[唐]
⇒唐(高祖太宗期,高宗武周期,睿宗玄宗期,代宗徳宗期,憲宗穆宗期,文宗武宗宣宗期,懿宗僖宗期,昭宗昭宣帝期),突厥,吐蕃,渤海,吐谷渾
高祖(李淵)太宗(李世民)高宗(李治)中宗(李顕)睿宗(李旦)−〔周・武則天〕−中宗復辟−睿宗復辟−玄宗(李隆基)粛宗(李亨)代宗(李豫)徳宗(李适)順宗(李誦)憲宗(李純)穆宗(李恒)敬宗(李湛)文宗(李昂)武宗(李炎)宣宗(李忱)懿宗(李漼)僖宗(李儼)昭宗(李傑)哀帝(李祝)
于志寧(588〜665)
  字は仲謐。雍州高陵の人。于宣道の子。隋末、冠氏県長となったが、官を捨てて帰郷した。李淵(高祖)が長安に入ると、唐に帰順して謀を献じた。李世民(のちの太宗)のもとで、天策府中郎・文学館学士に進んだ。貞観三年(629)、中書侍郎となり、散騎常侍・太子左庶子を加えた。太子李承乾をしばしば諫めたが、聞き入れられなかった。太子が廃されたとき、属官はみな罪に問われたが、ひとり于志寧は免れた。晋王李治(のちの高宗)が太子となると、再び太子左庶子をつとめ、侍中・光禄大夫にうつり、燕国公に封ぜられた。永徽二年(651)、尚書左僕射・同中書門下三品に上った。まもなく太子太師に任ぜられた。律令格式や礼典の修定に参与した。高宗が王皇后を廃して武皇后を立てようとしたとき、無言のままどちらにもつかなかった。このため華州刺史に左遷された。老齢を理由に致仕を許された。『顕慶本草』。

上官儀(608?〜665)
  字は遊韶。陜州陜県の人。貞観初年、進士に及第した。弘文館学士に任ぜられ、秘書少監・同東西台三品に上った。文才があり、五言詩をもっとも得意とし、多くは命を受けて作り献上した。詞句は婉麗にしてたくみで整っており、士大夫に模倣されて上官体と称された。高宗(李治)の相談を受けて、武后廃位に賛成した。高宗が意を翻したため、武后廃位はおこなわれず、上官儀は武后に憎まれることとなった。麟徳元年(664)、武后の意を受けた許敬宗によって、上官儀は梁王李忠と通じて謀反をたくらんだと誣告され、獄に下されて死んだ。中宗のとき、名誉を回復されて、中書令を追贈された。

令狐徳棻(583〜666)
  宜州華原の人。令狐熙の子。唐の高祖(李淵)に仕えて、大丞相府記室に任ぜられ、武徳初年に秘書丞となった。起居舍人・礼部侍郎・国子祭酒・太常卿・弘文館学士・崇賢館学士などを歴任した。貞観年間、梁・陳・北斉・北周・隋の正史編纂に参与し、とくに『周書』の編纂を主導した。龍朔二年(662)、金紫光禄大夫を加えられた。

李義府(614〜666)
  瀛州饒陽の人。文章をよくし、貞観八年(634)に剣南道巡察大使・李大亮に見出され、推薦を受けて対策に応じ、及第した。はじめ門下省典儀に任ぜられた。文才と阿諛追従によって累進し、監察御史・太子舎人・中書舎人などを歴任した。『晋書』の編纂に加わり、兼修国史・弘文館学士に名を連ねた。高宗が武照を皇后に立てようとしたときには、意を迎えて賛同した。中書侍郎同中書門下三品(宰相)に上った。のち吏部尚書となり、官吏の人事権を掌握した。賄賂が公然化し、かれの朋党が朝政を専横したため、竜朔三年(663)に獄に下され、崔州に流された。

道宣(596〜667)
  俗姓は銭。字は法偏。南山律師。呉興の人。十六歳で出家し、智首に師事した。終南山の西明寺で、四分律の研究を行った。玄奘の訳経にも参加。律宗の開祖。『続高僧伝』、『大唐内典録』、『広弘明集』。

