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[隋(589〜618)] SUI
楊堅(541〜604) Yang Jian
  隋の初代文帝(Wendi)。在位589〜604。楊忠の子。妻は独孤氏。漢の楊震の子孫で弘農郡華陰の人とされるが、おそらくは虚伝。父の勲功により北周の随国公となる。宣帝(宇文贇)のころから北周の実権を握り、諸叛乱を鎮圧。静帝(宇文衍)の禅譲を受けて即位した。南朝陳を滅ぼして、中国を再統一し、開皇律令を制定し、官制を整備し、科挙を創設、中央集権化を進めた。国力は充実して「開皇の治」と讃えられた。長男の揚勇を廃嫡し、次男の楊広を太子としたが、死の直前にその非を悟って楊勇を呼び戻そうとして果たせなかった。楊広(煬帝)による毒殺という説も根強い。

楊広(569〜618) Yang Guang
  隋の二代煬帝(Yangdi)。在位604〜618。文帝(楊堅)の次男。父の即位とともに晋王となる。南朝陳を討滅する軍の行軍元帥となり、隋の中国統一を達成した。文帝と独孤皇后に取り入って、兄の揚勇を廃嫡させることに成功して、皇太子となった。文帝が没すると、揚勇を殺して即位。東京洛陽城の造営や大運河の建設などの大工事をおこなって国力を疲弊させた。北は突厥、西は吐谷渾を服属させ、南方の諸国に朝貢させた。東方は日本・新羅なども国書を送ってきたが、高句麗が服属しなかったので、高句麗に三回にわたって遠征軍を送りながら失敗し、その間に民衆叛乱が続発した。晩年、各地の叛乱をよそに、風光明媚な江都の離宮に移って奢侈と酒色にふけった。唐公李淵が挙兵して長安に入り、楊侑(恭帝)を立てたが、北帰の意志をみせず、軍士の不満がつのり、宇文化及らに殺害された。

楊侑(605〜619) Yang Yu
  隋の三代恭帝(Gongdi)。在位617〜618。元徳太子楊昭の子。煬帝(楊広)の孫にあたる。大業三年(607)、陳王に立てられた。のち代王に改封された。長安に鎮した。十三年(617)、李淵が長安に入ると、帝として擁立され、義寧と改元した。翌年、李淵に帝位を譲り、酅国公に封ぜられた。

楊侗(?〜619)
  字は仁謹。隋の皇泰主。恭帝。在位618〜619。煬帝(楊広)の孫にあたる。大業二年(606)、越王に封ぜられた。煬帝が巡幸すると、つねに東都(洛陽)の留守をつとめた。楊玄感が東都を攻めると、兵部尚書樊子蓋とともにこれをはばんだ。十三年(617)、煬帝が江都にうつると、段達ら七貴とともに洛陽の行政を統括した。翌年、煬帝が殺されると、元文都・王世充らに擁立されて帝を称し、皇泰と改元した。李密に遣使して招撫し、宇文化及を討たせた。唐の武徳二年(619)、王世充が鄭帝を称すると、廃されて含涼殿に幽閉された。まもなく縊殺された。

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[唐(618〜907)] TANG
李淵(566〜635) Li Yuan
  字は叔徳。唐の初代高祖(Gaozu)。神堯大聖大光孝皇帝。在位618〜626。隴西郡成紀の人。李モの子。母は独孤氏。煬帝の従兄にあたる。父の唐国公の位を襲爵した。大業年間に岐州刺史・殿内少監・衛尉少卿などを歴任した。煬帝の高句麗遠征において糧食の運搬にあたり、楊玄感の乱のときは弘化留守をつとめて、玄感の攻勢を防いだ。大業十一年(615)、山西河東慰撫大使となり、龍門の母端兒を討ち、また突厥の侵入を撃退した。十三年(617)、太原留守に任ぜられ、太原に鎮した。このとき、隋末の混乱に乗じて挙兵した。長安を陥落させて、代王楊侑を隋の恭帝として擁立した。義寧二年(618)に煬帝が殺害されると、恭帝から禅譲を受けて即位した。武徳と建元し、国号を唐とする。王世充・竇建徳らと争ったが、李世民らの活躍でこれを破り、武徳七年(624)に中国を統一した。在位中、律令新格を公布し、均田・租庸調制を定めた。軍府を置き、州県制を復活させた。長男の李建成を皇太子として立てていたが、李世民が李建成と四男李元吉の兄弟を殺害する「玄武門の変」が起こり、李淵も幽閉されて、李世民に譲位して太上皇となった。
李世民(598〜649) Li Shimin
  唐の二代太宗(Taizong)。文武大聖大広孝皇帝。在位626〜649。高祖(李淵)の次男。隋末の混乱期、太原留守の父を挙兵させ、一軍を率いて四ヶ月で長安を陥落させた。このとき弱冠二十歳であった。李淵が即位すると、秦王に封じられ、尚書令となる。隋末唐初の群雄割拠の中で、強大化した王世充・竇建徳の連合軍を虎牢に破り、抜群の功績を挙げた。「天策上将」などの官位を加号された。皇太子・李建成や斉王・李元吉と唐朝の後継者を巡って争い、武徳九年(626)長安の玄武門において建成・元吉の兄弟を殺害した(玄武門の変)。父・李淵を幽閉して即位すると、貞観と年号を改めた。房玄齢・杜如晦をはじめとして広く人材を集めて、適材適所に配置し、三省六部の官制を整えた。その治世は、後世に「貞観の治」と称揚されている。国が安定すると、西域を経略、突厥が降伏・来朝したが、高句麗遠征は人民を疲弊させた。後継者選定に悩み、外戚・長孫無忌の推す暗弱な李治(高宗)を皇太子にしたことは、後に禍根を残すこととなった。

