⇒歴代后妃(伝説,,,,,,三国,,北朝,南朝,隋,,五代,,,,
[隋(589〜618)]

文献独孤皇后(553〜602)
  名は伽羅。隋の文帝(楊堅)の独孤皇后。河南郡洛陽の人。独孤信の娘。十四歳のとき、楊堅の妻となった。隋の開皇元年(581)、皇后に立てられた。読書を好み、故事に通じ、文帝を通じて朝政に関与して、宮中二聖と称された。十九年(599)、宰相高熲を放逐した。翌年、楊素らと図って、太子楊勇を廃して庶民とし、晋王楊広を太子とした。性格は嫉妬深く、文帝や諸子が妃嬪を設けることを許さなかった。

宣華夫人陳氏(578〜606)
  隋の文帝(楊堅)の陳夫人。呉興郡長城の人。陳の宣帝(陳頊)の娘。陳が滅ぶと、隋の後宮におさめられた。独孤皇后の死後、文帝の寵愛を受けて、貴人となった。文帝が病の床に伏し、夫人と太子楊広が付き添ったとき、楊広が夫人に迫り、夫人は拒絶した。夫人は文帝に泣いて訴えたので、文帝は「畜生めにどうして大事を託することができようか。独孤皇后がわしを誤らせたのだ!」と怒って、楊広を廃して長男の楊勇を呼び戻そうとした。楊素が楊広に告げ、夫人や後宮のものが別室にうつされ、文帝はにわかに崩じた。夫人たちは変事を知っておそれた。その夜、夫人は太子楊広に蒸された。文帝の遺詔により陳氏は宣華夫人となった。煬帝(楊広)が即位すると、仙都宮にうつり、一年あまりして亡くなった。

容華夫人蔡氏(?〜?)
  隋の文帝(楊堅)の蔡夫人。丹楊郡の人。陳が滅ぶと、隋の後宮に入り、世婦となった。独孤皇后の死後、文帝の寵愛を受けて、貴人となった。文帝が病の床に伏すと、容華夫人となった。文帝が崩ずると、煬帝(楊広)の蒸するところとなった。

蕭皇后(?〜648)
  隋の煬帝(楊広)の蕭皇后。南蘭陵郡中都里の人。後梁明帝蕭巋の娘。江南の風俗で二月に生まれた子は挙げずといい、叔父の蕭岌に育てられた。蕭岌夫妻が亡くなると、張軻に養われた。晋王楊広に納れられて、晋王妃となった。煬帝が即位すると、皇后に立てられた。煬帝が游幸すると、必ず同行した。煬帝の荒淫を見て、「述志賦」を作ってよすがとした。江都に従ったが、宮人で煬帝に実情を告げたため殺された者が出て、物を言わなくなった。宇文化及が煬帝を殺害すると、宇文化及・竇建徳・突厥處羅可汗と身を寄せる所を変えた。貞観四年(630)、唐が突厥を破ると、礼遇をもって長安に迎えられた。

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[唐(618〜907)]
太穆竇皇后(569?〜613?)
  唐の高祖(李淵)の竇夫人。京兆郡平陵の人。竇毅の娘。母は襄陽長公主宇文氏。幼いころから『女誡』や『列女伝』を読み、北周の武帝(宇文邕)に愛された。楊堅が隋を建てると、竇氏は「男子に生まれなかったのが恨めしい」と言った。屏間に孔雀を描かせて、求婚者たちに二矢を射させたが、数十人に射させて当たらず、最後に李淵が両眼を射抜いたので、李淵にとついだという。李淵の母の元貞太后に孝事した。李建成・李世民(のちの太宗)・李玄覇・李元吉の四子を産んだ。涿郡で亡くなった。

文徳順聖長孫皇后(601〜636)
  唐の太宗(李世民)の長孫皇后。河南郡洛陽の人。長孫晟の娘。長孫無忌の妹にあたる。読書を好み、経史に通じた。武徳元年(618)、李世民にとつぎ、秦王妃に立てられた。太宗が即位すると、皇后に立てられた。李承乾・李泰・李治の三子を産み、長楽・晋陽・新城の三公主を産んだ。節倹を尊び、太宗と故事をしばしば論じ、朝政に関与しようとしなかった。たびたび兄の長孫無忌や諸外戚を官職から解くよう請願した。ときに魏徴が極諫したとき、太宗は怒って魏徴を斬ろうとしたが、皇后は君主が聡明で臣下が率直であるのを祝って、太宗をさとした。臨終にあたって、房玄齢を再び用い、外戚を退けるよう請うた。また忠諫を容れ、讒言をしりぞけ、労役を省くよう願った。

