[唐]
⇒唐(高祖太宗期,高宗武周期,睿宗玄宗期,代宗徳宗期,憲宗穆宗期,文宗武宗宣宗期,懿宗僖宗期,昭宗昭宣帝期),ウイグル,吐蕃,南詔,渤海
高祖(李淵)−太宗(李世民)−高宗(李治)−中宗(李顕)−睿宗(李旦)−〔周・武則天〕−中宗復辟−睿宗復辟−玄宗(李隆基)−粛宗(李亨)−代宗(李豫)−徳宗(李适)−順宗(李誦)−憲宗(李純)−穆宗(李恒)−敬宗(李湛)−文宗(李昂)−武宗(李炎)−宣宗(李忱)−懿宗(李漼)−僖宗(李儼)−昭宗(李傑)−哀帝(李祝)
李昂(808〜840)
唐の文宗⇒。
張籍(765〜830)
字は文昌。和州烏江の人。貞元十五年(799)、進士に及第した。秘書郎・太常寺太祝・水部郎中を歴任した。韓愈の門下のひとりで、その推薦により国子博士となり、国子司業に上った。王建とともに楽府の名手として知られた。『張司業詩集』。
李渤(773〜831)
字は濬之。洛陽の人。若くして嵩山に隠棲した。唐の穆宗(李恒)が即位すると、考功員外郎として召された。元和十五年(820)、宰相や大臣が凡庸で政治を誤らせていると上書したため、権臣たちに憎まれた。このため虔州刺史として出向させられた。長慶元年(821)、江州刺史に転じた。かれは「白鹿洞」で読書し、後世に拡張されて白鹿洞書院が建てられると、中国四大書院の筆頭に列せられた。
元稹(779〜831)
字は微之。河南河内の人。元和元年(806)、進士に及第した。左拾遺となった。しばしば皇帝に上書したため権臣に憎まれ、河南の尉に左遷された。のちに監察御史となったが、宦官の劉士元と争って江陵府士曹参軍に左遷された。通州司馬・虢州長史を歴任した。元和の末年(820ごろ)、都に呼び戻されて膳部員外郎となった。さらに中書舎人・工部侍郎を経て、長慶二年(822)には同中書門下平章事(宰相)にまで上ったが、わずか四カ月で罷免されて越州刺史・浙東観察使に転出した。武昌節度使に遷って没した。白居易の親友で、楽府にすぐれ、「元白」と併称された。『元氏長慶集』、『鶯鶯伝』。
薛濤(768〜831)
字は洪度。長安の人。父に従って成都に移り住んだ。父の死後、生活のために妓楼に入った。西川節度使の韋コウに認められて、妓女詩人として名声をえた。また元稹・白居易・杜牧らと交遊して、ともに詩作したという。
柳公綽(765〜832)
字は寛。京兆華原の人。渭南尉を経て、吏部員外郎に累進した。武元衡が西川に鎮すると、その下で判官となった。元和五年(810)、『太医箴』を献上して、憲宗を諫め、御史中丞に抜擢された。翌年、李吉甫が政権につくと、湖南観察使として出された。八年(813)、鄂岳観察使にうつされた。淮西の呉元済を討って功績を挙げ、都に戻って給事中・塩鉄転運使・御史大夫などをつとめた。長慶元年(821)、勅使に随従する人数を限定し、吏民の労を減らすよう奏上した。このため宦官に憎まれて、吏部侍郎にうつされた。山南東道に出向させられ、邠寧慶節度使とされた。太和四年(830)、河東に移鎮し、回鶻の軍官や沙陀の首長とよくつき合った。兵部尚書に在任中、亡くなった。
盧仝(?〜835)
号は玉川子。幽州范陽の人。嵩山の少室山中に籠居し、のちに洛陽に移って学問や文学に打ち込んだ。甘露の変のとき、たまたま宰相の王涯の屋敷を訪問していたため、王涯の一味とみなされて殺された。茶を愛好し、玉川泉から水を汲んで茶を煮出したため、玉川子を号としたという。『玉川子詩集』。
王建(751〜835)
字は仲初。潁川の人。唐の大暦十年(775)、進士に及第した。渭南尉から大府寺丞・秘書丞・侍御史などを歴任したが、貧窮に苦しんだ。太和年間には陝州司馬に転出した。のちに咸陽原に住んだ。韓愈の門下のひとりで、張籍と交友した。ともに楽府を得意としたため、「張王の楽府」と併称された。『王建詩集』。
王涯(765?〜835)
