[五代十国(907〜960)]
⇒五代(後梁,後唐,後晋,後漢,後周
⇒十国(,南唐,前蜀,後蜀,南漢,,荊南,呉越,閩,北漢
[閩(909〜945)]
太祖(王審知)−嗣王(王延翰)−太宗(王延鈞)−康宗(王昶)−景宗(王延羲)−恭懿王(王延政)
王審知(862〜925)
  字は信通。閩の太祖昭武皇帝。在位909〜925。光州固始の人。農家の出身で、兄の王潮とともに唐末の混乱で盗賊となり福建に入った。景福二年(893)、王潮は泉州刺史から福建観察使となり、王審知はその副使となった。王潮の死後、王審知は留後と称し、まもなく威武軍節度使に上った。性質容貌が雄偉で、常に白馬に乗っていたので、白馬三郎と称された。唐が滅亡すると朱全忠に服属して、開平三年(909)に閩王に封ぜられた。また楊行密にも連年使者を送って両属し、福建に勢力を保った。質素倹約して身をつつしみ、寛刑薄賦につとめて、民力を休養した。黄崎港を開き、海外貿易を拡大した。また名士を厚遇して、学問を栄えさせたという。

王延翰(?〜926)
  字は子逸。閩の嗣王。在位925〜926。王審知の長男。父が亡くなると、位を継いだ。後唐の荘宗(李存勗)の封を受け、節度使に任ぜられた。荘宗が殺されて、中原が乱れるのを見ると、大閩国王を称した。荒淫暴虐で、民間の美女を広く集めて、酒色にふけった。弟の王延鈞や義弟の王延稟が起兵して、連合して福州に攻め入ると、殺された。

王延鈞(?〜935)
  閩の太宗恵皇帝。在位926〜935。王審知の次男。後唐の天成元年(926)末、義弟の王延稟とともに兄王の王延翰を殺すと、留後を称した。三年(928)、閩王に封ぜられた。長興四年(933)、帝を称し、国号を大閩とした。鏻と改名した。仏教を信奉し、民二万人を得度して僧とし、良田を僧寺に寄進した。また神仙術にも凝り、道士陳守元を宮主として、国事を諮問した。薛文傑を国計使とした。佞臣外戚も跋扈し、政治は乱れて民は怨嗟した。子の王昶や皇城使李倣らに殺された。

王昶(?〜939)
  もとの名は継鵬。閩の康宗。応道大宏孝皇帝。在位935〜939。王延鈞の長男。父を殺して即位した。巫術を好み、道士譚紫宵を正一先生として称揚し、陳守元を天師として崇拝した。また巫師林興を重用して、事あるたびにその意見を徴したので、政治の乱脈と腐敗は極まった。紫微宮を造営し、水晶で飾ったので、財政は窮乏し、増税を重ねた。禁軍の将の朱文進・連重遇らに政変を起こされ、福州城北で殺された。

王延羲(?〜944)
  閩の景宗。隆道大孝皇帝。在位939〜944。王審知の子。控鶴都将連重遇により擁立された。在位中、荒淫非道で、宗族を猜疑し、旧怨ある者に報復した。弟の王延政が建州で自立して、これと争った。陳匡范・黄紹頗らを任用して、国計使・礼部侍郎とし、商業の税を重くし、売官で銭を搾った。殺戮を繰り返し、百姓は重税から逃れるため僧になる者が相次いだ。朱文進・連重遇らに政変を起こされ、殺された。

朱文進(?〜945)
  永泰の人。閩の康宗(王昶)のとき拱宸軍使に任ぜられた。通文四年(939)、連重遇と結んで王昶を弑殺し、王延羲を擁立して、拱宸都指揮使となった。永隆六年(944)、連重遇とともに王延羲を刺殺し、閩王を自称した。王姓の皇族五十余人を殺し、宮女を宮殿から出し、宮殿建築をやめて、王延羲の暴政と正反対のことをして人心をつかもうとした。まもなく帝号を取り消して威武留後を自称し、後晋の臣を称した。後晋はかれを威武節度使に任じた。開運元年(944)、後晋の出帝により閩国王に冊封された。陳洪進と王延政に敗れ、部下の林仁翰に刺殺された。

王延政(?〜951)
  閩の恭懿王。天徳帝。在位943〜945。王審知の子。建州刺史に任ぜられ、富沙王に封ぜられた。兄の王延羲が暴虐だったため、書を送って諫めたが聞き入れられず、仇敵となってしまった。建州で帝を称し、国号を殷とした。朱文進が王延羲を殺すと、兵を発して朱文進を討った。泉州の留従效が機に乗じて兵を挙げ、泉州に割拠すると、閩中は大乱となった。閩の旧臣は延政を国君として迎えた。天徳三年(945)、南唐の李mが兵を発して閩を討つと、敗れて捕らえられた。ここに閩は滅んだ。一族ともに金陵に移された。のちに南唐により鄱陽王に封ぜられ、饒州に鎮した。光山王に移封され、まもなく没した。

留従效(906〜962)
  字は元範。泉州永春の人。閩の王延羲のとき泉州散員指揮使に任ぜられた。永隆六年(944)、朱文進が王延羲を殺し、自立して閩主となると、従效は張漢思・董思安・陳洪進らとともに朱・連にそむき、朱文進の任命した泉州刺史黄紹頗を殺して、平賊統軍使を自称し、王継勲を迎えて泉州刺史とし、殷帝王延政を主とした。朱文進が殺され、王延政が南唐に降伏すると、従效も南唐に降って泉州都指揮使に任ぜられた。南唐の保大四年(946)、泉州刺史王継勲を排除して泉州の軍政を掌握した。南唐はかれを泉州刺史として追認した。漳州を占領して董思安を刺史に任じた。七年(949)、南唐の李mが泉州に清源軍を設け、かれをを節度使とした。のちに南唐により同平章事・侍中・中書令に任ぜられ、鄂国公に封ぜられ、さらに晋江王に進んだ。南唐が後周の臣を称したのち、かれも使者を派遣して帰附を求めたが、後周の世宗(柴栄)に許されなかった。宋の建隆元年(960)、宋が建国されると、太祖(趙匡胤)はかれの帰順を許した。

陳洪進(914〜985)
  字は済川。泉州仙遊の人。閩の永隆六年(944)、朱文進が王延羲を殺し、自立して閩主となると、洪進は留従效・張漢思・董思安らとともに朱・連にそむき、殷帝王延政により都指揮使に任ぜられた。朱文進が殺され、王延政が南唐に降伏すると、かれも南唐に降って泉州都指揮使に任ぜられた。留従效の下で統軍使となった。宋の建隆三年(962)、留従效が亡くなると、年少の留紹鎡を清源軍節度使として擁立し、自身は節度副使となった。翌年、南唐の李Uにより清源軍節度使・泉南等州觀察使に任ぜられ、泉・漳二州を領した。乾徳二年(964)、宋が清源軍を平海軍に改めると、平海節度使・泉漳等州観察使・検校太傅に任ぜられた。太平興国三年(978)、開封に入朝し、泉・漳二州を奉還して、宋の太宗により武寧節度使・同平章事に任ぜられた。翌年、北漢征討に従った。六年(981)、杞国公に封ぜられた。雍熙元年(984)、岐国公に進んだ。翌年に病没すると、忠順公の諡が贈られた。


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