蘇定方(592〜667)
  名は烈。定方は字。冀州武邑の人。十五歳のとき、父に従って反隋の軍を討った。父の死後、部衆を引き継いだ。張金称を郡南で討ち、楊公卿を郡西で破った。のちに竇建徳に降り、竇建徳麾下の高雅賢の養子となった。竇建徳・劉黒闥のもとで戦功を挙げた。劉黒闥が敗れると、帰郷した。唐の貞観初年、匡道府折衝都尉として召された。四年(630)、李靖に従って突厥征討に参加し、先鋒をつとめた。頡利可汗を破ると、左武候中郎将に任ぜられた。また高句麗遠征にも参加し、右屯衛将軍となって、臨清県公に封ぜられた。顕慶元年(656)、前軍総管に任ぜられ、程知節に従って西突厥を討った。翌年、西突厥を鷹莎川で破った。三年(658)、伊麗道行軍大総管に任ぜられて西征し、阿史那賀魯の主力を撃破し、石国蘇咄城まで追撃して阿史那賀魯を捕らえた。左驍衛大将軍に任ぜられ、邢国公に封ぜられた。翌年、鉄勒思結部と疏勒が唐に叛くと、再び西征してパミール以西を平定した。左武衛大将軍に進んだ。五年(660)、神丘道大総管となって百済を攻め、百済王を捕らえた。のちに涼州安集大使となり、吐蕃の攻勢を防いだ。

李勣(?〜669)
  もとの名は徐世勣。字は懋功。曹州離狐の人。富家に生まれ、若くして隋に叛旗を翻し、翟譲・李密らとともに瓦岡塞にこもった。李密の魏の建国を助け、東海郡公となった。王世充に敗れて、唐の李淵を頼り降った。唐の統一戦に参加して転戦した。黎州総管となり、右武公大将軍を加えられ、曹国公に封ぜられた。貞観四年(630)に李靖とともに突厥討伐に活躍し、貞観十九年(645)には高句麗討伐に参加した。太宗の晩年に地方へ左遷されたが、高宗の時代になって同中書門下三品(宰相)とされた。高宗が武氏を皇后に立てるのに、褚遂良らが猛反発する中、「これ陛下の家事なり」といって反対しなかったという。唐朝創業の功臣のひとり。

李淳風(602〜670)
  岐州雍県の人。李播の子。若くして群書に通じ、とくに天文暦算に明るかった。武徳五年(622)、秘閣郎中に任ぜられた。傅仁均と暦法について論争して、太史局に入った。貞観七年(633)、新渾儀を製作した。十五年(641)、太史丞に進んだ。二十二年(648)、太史令に上った。「皇極暦」に依拠して新暦を立て、「麟徳暦」を完成させた。『典章文物志』、『乙巳占』、『推背図』。

許敬宗(592〜672)
  字は延族。杭州新城の人。許善心の子。大業年間に秀才に挙げられ、隋に仕えた。唐初に太宗が文才を聞いて招き、著作郎に任じられ、修国史を兼ねた。給事中・太子右庶子などを歴任した。高宗のとき、礼部尚書に上った。侍中・中書令・右相を歴任した。詩才に優れたが、軽薄で権柄づくの行為が多かったとされる。

閻立本(?〜673)
  雍州万年の人。閻立徳の弟にあたる。武徳九年(624)、李世民に召されて秦王府に入り、曹参軍に任ぜられた。このころ「秦府十八学士図」を描いた。貞観年間に吏部郎中をつとめた。顕慶年間に将作大匠となった。麟徳二年(656)、兄に代わって工部尚書となった。総章元年(668)、右相に上った。さらに中書令に転じた。南朝風の勧戒画にすぐれ、功臣の肖像画や外国使臣の朝貢図などを描いた。「歴代帝王図巻」。