字は広津。太原の人。唐の貞元八年(792)、進士に及第した。はじめ藍田尉となり、左拾遺・翰林学士から起居舍人に進んだ。憲宗(李純)の元和初年、虢州司馬に左遷され、袁州刺史にうつされた。呼び戻されて兵部員外郎・知制誥となり、再び翰林学士をつとめ、工部侍郎に累進した。中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)に上った。穆宗(李恒)が立つと、剣南・東川節度使として出された。長慶三年(823)、御史大夫として呼び戻され、戸部尚書・塩鉄転運使となった。敬宗(李湛)のとき、山南西道節度使として赴任した。文宗(李昂)が即位すると、太常卿として召され、吏部尚書総塩鉄をつとめた。尚書右僕射となり、代郡公に封ぜられた。司空・門下侍郎に上った。宦官勢力の打倒を企図した事件(甘露の変)に連座して殺された。
令孤楚(766〜837)
字は殻士。敦煌の人。唐の貞元七年(791)、進士に及第した。はじめ太原節度使の書記となり、文才を徳宗に認められて右拾遺に任ぜられた。憲宗(李純)のとき、職方員外郎・翰林学士・中書舎人・華州刺史を歴任し、元和十四年(819)には同中書門下平章事(宰相)にいたった。穆宗(李恒)のとき、朝廷の派閥争いのため、衡州刺史に左遷されたが、また宣歙観察使となった。敬宗(李湛)・文宗(李昂)のころには、河南尹・宣武節度使・戸部尚書・天平節度使・吏部尚書などを歴任した。山南西道節度使に終わった。
僧澄観(737〜838)
清涼国師。華厳の四祖。俗姓は夏侯。越州山陰の人。十一歳のとき、越州宝林寺で出家した。至徳二載(757)、妙善寺の常照に具足戒を受けた。乾元年間に潤州栖霞寺で相部律を学んだ。越州にもどって開元寺で曇一に南山律学を受けた。さらに金陵で三論を学んだ。大暦年間に瓦官寺で大乗起信論と涅槃経を学んだ。のちに銭塘天竺寺にいたって法銑に華厳の講義を受けた。さらに蘇州で法華・維摩を学んだ。また径山道欽に南宗禅を学んだ。ほか各宗の教理を広く学んだ。大暦十一年(776)、峨嵋山・五台山に遊歴し、五台山の大華厳寺に住持して華厳経を講じた。『華厳経疏』を著した。貞元十二年(796)、唐朝に召されて長安に上り、南インドから送られた華厳経の梵本をもとに『大方広仏華厳経』を共訳した。十五年(799)、徳宗(李适)に華厳を講義して清涼国師の号を受けた。憲宗(李純)・穆宗(李恒)・敬宗(李湛)の各朝で尊敬を受けた。開成三年(838)三月、寂した。
裴度(765〜839)
字は中立。河東聞喜の人。貞元五年(789)、進士に及第した。はじめ河陰の尉となり、監察御史・起居舎人・御史中丞などを歴任した。元和十年(815)、宰相に上った。節度使の叛乱が相次いだが、自ら兵を率いて鎮撫にあたった。
李翱(772〜841)
字は習之。諡は文公。隴西成紀の人。一説に趙郡の人。貞元十四年(798)、進士に及第した。韓愈に師事した。元和年間に国子博士・史館修撰・考功員外郎を歴任した。元和十五年(820)、朗州刺史に左遷された。のちに礼部郎中として山南東道節度使にいたった。『復性書』を撰して、凡人が善性を回復するには情欲を去ることが必須だと説いた。また儒教・仏教の両思想を融合して、宋明の理学の先駆をなした。『李文公集』。
僧宗密(780〜841)
定慧禅師。圭峰禅師。華厳の五祖。俗姓は何。果州西充の人。はじめ儒学を学んだが、唐の元和二年(807)に考試を受験しようとして、偶然に遂州大雲寺の道円と出会い、かれに従って出家し、具足戒を受けた。「円覚経」を学んだ。五年(810)、襄漢にいたり、恢覚寺で澄観の弟子の霊峰に『華厳経疏』を学んだ。さらに長安に上って、澄観に二年間仕えた。十一年(816)、終南山智炬寺に住持して、『円覚経科文』と『円覚経纂要』を撰した。のちに長安の興禅寺に住持した。長慶元年(821)、清凉山に遊び、終南山草堂寺で『円覚経疏』を書き始めた。のちに豊徳寺で『華厳経綸貫』を撰した。太和年間に文宗(李昂)に召されて仏法の大意を答え、紫袍を賜り、大徳の号を受けた。以後たびたび皇帝の質問に答え、朝臣や士庶でかれに帰依するものが相次いだ。とくに宰相の裴休常の理解は深奥をきわめていたという。会昌元年(841)、興福塔院で寂した。