徐賢妃(627〜650)
  名は恵。唐の太宗(李世民)の徐夫人。徐孝徳の娘。幼くして論語や詩を読み、文章をものした。太宗が評判を聞き、才人として召した。貞観末年、太宗がたびたび遠征の軍を起こすことを諫めた。太宗が崩ずるとまもなく、二十四歳の若さで亡くなり、賢妃の位を追贈され、昭陵に陪葬された。

廃后王氏(?〜655)
  唐の高宗(李治)の王皇后。并州祁県の人。李治が晋王のとき、妃として納れられた。貞観十七年(643)、皇太子妃となった。永徽元年(650)、皇后に立てられた。子がなかった。ときに蕭淑妃が高宗の寵愛を受けていたため、武照を後宮に入れて間を割こうとした。武氏が寵愛を得て、彼女と蕭氏は寵愛を失った。六年(655)、武氏のむすめを殺した嫌疑をかけられ、また媚蠱をおこなったと誣告されて、蕭氏とともに廃され庶民に落とされ、宮中に捕らえられた。高宗が面会にきたので、泣いて温情に感謝した。武后がこれを知って、王氏と蕭氏を鞭打たせ、手足を切断させ、酒甕に漬けさせて殺させた。死後、王氏は蟒姓に変えられ、蕭氏は梟姓に変えられた。

則天順聖武皇后(623〜705)
  唐の高宗(李治)の武皇后。
武照,周の武則天⇒
和思順聖趙皇后(?〜?)
  唐の中宗(李顕)の趙夫人。京兆郡長安の人。趙瓌の娘。母は常楽公主。李顕が英王のとき、妃となった。武后に憎まれて幽閉された。父は括州に左遷され、彼女は牢に入れられた。護衛が煙突から数日煙が出ていないことを知り、覗いたところ、死体がすでに腐敗していたという。中宗が崩じたのち、韋后が廃殺されたので、趙氏が皇后の尊号を加えられて弔われた。

韋皇后(?〜710)
  唐の中宗(李顕)の韋皇后。京兆郡万年の人。李顕が太子となったとき、その妃となり、嗣聖元年(684)に皇后となった。武則天に廃された後、中宗は使者が来るとおびえ、自殺まで考えたが、彼女はそのたびに慰めた。中宗は感謝して、自分が復権したら彼女の好きなようにさせ、制約を設けないと誓った。中宗が復位すると、武三思らと結託し、外戚を重用して宮廷を専断した。景龍四年(710)には中宗を毒殺し、温王・李重茂を帝に立てようとしたが、兵を起こした李隆基(のちの玄宗)によって娘の安楽公主らとともに殺害された。

上官昭容(664〜710)
  名は婉児。陝州陝県の人。上官庭芝の娘。上官儀の孫にあたる。麟徳元年(664)、祖父と父は梁王に従って武則天に死を賜った。婉児はこのとき赤子であったが、母の鄭氏に従って後宮に入り、侍女となった。文辞をよくし、吏事に明るく、武則天にその才華を愛された。ひとたび罪を犯して死刑となるところ、墨刑に減刑された。景龍二年(708)、昭容に上った。武三思と私通したといわれる。李隆基(のちの玄宗)が兵を起こしたとき、韋后とともに誅に伏された。宮廷詩人として名高い。

肅明順聖劉皇后(?〜693)
  唐の睿宗(李旦)の劉皇后。徐州彭城の人。儀鳳年間に孺人として李旦にとつぎ、妃となった。寧王李憲・寿昌公主・代国公主を産んだ。睿宗が即位すると、皇后に立てられた。武則天が立ち、睿宗が皇嗣に降格されると、劉氏もまた妃となった。長寿二年(693)、竇氏とともに武則天を呪詛したと誣告され、宮中で殺された。景雲元年(707)、肅明皇后と追諡された。