王勃(647〜674)
  字は子安。絳州竜門の人。王績の兄・王通の孫にあたる。麟徳三年(666)、幽素の挙に及第した。沛王・李賢に仕えたが、闘鶏の遊戯のために書いた文章により、高宗の怒りを買って王府から追われ、蜀を放浪した。あるとき役所の奴隷が死罪をおかして逃亡したのを、王渤は一度かくまったが、発覚をおそれて殺してしまった。そのことが露見し、死刑になるところを大赦があって助けられた。このとき、父の福時が連座して交阯へ流されたので、訪ねていったが、南海を舟で渡る途中、海に落ちて溺死した。初唐四傑のひとり。『王子安集』。

劉希夷(651〜678?)
  字は庭芝。廷芝、挺芝とも書く。汝州の人。上元二年(675)、進士に及第した。美男子で酒を好み、琵琶の名手であった。宋之問の娘婿となった。「年年歳歳花相似たり」(代悲白頭翁)の一聯を之問から譲れと言われ、拒絶したために、之問は怒って、ひそかに奴隷に命じ土嚢で押し殺させたという。

善導(613〜681)
  光明大師、終南大師ともいう。臨淄の人。幼くして出家し、はじめ明勝に師事し、三論を学んだ。観無量寿経を得て浄土往生を願った。玄中寺の道綽に師事し、浄土三昧を修めた。終南山悟真寺・長安光明寺に住持した。武則天により奉敕検校僧に任ぜられた。浄土教を大成した。『観経疏』、『往生礼賛』。

裴行倹(619〜682)
  字は守約。絳州聞喜の人。裴仁基の次男。顕慶二年(657)、長安令に上ったが、武照(武則天)の皇后冊立に反対して西州都督府長史に左遷された。西域で歴戦して功績を挙げ、麟徳二年(665)に安西大都護に上った。総章二年(669)には吏部侍郎。儀鳳元年(676)には、唐に亡命していたササン朝ペルシアの皇太子を送る名目で軍を発し、西突厥を撃破した。翌年にも、また東突厥に大勝した。調露元年(679)には礼部尚書に上った。

孫思邈(581〜682)
  京兆華原の人。名医として知られた。また老荘百家の学に通じ、仏典にも詳しかったという。たびたび帝の招聘を受けたが固辞しつづけ、深山に隠れて著述に励んだ。『千金方』、『千金翼方』。

窺基(632〜682)
  俗姓は尉遅。字は洪道。玄奘に師事し、その訳経に参加。五台山に学び、道宣らと交わった。法相宗の開祖となる。百本の疏主、百本の論師と称された。『法苑義林章』、『成唯識論述記』。

薛仁貴(614〜683)
  名は礼。仁貴は字。絳州竜門の人。高句麗遠征に参加して功績を挙げ、太宗に「遼東を得たことより卿を得たことを喜ぶ」といわしめた。この功で、右領軍中郎将に任ぜられた。契丹の黒山を攻めて阿卜固を虜とし、左武衛将軍となった。竜朔二年(662)、天山で鉄勒九姓を破った。総章元年(668)に安東都護府が設置されると、初代都護となり、九姓突厥を天山で破って「三箭をもって天山を定む」といわれた。咸亨元年(670)には吐蕃に敗れて庶人に落とされ、その後も左遷されたりと不遇なときがあったが、開耀元年(681)に再び突厥を破った。

盧承慶(?〜?)
  字は子余。幽州涿県の人。盧赤松の子。唐の貞観初年、秦州参軍となった。太宗(李世民)がかれの弁辞をとりあげて考功員外郎に抜擢した。民部侍郎・雍州別駕・尚書左丞などを歴任した。永徽年間、簡州司馬に左遷され、洪州長史・汝州刺史をつとめた。顕慶四年(659)、度支尚書・同中書門下三品に上った。事件に連座して免職された。潤州刺史として再び起用され、刑部尚書となった。金紫光禄大夫として致仕した。

※(武周革命期)
則天武后(623〜705)
  