李治(628〜683) Li Zhi
  字は為善。唐の三代高宗(Gaozong)。天皇大聖大弘孝皇帝。在位649〜683。太宗(李世民)の九男。母は長孫皇后。貞観五年(631)、晋王に封ぜられた。十七年(643)、太子となる。二十三年(649)、太宗が崩ずると、帝位についた。永徽二年(651)、新律(永徽律)を公布した。四年(653)、『律疏』を修訂した。永徽の政は、太平がつづき、貞観の遺風があった。六年(655)、王皇后を廃して、武皇后(武照)を立て、褚遂良ら元老を左遷した。顕慶五年(660)ごろから朝政のいっさいは武后が決裁するようになった。在位中、西突厥を平定し、高句麗を破り、安西四鎮を廃止した。三たび太子を変え、武后が執政するようになると、年号を十四たび変えた。泰山で封禅をおこない、各地を巡幸した。晩年、頭痛に苦しみ、眼を失明して崩じた。

李顕(656〜710) Li Zhe
  またの名を哲。唐の四代中宗(Zhongzong)。大和大聖大昭孝皇帝。在位683〜684、705〜710。高宗(李治)の七男。永隆元年(680)、章懐太子李賢が廃されると、代わって太子に立てられた。弘道元年(683)、高宗が崩ずると、帝位についた。翌年二月、韋玄貞を侍中にしようとして、武后の怒りを買い、廃されて廬陵王となり、房州にうつされた。聖暦元年(698)、再び太子となった。武則天の病が重くなると、宰相の張柬之に擁立されて復位し、国号を唐に戻した。国政は皇后韋氏・安楽公主・武三思らに専断され、功臣の多くは粛清され、官爵は濫発された。のちに韋后に毒殺された。

李旦(662〜716) Li Dan
  もとの名は旭輪。唐の五代睿宗(Ruizong)。玄真大聖大興孝皇帝。在位684〜690、710〜712。高宗(李治)の八男。母は武則天。学問を好み、草書・隷書をよくし、文字訓詁をもっとも愛した。はじめ殷王に封ぜられた。のちに相王・豫王に移封された。嗣聖元年(684)、武后によって中宗が廃されると、帝に立てられたが、政治に参与できなかった。天授元年(690)、武后が立って国号を周と改めると、皇嗣に降ろされ、武姓を賜った。聖暦元年(698)、廬陵王(李顕)が太子となると、再び相王に封ぜられた。神龍元年(705)、中宗が復辟すると、司徒・右羽林衛大将軍となった。景玄元年(710)、韋后が中宗を毒殺すると、息子の臨淄王李隆基が韋氏や武氏を誅したので、復位することができた。姚崇・宋mを相とし、中宗朝の斜封官をやめさせたが、政令の多くは太子李隆基や太平公主から出された。やがて太平公主が朝政を専断し、政治が乱れてきた。先天元年(712)、位を李隆基(玄宗)に伝え、自らは太上皇となった。翌年、玄宗が太平公主の党を誅殺すると、大権を帝に帰した。

武照(623〜705) Wu Zhao
  唐の高宗の武皇后(武周皇后)。則天武后。周の武則天(Wu Zetian)。在位690〜705。并州文水の人。武士彠の次女。母は楊氏。十四歳で太宗(李世民)の後宮に入って、才人となった。太宗の死後に出家し、いったん尼となる。高宗の即位後、還俗して後宮に入り、昭儀となった。王皇后に自分の娘を殺害した冤を着せて失脚させ、取って代わって皇后となった。朝政に加わり、長孫無忌ら反対派を粛清し、一族を登用して実権を握った。高宗の死後、中宗(李顕)・睿宗(李旦)を相次いで立てたが、廃し、嗣聖七年(690)にはみずから聖神皇帝となった。国号は周。中国唯一の女帝となる。武力反抗を平定して、周制を復興。密告を奨励して、酷吏・寵臣を専横させたが、彼女の時代に登用された人材が玄宗の「開元の治」で活躍したことは評価されている。長安四年(705)、宰相の張柬之らが彼女に退位を迫り、中宗が復位して唐が復活した。同年、上陽宮で没した。