昭成順聖竇皇后(?〜693)
  唐の睿宗(李旦)の竇徳妃。岐州平陸の人。竇孝ェの娘。孺人として相王李旦にとついだ。睿宗が即位すると、徳妃となった。李隆基(のちの玄宗)・金仙公主・玉真公主を産んだ。長寿二年(693)、劉氏とともに武則天を呪詛したと誣告され、宮中で殺された。玄宗が立つと、皇太后に追尊された。

廃后王氏(?〜?)
  唐の玄宗(李隆基)の王皇后。同州下邽の人。李隆基が臨淄王となると、召されて妃となった。先天元年(712)、皇后に立てられた。子がなく、武妃が寵愛を受けたので不満をいだいた。皇后の兄の王守一が北斗を祭り、天地文と帝の諱を刻んで、「皇后に子が生まれ、則天武后のようになりますように」と祈った。事が発覚して王守一は死を賜り、皇后は廃された。

貞順武皇后(?〜736)
  唐の玄宗(李隆基)の武恵妃。武攸止の娘。幼くして宮に入った。玄宗が即位すると、寵愛を受けた。王皇后が廃されると、恵妃に上り、礼遇と秩禄は皇后に匹敵した。

楊貴妃(719〜756)
  名は玉環。道名を太真ともいう。唐の玄宗(李隆基)の楊貴妃。蒲州永楽の人。幼くして孤児となり、叔父に養われた。玄宗の子の寿王(李瑁)の妃となった。武恵妃が亡くなると、玄宗に見初められ、後宮に入った。歌舞・音律を良くし、玄宗の寵愛を一身に受けて、娘子と称され、儀礼は皇后に匹敵する扱いを受けた。天宝四載(745)、貴妃に上った。三人の姉は国夫人となり、楊国忠をはじめ一族は高官に抜擢された。安禄山の乱が起こると、玄宗に従って蜀に逃亡する途中、馬嵬駅で随行の兵士たちの不満が爆発し、その要求により殺害された。彼女の挿話は白楽天の「長恨歌」で有名である。

元献楊皇后(?〜?)
  唐の玄宗(李隆基)の楊貴嬪。華州華陰の人。楊知慶の娘。景雲初年、東宮に入って良媛となった。楊良媛は妊娠したが、ときに太平公主が専権を振るっており、李隆基は子を望まず、張説に相談したところ、楊氏に堕胎薬を飲ませることにした。李隆基が自ら薬を煮ていると、戈を持った者が鼎の周りを三たび回るのを夢に見て、三たび煮た薬をひっくり返した。張説にそのことを告げると、「天命なり」と言ったのでやめた。男の子が生まれ、これが李亨(のちの肅宗)である。玄宗が即位すると、楊氏は貴嬪となった。子の李亨は王皇后の子として育てられた。のちに寧親公主を産んだ。肅宗の至徳二載(757)、元献皇太后と諡された。

廃皇后張氏(?〜762)
  唐の肅宗(李亨)の張皇后。ケ州向城の人。李亨が忠王のとき、宮に入り、良娣となった。安禄山が叛乱を起こすと、太子李亨に霊武にうつるよう勧めた。肅宗が立つと、寵愛を受けて淑妃となった。乾元元年(758)、皇后に立てられた。宦官の李輔国と結んで専権をふるった。建寧王李倓をひそかに殺し、太上皇(玄宗)を幽閉し、太子李豫の廃立をはかるなど、粛宗にも掣肘できなかった。のちに李輔国と権を争った。粛宗が危篤におちいると、越王李系を立てようとはかったため、李輔国と程元振が兵を率いて宮殿に入り、このとき殺された。

韋妃(?〜?)
  唐の肅宗(李亨)の韋夫人。

章敬呉皇后(?〜?)
  唐の肅宗(李亨)の呉夫人。濮州濮陽の人。呉令珪の娘。幼いころ父が事件に連座して死に、呉氏は東宮に入れられた。李豫(のちの代宗)を産んだ。十八歳の若さで亡くなった。代宗のとき、皇太后と追尊された。