武照,周の武則天⇒
裴炎(?〜684)
  字は子隆。絳州聞喜の人。若くして弘文館に入って学び、『左伝』に通じた。明経に及第し、濮州司倉参軍に任ぜられた。御史・起居舍人・黄門侍郎を歴任した。調露二年(680)、同中書門下三品に上った。永隆二年(681)、侍中に進んだ。高宗が洛陽におもむくと、皇太子を擁して長安の留守を預かった。中宗が即位すると、中書令となった。中宗が皇后の父の韋玄貞を侍中に任じようとして、裴炎がこれに反対したため、帝の怒りを買った。武后と謀って中宗の廃位を画策し、睿宗が立つと、功により永清県男に封ぜられた。武后が武氏の七廟を立てようとしたのに反対し、また韓王李元嘉と魯王李霊夔を処刑しようとしたのにも反対した。徐敬業の乱のとき、武后に対して政権を帝に返すよう勧めたため、讒言を受けて獄に下され、都亭駅で斬られた。

駱賓王(640?〜684?)
  義烏の人。幼少のころから詩の才能を認められたが、素行はおさまらず、博徒と交際していた。道王に仕え、武功・長安の主簿を歴任。高宗の末年、武后に上書して容れられず、臨海の丞に左遷され、不満を抱いて辞任した。光宅元年(684)、徐敬業が武則天打倒の軍を起こしたとき、その幕下に加わり、檄文を起草した。武則天はこの檄を読み、顔色を変えて、「駱賓王のような才華のある人物を登用しなかったのは宰相の責任だ」と言った。徐敬業の軍が敗れた後、駱賓王は消息を絶った。伝説によれば、杭州の西の霊隠寺に住んだという。初唐四傑のひとり。『駱丞集』『駱臨海集』。

劉仁軌(602〜685)
  字は正則。汴州尉氏の人。幼いころから学問を好み、文章・歴史に広く通じた。唐の貞観年間、新安令・給事中に任ぜられた。顕慶四年(659)、青州刺史となった。翌年、対百済戦で海上輸送を担当したが、大風にあって船を転覆させ、免職となった。龍朔元年(661)、百済軍が唐将の劉仁願を包囲すると、劉仁軌は検校帯方州刺史に任ぜられて、軍を率いて救援し、包囲を解かせた。のちに劉仁願部とともに熊津の東で百済軍を撃破した。三年(663)、数城を落とし、百済王を逃亡させた。乾封元年(666)、右相に任ぜられた。咸亨五年(674)、雞林道大総管に任ぜられて、新羅を攻撃した。上元二年(675)、新羅の北方の要衝の七重城を落として凱旋した。爵位は公に進み、尚書左僕射に任ぜられた。儀鳳二年(677)、洮河道行軍鎮守大使となった。武則天が臨朝すると、特進を加えられ、知京都留守事をつとめた。まもなく文昌左相に改められた。劉仁軌の性格は剛直で、諫言をはばからず、軍律も厳正であった。垂拱元年(685)、病没した。

程務挺(?〜685)
  洺州平恩の人。程名振の子。若くして父に従って転戦し、勇力をもって名が知られた。右領衛軍中郎将に任ぜられた。調露二年(680)、裴行倹に従って西突厥の阿史那伏念を撃破し、右武衛将軍となった。永淳二年(683)、綏州の白鉄余の乱を鎮圧し、左驍衛大将軍・検校左羽林軍に進んだ。嗣聖元年(684)、単于道安撫大使となり、突厥に対する防御にあたった。謀反をたくらんだと誣告された裴炎を弁護して、武后の怒りを買い、処刑された。

盧照鄰(638〜689)
  字は昇之。幽州范陽の人。高宗のころ、ケ王李元恪に仕えて才能を認められ、新都の尉となった。病弱のため辞職して太白山にこもって養生していた。やがて片手と両足が動かなくなり、具茨山のふもとに田畑を買って住んだ。幽憂子と号し、自分の墓を作って、その中に寝たという。ついには家の前を流れる潁水に身を投げて死んだ。初唐四傑のひとり。『盧昇之集』。

李善(?〜689)
  揚州江都の人。博覧強記だったが、文章が下手で、書ロク(本のくずかご)と称された。高宗のとき、太子内率府録事参軍・崇賢館直学士・沛王侍読などをつとめた。『文選』の注を書き、顕彰された。のち城の令に任ぜられたが、事件に連座して、姚州に流された。許されたのちは講学につとめた。『文選注』、『漢書辯惑』。