※晩唐(836〜907)
劉禹錫(772〜842)
字は夢得。中山の人。一説に彭城の人。貞元九年(793)、進士に及第した。王叔文の党に属し、将来の宰相と謳われたが、叔文の失脚とともに、朗州司馬に左遷された。元和十年(815)、都へ召し出されて罪を軽減されるはずだったが、このときに作った詩が権官たちの怒りに触れ、播州刺史に左遷されることとなった。だが、取りなす人があって連州に移された。その後、キ州に移り、和州刺史を経て都へ戻り、主客郎中・翰林学士・太子賓客を歴任、検校礼部尚書にいたった。『劉夢得集』。
賈島(779〜843)
字は浪仙、号は無本。范陽の人。科挙に幾度も失敗した後、長安を出て青竜寺に住んだ。元稹・白居易らの平易な詩風に反対し、苦吟して詩を練ることを唱えた。韓愈に詩の才を認められ、還俗して進士に及第した。微行していた宣宗に無礼を働いたため、長江主簿として都を追われ、のち普州司倉参軍に遷った。死んだときは一文の貯えもなく、病んだ驢馬と古い琴のみを所持していたという。『賈浪仙長江集』。
趙帰真(?〜846)
道士。武宗(李炎)の信任をえて道教経典を述作した。また仏教を排撃して、会昌の廃仏をみちびいた。宣宗(李忱)の代になって、仏教復興の詔が出ると、捕らえられて処刑された。
李紳(?〜846)
字は公垂。潤州無錫の人。元和元年(806)、進士に及第した。はじめ国子助教となったが、辞任した。穆宗(李恒)に召されて、右拾遺・御史中丞・戸部侍郎などを歴任した。敬宗(李湛)の時代になって端州に流されたが、復帰して浙東観察使・河南尹などを歴任した。会昌二年(842)、宰相に上った。淮南節度使に遷り、没した。『追昔遊集』。
白居易(772〜846)
字は楽天、号は香山居士。下邽の人。白季庚の子。貞元十六年(800)、進士に及第した。翰林学士から左拾遺を経て太子左賛善大夫に上ったが、淮西節度使の叛乱のときに上書したのが顕官の怒りに触れて、江州司馬に左遷された。のち忠州刺史に転じ、長慶元年(821)には呼び戻されて、主客郎中から中書舎人・知制誥となった。みずから望んで杭州・蘇州刺史を歴任した。太和元年(827)、ふたたび召還されて秘書監から刑部侍郎となり、太子賓客・太子少傅などを経て、刑部尚書に上った。会昌二年(842)に退官して、晩年は洛陽に閑居した。死後、右僕射の位を追贈された。「長恨歌」「琵琶行」などの詩で有名。『白氏文集』。
牛僧孺(779〜847)
字は思黯。安定鶉觚の人。幼いころ孤児となり、下社樊郷に田数頃を賜って、生活した。貞元年間に進士に及第した。元和三年(808)、賢良方正科の対策で李宗閔らとともに第一となるも、ときの弊政を批判して宰相李吉甫の怒りに触れたため左遷された。伊闕尉・監察御史・考工員外郎などを歴任した。穆宗(李恒)の初年、庫部郎中知制誥となった。御史中丞にうつって、冤罪事件を上に訴え、収賄蓄財を厳しく処断した。戸部侍郎・同平章事に抜擢されて、賄賂を受けず、清官として知られた。長慶三年(823)、中書侍郎に転じた。敬宗(李湛)が立つと、鄂州刺史・武昌節度使として赴任した。在任中、武昌城壁を修築し、賦役や積弊を除いた。大和四年(830)、李宗閔の推薦で、兵部尚書・同平章事に返り咲いた。翌年、対吐蕃政策をめぐってかれの意見が非難を受け、自ら宰相を退くことを求めた。六年(832)、揚州大都督府長史・淮南節度副大使として出向した。開成初年、東都留守となり、白居易らと交遊して詩を交わした。のちに山南東道節度使に転じた。武宗(李炎)のとき、李徳裕が用いられると、太子少保に降格され、さらに循州刺史に落とされた。宣宗(李忱)が立つと、衡州刺史・汝州刺史を歴任し、太子少師として返り咲いた。死語、太師を追贈された。かれの持論として、天道を忌避し、人道を称揚し、「興衰は人による」と主張し、為政につとめずに天命と称してごまかす風潮を批判した。『玄怪録』。
李徳裕(787〜849)