睿真沈皇后(?〜?)
  唐の代宗(李豫)の沈夫人。呉興の人。開元の末年、東宮に入り、広平王李豫にとついで、李适(のちの徳宗)を産んだ。安禄山の乱が起こると、洛陽の宮中で叛軍に捕らえられた。李豫が洛陽を奪回したとき、取り戻されたが、長安に帰れなかった。史思明が河南を占領すると、沈氏は行方不明になった。代宗が立ち、李适が皇太子となると、沈氏の行方を捜索したが、見つからなかった。建中元年、生死不明のまま、皇太后の尊号を受けた。

崔妃(?〜?)
  唐の代宗(李豫)の崔夫人。崔峋の娘。母は韓国夫人楊氏。広平王李豫にとついで、召王李偲を産んだ。母の家の権力をかさに着て、すこぶる驕傲だった。楊貴妃・楊国忠はじめ諸楊氏が誅されると、かえりみられることなく、寂しく亡くなった。

貞懿独孤皇后(?〜775)
  唐の代宗(李豫)の独孤貴妃。独孤穎の娘。広平王李豫にとつぎ、寵愛を受けて、韓王李迥・華陽公主を産んだ。代宗が立つと、貴妃に上った。死後、皇后に追尊された。

昭徳王皇后(?〜787)
  唐の徳宗(李适)の王淑妃。王遇の娘。魯王李适に迎えられて嬪となり、李誦(のちの順宗)を産んだ。徳宗が即位すると、淑妃となった。貞元三年(787)、長らく病の床にあり、皇后に立てられることが決まったが、冊礼を終えることなく、亡くなった。

韋賢妃(?〜809)
  唐の徳宗(李适)の韋賢妃。李适にとついで、良娣となった。徳宗の貞元四年(788)、賢妃となった。徳宗が崩ずると、崇陵で奉仕した。

荘憲王皇后(763〜816)
  唐の順宗(李誦)の王夫人。琅邪の人。代宗のとき、選ばれて後宮に入り、才人となった。代宗により李誦(のちの順宗)に与えられた。李純(のちの憲宗)を産んだ。李誦が皇太子となると、良娣となった。順宗が立つと、すでに病が重く、皇后に立てられなかった。憲宗が立つと太上皇后となり、元和元年(806)に皇太后となった。外戚を抑制し、後宮をつつましく治めて、古の后妃の風ありと称された。

懿安郭皇后(?〜848)
  唐の憲宗(李純)の郭貴妃。華州鄭県の人。郭曖の娘。郭子儀の孫にあたる。広陵王李純にとついだ。李恒(のちの穆宗)を産んだ。元和元年(806)、貴妃となった。八年(813)、群臣が郭貴妃を皇后に立てるよう請願したが、帝は歳が子午であるのを忌み、貴妃は後宮の婦人たちの嫉視をおそれ、立ち消えになった。穆宗が立つと、皇太后となり、興慶宮にうつった。敬宗(李湛)が立つと、太皇太后となった。敬宗が殺されると、江王李昂(文宗)を召して、帝位につけた。李忱(のちの宣宗)の母の鄭氏はかつて郭氏の侍女であり、郭太后に恨みを抱いていた。宣宗が即位したのち、鄭太后は郭太后に礼を尽くさなかった。大中二年(848)五月、郭太后は鬱々として楽しまず、勤政楼に上り、投身しようとした。宣宗はこれを聞いて怒り、その夕に郭太后は突然亡くなったという。

孝明鄭皇后(?〜865)
  もとの姓は朱。唐の憲宗(李純)の鄭夫人。潤州の人。李リの乱のとき、李リに見いだされて侍人とされた。李リが殺されると、後宮に入れられ、郭貴妃に仕えた。憲宗に寵愛を受けて、李忱(のちの宣宗)を産んだ。李忱が光王となると、王太妃となった。宣宗が即位すると、皇太后となった。懿宗(李漼)が立つと、太皇太后となった。

恭僖王皇后(?〜845)
  唐の穆宗(李恒)の王夫人。越州の人。幼くして東宮に入って、太子李恒にとついだ。李湛(のちの敬宗)を産んだ。穆宗の長慶年間に妃に立てられた。敬宗が立つと、皇太后となった。文宗(李昂)が立つと、宝暦太后と称した。大和五年(831)、義安太后と改めた。

