[五代十国(907〜960)]
⇒五代(後梁,後唐,後晋,後漢,後周
⇒十国(,南唐,前蜀,後蜀,南漢,,荊南,呉越,,北漢
[後晋(936〜946)]
高祖(石敬瑭)出帝(石重貴)
石敬瑭(892〜942)
  後晋の高祖⇒
楊光遠(?〜944)
  もとの名は檀。字は徳明。はじめ晋王李存勗のもとで騎将となった。後唐が建てられると、幽州馬歩軍都指揮使となり、瓦橋関を守った。明宗(李嗣源)のとき、嬀・瀛・冀・易の四州刺史を歴任した。後晋が建てられると、宣武軍節度使となった。桑維翰と不仲で、兵権を削られて太尉・西京留守となった。ひそかに異志をいだき、契丹と結び、私兵をたくわえた。天福五年(940)、青州に移鎮し、東平王に封ぜられた。九年(944)、契丹と呼応して叛いたが、泰寧節度使李守貞に十二カ月にわたって青州を囲まれ、食尽きて孤立無援となった。子の楊承の裏切りにより捕らえられ、李守貞のため殺された。

李従温(883〜945)
  字は徳基。代州崞県の人。後唐明宗(李嗣源)の甥。明宗の養子となった。牙校となり、厩庫を管轄した。後唐が建国されると、北京副留守となり、安国・忠武・義武・成徳・武寧節度使を歴任し、兗王に封ぜられた。後晋が建てられると、再び忠武軍節度使となった。貪欲なことで知られ、利殖や収奪をもっぱらとした。のちに河陽三城節度使に転じた。在任中に没した。

桑維翰(899〜946)
  字は国僑。河南の人。後唐の同光三年(925)、進士に及第した。河陽節度使・石敬瑭のもとで掌書記となった。石敬瑭は李従珂の簒奪を憎み、かれを契丹に遣わして援兵を請わせた。燕雲十六州の割譲と臣従を条件に、遼太宗(耶律徳光)の派兵の約束を取りつけ、後晋の建国に功績を立てた。石敬瑭の即位の後、翰林学士・礼部侍郎・知枢密院事となった。さらに中書侍郎・同中書門下平章事・枢密使に上った。天福四年(939)、相州節度使として出向し、のちに泰寧・晋昌に遷った。出帝(石重貴)の即位後は、帝が景延広を起用して契丹との盟を破ろうとしたため、上書してこれを諫めたが、容れられず契丹の侵攻を受けた。さらに講和を主張して、ようやく出帝に認められ、景延広を左遷させ、中書令に上り、枢密使に復し、魏国公に封ぜられた。その権勢はさかんで、賄賂が横行し、出帝に忌まれた。開運三年(946)、契丹軍が南下して、遼太宗が京師に迫ったため、降将の張彦沢を遣わして太后の信書を太宗に送った。和親を望んでいることが太宗に伝えられ、太宗との会見が実現しようとしたが、出帝はそれを望まず、人を遣わしてかれを殺させた。

張彦沢(?〜947)
  太原の人。先祖は突厥の出身という。石敬瑭の起兵に従い、後晋の曹州刺史となった。開運三年(946)、杜重威・李守貞らが契丹に降ると、かれもまた降った。遼の太宗(耶律徳光)の命をうけて、二千の兵を率いて開封に入り、桑維翰を殺したほか、大いに掠奪をおこなった。閤門使の高勲が張彦沢に家人を殺されたことを太宗に訴え、のちに張彦沢は開封北城で斬首された。かれに恨みをもつ市民が争ってかれの頭蓋を砕いたという。

劉昫(888〜947)
  字は耀遠。涿州帰義の人。後唐のとき、宰相・判三司に上った。後晋に入って、司空・平章事をつとめた。開運二年(945)、『唐書』を完成させた。すなわち『旧唐書』である。

景延広(892〜947)
  字は航川。陝州の人。後梁のとき、軍校となる。後唐のとき、石敬塘のもとで客将となった。後晋が建てられると、侍衛親軍都指揮使に累進した。石敬瑭が亡くなると、出帝(石重貴)を擁立し、宰相に上った。契丹に対して臣と称することに反対した。天福八年(943)、喬栄が契丹に帰国するに際して、「孫(後晋)には十万の横磨剣がある、翁(契丹)がもし戦いたいなら早く来るがいい」と、契丹を挑発する言辞を伝えさせた。翌年、契丹が来攻すると、上将となって抗戦を指揮した。専横のことが多く、憎まれて西京留守に左遷された。開運三年(946)冬、契丹が後晋を滅ぼすと、捕らえられて北方に送られた。翌年、陳橋で自殺した。
↓次の時代=後漢

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