字は文饒。李吉甫の子。はじめ蔭官をもって校書郎に任ぜられた。河東節度使張弘靖のもとで従事をつとめた。元和十四年(819)、監察御史となった。穆宗(李恒)のとき、翰林学士・中書舎人・知制誥となり、重要な詔勅はかれの手になった。長慶二年(822)、宰相李逢吉の排斥にあい、浙西観察使として出向した。六州を治めること八年、弊政を正し、民間の風俗を改め、僧侶の得度をやめさせ、淫祠を廃した。敬宗が即位したとき、浙西からあやぎぬを織って献じるよう詔が下ったが、これを拒否し、「丹戻六箴」を書いて敬宗を諫めた。文宗が立つと、兵部侍郎として召された。李宗閔に排斥されて、鄭・滑節度使として出された。剣南西川節度使にうつった。蜀の防衛に意を用いた。大和五年(831)、吐蕃の維州の守将の帰順を納れるよう上奏したが、牛僧孺のために拒まれた。牛李の党争は日増しに熾烈となった。翌年、文宗は維州の失陥を後悔して、かれを召して兵部尚書・同平章事とした。牛僧孺・李宗閔は相次いで宰相を退いた。この後も党争のため三たび浙西に鎮した。開成二年(837)、淮西節度使となった。武宗(李炎)が立つと、門下侍郎・同平章事となった。公卿の子弟を朝廷の大臣とし、藩鎮の削領を図った。功により太尉に上り、衛国公に封ぜられた。郡県の冗員二千余名を省き、牛僧孺・李宗閔を嶺南に流した。宣宗(李忱)が立つと、宰相を罷免され、潮州司馬に左遷され、さらに崖州司戸に落とされた。任地において没した。『会昌一品集』、『次柳氏旧聞』、『文武両朝献替記』。
李公佐(770?〜850?)
字は顓蒙。隴西の人。貞元年間に、嶺南従事となった。元和年間に江西従事となった。会昌年間に揚州大都督府録事参軍に任ぜられた。大中二年(848)、事件に連座して官を去った。怪異な記事を好んで採集し、「南柯太守伝」「謝小娥伝」「廬江馮媼伝」「古岳涜経」の四編が現在も残る。
張彦遠(?〜?)
字は愛賓。河東猗氏の人。官は舒州刺史・大理寺卿などを歴任した。博学で画の鑑識を得意とし、従来の画論画史を大集成した。『歴代名画記』。
杜牧(803〜852)
字は牧之、号は樊川。京兆万年の人。太和二年(828)、進士に及第した。牛僧儒が淮南節度使として揚州にいたとき、その書記となった。次いで殿中侍御史・膳部員外郎・史館修撰を歴任し、のちに地方に出て黄州・池州・睦州・湖州などの刺史をつとめた。都に戻って考功郎中・中書舎人にまで上った。晩年、長安南郊の樊川に別荘を持って住んだ。詩人として知られ、美貌の風流才子で、杜甫と対比してかれは「小杜」と称された。
張祜(792〜852)
字は承吉。清河の人。長慶年間(822ごろ)、令孤楚が朝廷に推薦して官吏としようとしたが、元稹に阻まれて官途につけなかった。高官の家に寄食したが、妥協を好まぬ性格のため、身を落ちつけなかった。その後、淮南の地方を旅して曲阿の風物を愛し、家を建てて住んだ。一時、広東の知県をつとめたが、まもなく辞職して帰った。『張処士詩集』。
許渾(791〜854?)
字は仲晦。丹陽の人。太和六年(832)、進士に及第した。当塗・太平の県令をつとめ、病弱のため一時免官となったが、復帰して潤州司馬に任ぜられた。大中三年(849)、監察御史に上った。虞部員外郎・睦州刺史・郢州刺史を歴任した。晩年、丹徒郊外の丁卯澗に隠居した。
李商隠(813〜858)
字は義山、号は玉谿生。懐州河内の人。令孤楚に才能を認められてその幕下に入り、令孤楚の子の令孤綯の尽力によって、開成二年(837)に進士に及第した。しかし、翌年に令孤楚の反対派の王茂元の娘を妻とし、対立する二つの派閥の間を往来したので、節義を疑われた。校書郎から弘農尉・秘書省正字・桂林観察使の書記・京兆尹留後参軍・武寧節度使判官・太学博士・東川節度使の書記などを歴任した。その間にもたびたび辞職したり罷免されたりして、放浪生活を味わった。『李義山詩集』。
↓次の時代=唐−懿宗僖宗期
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