欧陽通(?〜691)
  字は通師。譚州臨湘の人。欧陽詢の子。高宗・武則天の二朝に仕えて、奉議郎・行蘭台郎・中書舎人・殿中丞を経て、渤海開国子に封ぜられ、司農卿・判農言事にいたった。武承嗣を皇太子に擁立する動きに反対して殺された。書にすぐれ、父に対して「小欧陽」と呼ばれた。

楊烱(?〜692?)
  弘農華陰の人。顕慶六年(661)、神童の試験に及第し、校書郎となった。永隆二年(681)には崇文館学士に任ぜられた。徐敬業の叛乱に加担した嫌疑で梓州に左遷され、さらに盈川に移されて、その地で没した。傲慢で苛烈な性格で、盈川に在任中に気に入らぬ部下を打ち殺したこともあったという。初唐四傑のひとり。『楊盈川集』。

狄仁傑(630〜700)
  字は懐英。并州太原の人。狄知遜の子。幼いころから読書を好み、明経に及第して、ベン州参軍に任ぜられた。のちに并州都督府の法曹となる。高宗の儀鳳年間に大理丞となり、一年中に滞った一万七千人の囚人の事件を処理した。侍御史・朝散大夫を経て、寧州刺史となり、戎夏の宣撫に功を挙げた。江南巡撫使に転じて、呉楚の千七百カ所の淫祠を壊した。万歳通天元年(696)、契丹が冀州を陥落させると、魏州刺史に任ぜられ、次いで幽州都管に上った。聖暦元年(698)、突厥が趙州・定州を侵すと、河北道行軍副元帥となって迎撃の任に当たり、突厥が退くと安撫大使となった。その年、武則天に廬陵王・李顕(中宗)を太子にするよう勧めた。死後、文昌右相を贈られ、梁国公に追封された。

陳子ミ(661〜702)
  字は伯玉。梓州射洪の人。富豪の家に生まれ、若年のころは、任侠を愛し、狩猟・博打に日を送っていた。郷里の学校に入って行いをあらため、金華山に籠もって学問に励んだ。開耀二年(681)、進士に及第した。武則天に認められて、光宅元年(684)には麟台正宇に任ぜられ、右拾遺にいたった。聖暦初年(698ごろ)、辞職して郷里に帰った。県令・段簡が子ミの財産に目をつけ、言いがかりをつけて二十万銭奪った上、投獄した。病気がちで衰弱していたため、獄中で死んだ。『陳伯玉集』。

孫過庭(648?〜703?)
  字は虔礼。呉郡の人または陳留の人。中年になって仕官し、官は右衛胄曹参軍または率府参軍録事に上った。讒言を受けて不遇となり、洛陽の客舎で没した。書は二王に学び、草書・行書をよくし、臨模にたくみであった。『書譜』。

崔融(652〜705)
  字は安成。斉州全節の人。上元三年(676)に詞弾文律に及第し、宮門丞・崇文館学士を授けられた。中宗が皇太子であったとき、その侍読をつとめた。聖暦二年(699)に武則天に文才を認められて、著作郎に任ぜられ、右史内供奉を兼ね、鳳客舎人に遷った。翌年、張昌宗に逆らったため左遷されたが、まもなく許されて春宮郎中知制誥事となった。ふたたび鳳客舎人となって国史の編纂に従事した。司礼少卿にまで上った。張易之兄弟が誅殺されたのち、袁州刺史に左遷された。のち召されて国子司業となり、『則天実録』の編纂にあたった。「文章の四友」のひとり。

蘇味道(648?〜705)
  趙州欒城の人。若くから文名が高く、李嶠とともに「蘇李」とうたわれた。はじめ咸陽の尉となった。突厥遠征の軍に書記として参加し、武則天に才能を認められ、延載元年(694)には宰相に上った。しかし明確な政策を持たず、「自ら宰相は決断してはならぬ。ただ模稜(ごまかし)していればよいのだ」と言ったため、「模稜宰相」と呼ばれた。親の墓を作るために民衆の墓を壊したり、宰相らしくない行為が多かったため、武則天の政権が倒れると眉州刺史に左遷された。さらに益州長史に遷される途中で死んだ。