貞献蕭皇后(?〜847)
  唐の穆宗(李恒)の蕭夫人。閩の人。建安王李恒に近侍して寵愛を受け、李昂(のちの文宗)を産んだ。文宗が立つと、皇太后となった。武宗(李炎)のとき、積慶殿にうつり、積慶太后と号した。

宣懿韋皇后(?〜?)
  唐の穆宗(李恒)の韋夫人。太子李恒にとつぎ、李炎(のちの武宗)を産んだ。穆宗の長慶年間に妃に立てられた。武宗が立つと、皇太后に追尊された。

女学士尚宮宋氏(?〜825?)
  名は若昭。貝州清陽の人。宋廷芬の次女。代々儒学を伝える家に生まれ、文章をよくした。姉の宋若莘が『女論語』を著したので、それに註した。貞元年間、昭義節度使の李抱真に才能を見いだされて仕えた。徳宗に召されて文章を試され、経史の大誼を問われて答え、帝に気に入られ、宮中にとどめられた。徳宗の詩会に姉妹とともに列席したが、妾侍することがなかった。後宮の女性たちの師範をつとめ、学士と呼ばれた。穆宗のとき、姉の宋若莘が亡くなると、禁中の書籍を管理する職務を継ぎ、尚宮に任ぜられた。宝暦初年に亡くなった。梁国夫人の位を追贈された。

郭貴妃(?〜?)
  唐の敬宗(李湛)の郭貴妃。郭義の娘。穆宗(李恒)の長慶年間、選ばれて太子李湛にとついだ。敬宗が即位すると、才人となり、晋王李普を産んだ。貴妃に立てられた。

王賢妃(?〜846)
  唐の武宗(李炎)の王賢妃。邯鄲の人。歌舞をよくし、宮中に入った。潁王李炎にとついだ。武宗が即位すると、才人となり、寵愛を受けた。武宗が皇后に立てようと諮ったが、宰相の李徳裕に反対されて沙汰やみとなった。武宗が崩ずると、殉じて縊死した。

元昭晁皇后(?〜?)
  唐の宣宗(李忱)の晁夫人。幼いころ、光王李忱の邸に入り、最も寵愛を受けた。宣宗が即位すると、美人となった。鄆王李漼(のちの懿宗)・万寿公主を産んだ。大中年間に亡くなり、昭容の位を贈られた。懿宗が即位すると、皇太后に追冊された。

恵安王皇后(?〜866)
  唐の懿宗(李漼)の王夫人。咸通年間、貴妃に立てられ、普王李儇(のちの僖宗)を産んだ。七年(866)、薨去した。僖宗が即位すると、皇太后に追尊された。

郭淑妃(?〜?)
  唐の懿宗(李漼)の郭淑妃。幼いころ、鄆王李漼の邸に入った。宣宗(李忱)の後継争いが激しくなるなか、護衛を立て、鄆王とともに起居して、事なきをえた。同昌公主を産んだ。懿宗が即位すると、美人となり、のち淑妃に進んだ。僖宗のとき、禁中にあった。黄巣の乱のため、僖宗は蜀に落ちのびたが、郭氏は従うことができず、村里に流落して行方知れずとなった。

恭憲王皇后(?〜867)
  唐の懿宗(李漼)の王夫人。低い身分の出身であったという。咸通年間に後宮に入り、寵愛を受けて、寿王李傑(のちの昭宗)を産んだ。まもなく亡くなった。昭宗が立つと、皇太后に追冊された。

積善何皇后(?〜908)
  唐の昭宗(李傑)の何皇后。梓州の人。寿王李傑にとつぎ、美しく機知に富んでいたので、愛された。昭宗が即位すると、淑妃に立てられた。華州への巡狩に従い、皇后に立てられた。光化三年、劉季述らが兵を率いて帝位を譲るよう迫った。皇后は昭宗が害されることをおそれて玉璽を劉季述に与えた。昭宗と皇后は東宮に幽閉されたが、乱が平定されて返り咲いた。天復年間、昭宗とともに李茂貞を頼って鳳翔に拠った。李茂貞が朱全忠に敗れると、長安に帰還した。朱全忠に迫られて洛陽遷都すると、昭宗は殺された。哀帝が立つと、何氏は皇太后となり、積善宮にうつって、積善太后と号した。哀帝が朱全忠に帝位を譲ると、太后は殺された。
歴代后妃(五代)

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