李隆基(685〜762) Li Lungji
  唐の六代玄宗(Xuanzong)。至道大聖大明孝皇帝。明皇。在位712〜756。睿宗(李旦)の三男。二歳のとき楚王に、八歳で臨淄王に封じられた。中宗の皇后韋氏が中宗を毒殺して帝位につこうとしたとき、挙兵して韋一族を誅殺し、父の睿宗を帝位につけた。先天元年(712)、父から譲位されて帝位についた。翌年、太平公主らを打倒して、全権を握り、開元と改元した。姚崇・宋mらを登用して、官制を改革、外征を抑制して農民の生活を安定させ、戸口も増加し産業も発展して「開元の治」を現出させた。晩年は、宰相の張九齢を左遷して李林甫を登用し、楊貴妃と歓楽にふけって、政務を怠ったため、朝政は乱れた。李林甫が没すると、楊国忠と安禄山が争い、天宝十四載(755)には安禄山の乱をまねくこととなった。安禄山の軍が長安に迫ると、蜀に避難したが、その途中で帝位を皇太子(粛宗)に譲り、上皇となった。反乱が鎮圧されて長安に帰還した後、粛宗と不和となり、宮城内に幽閉されて、不遇な晩年を送った。

李亨(711〜762) Li Yu
  唐の七代粛宗(Suzong)。文明武徳大聖大宣孝皇帝。在位756〜762。玄宗(李隆基)の三男。開元二十六年(738)、太子に立てられた。天宝十四載(755)に安禄山の乱が起こると、翌年玄宗に従って西行し、途中で別れて北上し、霊武で即位した。郭子儀・李光弼らを任用し、回紇に兵を借りて叛乱の鎮圧をはかった。至徳二載(757)、広平王李俶・郭子儀らが長安・洛陽を収復した。乾元二年(759)、宦官の魚朝恩を観軍容使とし、郭子儀ら九節度を統括して、安慶緒を討たせたが、史思明の軍に大敗した。また宦官の李輔国に禁兵をつかさどらせ、国政を専決させたため、百官でかれの意に逆らう者は失脚した。功臣を猜疑し、張皇后と李輔国が政治を専断し、子の建寧王李倓は冤罪で死んだ。張皇后が李輔国の排斥をはかり、かえって李輔国が張皇后を捕らえると、驚愕のあまり粛宗は病を悪化させて崩じた。

李豫(727〜779) Li Yu
  もとの名は俶。唐の八代代宗(Daizong)。睿文孝武皇帝。在位762〜779。粛宗(李亨)の長男。広平王に封ぜられた。粛宗のとき、天下兵馬元帥に任ぜられ、郭子儀らとともに長安・洛陽の収復にあたった。即位後、再び回紇兵の助けを借りて史朝義を討ち、安史の乱を平定した。叛軍の降将を河北諸鎮の節度使に任じた。前後して李輔国・程元振・魚朝恩といった専権をふるった宦官を除去した。広徳初年、吐蕃が来寇し、長安を失陥して、陝州に逃れた。のち郭子儀を起用して長安を回復した。劉晏を任用して、塩の専売を確立し、財政の立て直しをはかった。仏教に傾倒し、諸僧に護国仁王経を誦させたほか、金閣寺を建立して巨費を費やした。節度使の力を抑えることができず、藩鎮割拠の形勢がつくられた。

李适(742〜805) Li Shi
  唐の九代徳宗(Dezong)。神武聖文皇帝。在位779〜805。代宗(李豫)の長男。代宗の初年、天下兵馬元帥となり、史朝義を討ち、河北を平定した。即位当初、旧弊を改めんと志し、四方からの貢献を停止させ、宮女を削減した。租庸調制を廃止し、両税法を施行した。自ら恃むところの強い帝は、盧杞・趙瓚を任用し、劉晏を冤罪で殺してしまった。建中四年(783)には京師で兵変が起こって奉天に避難し、翌年には李懐光に叛かれた。のち李晟らの力戦により長安を収復した。帝は功臣を猜疑し、藩鎮の抑制をはかり、宦官に禁軍を統べさせた。陸贄・陽城・韓愈らを排斥し、裴延齢を重用して政治の腐敗は進んだ。