神秀(606〜706)
  号は大通禅師。汴州尉氏の人。武徳八年(625)、洛陽天宮寺で具足戒を受けた。蘄州黄梅県双峰東山寺に入って、弘忍に師事した。弘忍の死後、江陵当陽山玉泉寺に住持して禅法を開いた。武則天に招かれて長安にいたり、崇敬を受けた。北宗禅の祖とされる。

張柬之(625〜706)
  字は孟将。襄州襄陽の人。進士に及第して、清源丞に任ぜられた。永昌元年、賢良方正科に及第して、監察御史となった。聖暦初年、鳳閣舎人となった。合州刺史・蜀州刺史・荊州大都督府長史を歴任した。武則天が宰相にふさわしいものを狄仁傑に推薦させたところ、狄仁傑は柬之を推したので、則天は柬之を洛州司馬に任じた。ほどなく則天はまた狄仁傑に将相の才のあるものを挙げさせようとしたところ、「さきに推薦した張柬之が、まだ任用されていません」と答えた。則天は司馬に昇進させたことをいったが、狄仁傑は「臣は宰相となるべき者を推薦したのであって、司馬となるべき者を推薦したのではありません」と答えた。そこで則天は柬之を司刑少卿・秋官侍郎に任じた。さらに同鳳閣鸞台平章事・鳳閣侍郎に上った。神龍元年(705)、則天の病に乗じて桓彦范・敬暉らとともに政変を起こし、中宗を復位させ、唐の国号を復活させた。功により天官尚書・鳳閣鸞台三品となった。まもなく中書令・監修国史に転じ、漢陽郡王に封ぜられた。病を得て帰郷すると、特進を加えられ、襄州刺史に任ぜられた。翌年、武三思と対立して新州司馬に左遷され、憤死した。

袁恕己(?〜706)
  滄州東光の人。長安年間、司刑少卿となり、知相王府司馬に転じた。四年(704)、武則天の病が重くなると、張柬之らとともに兵を起こし、張易之・張昌宗を殺して、周の国号を廃し、中宗(李顕)を迎えて復位させた。功により中書侍郎に上り、南陽郡公に封ぜられた。まもなく中書令となり、南陽郡王に進んだ。のちに讒言を受けて環州に流された。周利貞に迫られて服毒したが死なず、撃ち殺された。

魏元忠(?〜707)
  もとの名は真宰。宋州宋城の人。儀鳳三年(678)、洛陽におもむいて上書し、用兵の巧拙を論じて、吐蕃に対する策を献じた。高宗の謁見を受けて秘書省正字に任ぜられた。文明年間、殿中侍御史に進んだ。監軍として叛乱平定に功を挙げ、司刑正・洛陽令となった。長寿年間、酷吏のために涪陵県令に左遷された。神功元年(697)、御史中丞として召された。聖暦二年(699)、鳳閣侍郎・同鳳閣鸞台平章事(宰相)に上った。長安三年(703)、張昌宗・張易之兄弟が殺害されると、高要尉に左遷された。中宗復位ののち、再び召されて衛尉卿兵部尚書・知政事となった。のちに中書令となり、斉国公に封ぜられた。景龍元年(707)、渠州司馬・思州務川尉に左遷され、涪陵で没した。

杜審言(646〜708)
  字は必簡。襄州襄陽の人。杜甫の祖父にあたる。咸亨元年(670)、進士に及第した。隰城の尉から洛陽の丞となったが、罪をえて吉州司戸参軍に左遷された。都に呼び戻されて武則天に認められ、張易之の保護を受けて、著作佐郎・膳部員外郎を歴任した。易之が殺されると、峯州に流された。その後、罪を許されて、国子監主簿・修文館直学士にいたった。才能はあったが傲慢で、人に憎まれたという。

韋后(?〜710)
  
⇒中宗韋皇后
上官婉児(664〜710)
  
