[五代十国(907〜960)]
⇒五代(後梁,後唐,後晋,後漢,後周
⇒十国(呉,南唐,前蜀,後蜀,南漢,,荊南,呉越,,北漢
[呉(902〜937)]
太祖(楊行密)−烈祖(楊渥)−高祖(楊隆演)−睿宗(楊溥)
楊行密(852〜905)
  字は化源。呉の初代太祖武皇帝と追尊された。在位902〜905。廬州合肥の人。怪力の巨漢で、容貌魁偉だったという。はじめ群盗に加わっていたが、唐の軍隊に応募して西北の守備にあたった。勢力をたくわえて兵乱を起こし、廬州を占拠した。中和三年(883)、廬州刺史となった。秦彦・畢師鐸らと戦い、揚州に入った。景福元年(892)、淮南節度使に任ぜられた。孫儒を破って、江淮を兼併した。乾寧四年(897)、朱全忠の将の龐師古を淮水清口で破った。天復二年(902)、太師・中書令となり、呉王に封ぜられた。かれに叛いた田頵らを討ち、内患を除去した。高勗らの策に従って、農耕養蚕を勧奨し、賦役を軽減して、江淮に比較的穏健な政権を樹立した。

楊渥(886〜908)
  字は承天。呉の二代烈祖景皇帝と追尊された。在位905〜908。楊行密の長男。宣州観察使をつとめた。父が亡くなると、淮南節度使・呉王を称した。劉存を遣わして岳州を取り、秦裴を遣わして洪州を奪って、江西を併せた。もとより人望がなく、驕侈なふるまいがひどくなり、父の代からの旧将を次々と粛清した。東院馬軍を設け、球戯に節度なくふけるなど、失政が多かった。張や徐温らにより政変が発動され、寝室で殺された。

楊隆演(897〜920)
  字は鴻源。呉の三代高祖宣皇帝と追尊された。在位908〜920。楊行密の次男。天祐五年(908)、張や徐温らが兄の楊渥を殺すと、徐温と厳可求が張を殺し、楊隆演を主として擁立した。九年(912)、太師・中書令・呉王を称した。徐温が執政して、呉越との戦いを終わらせ、民力を休養させ、経済は発展した。十六年(919)、呉国王位につき、武義と改元し、宗廟を置き、百官を設けた。徐温が専権をふるっているのを喜ばず、甘飲少食のため病となり、夭逝した。

楊溥(901〜938)
  呉の四代睿宗。在位920〜937。楊行密の四男。兄の楊隆演が呉国を建てると丹陽郡公に封ぜられた。兄王が没すると、位を継いだ。徐温が太師となり、厳可求が右僕射となって、民力休養の政策を継続した。乾貞元年(927)、帝位についた。徐知誥が太尉・侍中となって、軍政の大権を握った。升元元年(937)、徐知誥に迫られて位を譲り、呉国は滅んだ。翌年、潤州で没した。

李建勲(?〜925)
  広陵の人。唐末、中書侍郎・平章事(宰相)に任ぜられたが、後に勢力を失い、撫州節度使に左遷された。さらに呼び戻され、司空を拝命したが、鍾山に別荘を建て、辞職して引きこもった。鍾山公の称号を授かった。『李丞相詩集』。

徐温(862〜927)
  字は敦美。海州昫山の人。徐知誥(南唐烈祖李昪)の父にあたる。塩商人から身を立て、唐末の乱では楊行密に従って、謀を献じた。呉が建国されると、大丞相に上った。国境の安定と民力の休養のため力を尽くし、自身は節倹をいとわなかったという。


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