[五代十国(907〜960)]
⇒五代(後梁,後唐,後晋,後漢,後周)
⇒十国(呉,南唐,前蜀,後蜀,南漢,楚,荊南,呉越,閩,北漢)
[後蜀(934〜965)]
高祖(孟知祥)−後主(孟昶)
孟知祥(874〜934)
字は保胤。後蜀の高祖。在位934。邢州龍岡の人。孟道の子。父や叔父とともに李存勗麾下の部将として転戦した。李存勗が前蜀を滅ぼすと、成都尹に任ぜられた。成都で兵力を蓄えたため、後唐の明宗に警戒され、荊南の高従誨らによる牽制を受けた。長興元年(930)、叛旗を翻して自立した。三年(932)には蜀全土を領有し、翌年に蜀王に上った。さらに翌年には帝位についたが、同年に没した。
毛文錫(?〜?)
字は平珪。高陽の人。蜀の王建を慕って成都に入り、翰林学士承旨となった。さらに文思殿大学士・司徒に上った。天漢元年(917)、讒言を受けて茂州の司馬に左遷された。前蜀が滅んだとき、いったん後唐に降ったが、孟知祥が後蜀を建てると、これに仕えた。『前蜀紀事』、『茶譜』。
黄筌(?〜965)
字は要叔。成都の人。十七歳のとき、前蜀の後主(王衍)に画を献上した。後蜀の高祖(孟知祥)が即位すると、翰林待詔・司翰林図画院事に任ぜられた。後主(孟昶)のとき、如京副使の位を加えられた。後蜀が宋に降ると、開封にうつり、まもなく没した。花鳥画にすぐれ、画風は富貴と称された。宋代の巨匠たちに影響を与えた。「写生珍禽図」。
孟昶(919〜965)
もとの名は仁賛。字は保元。後蜀の後主。在位934〜965。孟知祥の三男。父のもとで行軍司馬をつとめた。父が即位すると、東川節度使となった。父が亡くなると即位した。不法をほしいままにしてきた旧臣の李仁罕・張業らを誅殺し、農業養蚕を推奨し、科挙をおこない、諫言を奨励し、政治を改革しようとした。後晋のとき、秦・階・成州が来附し、また鳳州を取って、前蜀の故地を領有した。晩年は奢侈に溺れ、民間の女性を選抜して後宮を拡張し、器を愛好して七宝装飾を蒐集した。顕徳二年(955)、西北四州が後周に奪われた。乾徳二年(964)には北宋の来攻を受け、翌年宋に降伏した。秦国公に封ぜられ、開封で没した。楚王に追封され、諡を恭孝といった。
花蕊夫人(?〜976)
姓は費。青城の人。後蜀の後宮に入って後主(孟昶)の妃となり、貴妃に上った。芙蓉と牡丹の花を愛し、成都に大量の芙蓉や牡丹の種を植えたという。広政三十年(965)、後蜀が宋に降ると、悲憤に耐えながら、開封にうつった。詩人として知られ、『花蕊夫人宮詞』を残した。
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