⇒上官昭容
張若虚(?〜711?)
  揚州の人。官は兗州兵曹に上った。中宗の神龍年間、賀知章・賀朝・万斉融・邢巨・包融らとともに詩文の才で知られた。「春江花月夜」の一首によって不朽の名を残した。

宋之問(656?〜712)
  字は延清。汾州の人。宋令文の子。上元二年(675)、進士に及第した。武則天に認められて、尚方監丞となった。張易之にとりいったが、易之が殺されると、瀧州に流された。その後、洛陽に逃げ帰り、張仲之の家にかくまわれた。仲之が武三思を暗殺しようと企んでいるのを知って密告し、功によって鴻臚主簿から考功員外郎に昇進した。太平公主にとりいって横暴なふるまいが多かったため、越州長史に左遷された。睿宗が即位して、改悛の情が見えぬとして欽州に流され、次いで桂州で自殺を命ぜられた。沈佺期とともに、「沈宋」と併称される。『宋之問集』。

法蔵(643〜711)
  俗姓は康。字は賢首。祖先は康居の人。十七歳のとき太白山に入って出家した。智儼に師事して華厳経を学んだ。義浄らの訳経事業に参加した。また武則天のもとに参内して、華厳経を講義した。『華厳経探玄記』。

李嶠(644〜713)
  字は巨山。趙州賛皇の人。竜朔三年(663)、進士に及第した。武則天の時代、監察御史から同鳳閣鸞台平章事(宰相)にいたった。中宗が復位した後も同位にあったが、玄宗の即位とともに盧州別駕に左遷された。嫉妬深く、他人の出世や文才をねたんだという。『李嶠雑詠』。

郭震(656〜713)
  字は元振。魏州貴郷の人。身の丈七尺の偉丈夫で、任侠を好んだ。咸亨四年(673)、進士に及第した。則天武后に認められて右武衛鎧曹参軍・奉宸監丞となった。大足元年(701)、涼州都督・隴右諸軍州大使に任ぜられた。西北辺境に塞を築き、屯田を置き、豊かな稔りをえた。神龍年間に左驍衛将軍・検校安西大都護となり、疏勒に鎮した。安西四鎮と西域交通の保全につとめた。景雲二年(711)、同中書門下三品・吏部尚書に進んだ。翌年、朔方大総管となり、定遠城を築いた。玄宗が驪山で閲兵したとき、軍容が整わなかった罪で、新州に流された。開元元年(713)、饒州司馬にうつされる途中に病没した。

薛稷(649〜713)
  字は嗣通。汾陰の人。隋の薛道衡の曾孫にあたる。中書舎人・諫議大夫・太常少卿などを歴任した。睿宗に信任されて、黄門侍郎・太子少保・礼部尚書などをつとめた。竇懐貞が叛乱を図ったとき、謀議に加わったとして投獄され、自殺を命じられた。書画に巧みで、文学の才にも優れた。

義浄(635〜713)
  俗姓は張、字は文明。済州の人。七歳のころ出家して学問に励んだ。西天取経を志して、咸亨二年(671)、ペルシャ船に乗り込み、インドへ出発。インドに二十年余滞在し、三十余カ国を歴訪し、仏典とインド学を研究した。証聖元年(695)に帰国すると、洛陽で武則天に直々に迎えられたという。洛陽の福先寺・長安の西明寺などで仏典翻訳に従事した。『大唐西域求法高僧伝』、『南海寄帰内法伝』

盧蔵用(664?〜713)
  字は子潜。幽州范陽の人。進士に及第したが、官途に応じず、終南山に隠居した。長安年間、左拾遺として召された。中宗のとき、中書舎人・黄門侍郎などを歴任し、修文館学士となった。太平公主の一派として、昭州司戸参軍となり、ついで黔州長史に左遷された。『春秋後語』、『老子注』、『荘子内外篇注』。

慧能(638〜713?)
  大鑑禅師。俗姓は廬。范陽の人。二十二歳のころ出家し、弘忍に師事した。金剛経を重んじ、実践的な頓悟禅を唱えた。韶州曹渓宝林寺に住持した。南宗禅の祖となり、江南地方に勢力を拡大した。
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