ、洋王に封ぜられた。後晋が建国されると、威勝軍節度使に任ぜられ、隴西郡公に降封された。
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