李誦(761〜806) Li Song
  唐の十代順宗(Shunzong)。至徳弘道大聖大安孝皇帝。在位805。徳宗(李适)の長男。大暦十四年(779)、宣王に封ぜられた。同年末、太子となった。貞元二十一年(805)、徳宗が崩ずると即位した。王伾・王叔文らが輔政にあたった。病のため言語が通じず、宮中にいて王伾が消息を伝えた。在位八カ月にして宦官倶文珍らに退位を迫られた。位を太子の李純(憲宗)に伝え、太上皇となった。翌年、病死した。

李純(778〜820) Li Chun
  もとの名は淳。唐の十一代憲宗(Xianzong)。昭文章武大聖至神孝皇帝。在位805〜820。順宗(李誦)の長男。貞元二十一年(805)四月、太子に立てられた。同年八月、宦官倶文珍らに擁立された。順宗の代の政令をことごとく改廃し、王叔文を左遷し、柳宗元ら八人を遠方の司馬とした。杜黄裳・皇甫鎛・李吉甫らが執政にあたり、律令を修訂し、科挙を整え、官吏を減員した。藩鎮勢力の削減に着手し、元和十四年(819)までに淄青十二州を収復して、代宗以来の藩鎮跋扈の風がしばしおさまり、元和中興と称される。晩年、長生を求めて金丹を服用したため、怒りっぽくなり、宦官をしばしば罪に落として殺した。やがて宦官陳弘志により殺された。

李恒(794〜824) Li Heng
  もとの名は宥。唐の十二代穆宗(Muzong)。睿聖文恵孝皇帝。在位820〜824。憲宗(李純)の三男。建安郡王に封ぜられ、のち遂王に進んだ。元和七年(812)、太子に立てられた。憲宗が殺されると、王守澄らに擁立された。即位後、宴遊にふけり、国事に意をもちいなかった。佞臣に親しみ、忠臣をしりぞけ、法制は乱れた。両税と専売によって百姓の負担は増大した。朝廷内の朋党の争いは日増しに激しくなり、外では幽州・相州・鎮州で兵変が起こった。朱克融・王庭湊が定州・蔚州・貝州などを乱した。藩鎮の割拠が進み、財政は悪化した。長慶元年(821)、吐蕃と和議を結び、長慶会盟碑を立てて記念し、辺境が静まったことのみは評価されている。宦官の王守澄と宰相の李逢吉が結んで、国事を専制し、政治の腐敗は進んだ。帝は金丹を服用して死にいたったという。

李湛(809〜826) Li Zhan
  唐の十三代敬宗(Jingzong)。在位824〜826。睿武昭愍孝皇帝。穆宗(李恒)の長男。はじめ景王に封ぜられた。長慶二年(822)、太子に立てられた。穆宗が崩ずると即位した。遊宴・打毬・奏楽・角抵を好んで、芸人を近づけ大臣を遠ざけた。側近の小罪をとがめては責め打っていたので、恨みを買い、宦官の劉克明に殺された。

李昂(808〜840) Li Ang
  もとの名は涵。唐の十四代文宗(Wenzong)。元聖昭献孝皇帝。在位826〜840。穆宗(李恒)の次男。江王に封じられたが、兄の敬宗(李湛)が宦官の劉克明に殺されたため、王守澄・梁守謙らに擁立された。劉克明を殺して帝位についた。『貞観政要』を好み、政道に励んだが、官僚の間の「牛李の党争」に翻弄され、宦官の台頭に悩まされた。大和九年(835)、李訓・鄭注らが宦官誅殺をはかったが失敗し、宦官の仇士良らは宰相の王涯を誅したのをはじめ、李訓ら十余家を族誅した(甘露の変)。以後、宦官勢力に掣肘され、「周の赧王、漢の献帝は強臣に制せられたが、朕は家奴に制せらる」と嘆いたという。開成初年、『石壁九経』を建て、儒家諸経典の誤謬を正した。

李炎(814〜846) Li Yan
  唐の十五代武宗(Wuzong)。至道昭粛孝皇帝。在位840〜846。穆宗(李恒)の五男。はじめ穎王に封ぜられた。兄の文宗(李昂)が崩ずると、宦官の仇士良・魚弘志らが太子の李成美を廃して、かれを擁立した。宰相の李徳裕を信任して、李党によって政権は牛耳られた。会昌三年(843)、劉沔を派遣して回鶻の烏介可汗を破り、大和公主を迎え帰国させた。五年(845)、仏像の廃棄や僧尼の還俗を命じ、寺院の土地や奴婢を没収した(会昌の仏教弾圧)。方術神仙を尊び、道士趙帰真ら八十一人を禁中に召し、法籙を受けた。金丹を服用し、中毒死したという。

李忱(820〜859) Li Chen
  もとの名は怡。唐の十六代宣宗(Xuanzong)。元聖至明成武献文睿智章仁神聡懿道大孝皇帝。在位846〜859。憲宗(李純)の十三男。はじめ光王に封ぜられた。武宗の病が重くなると、宦官の馬元贄らにより皇太叔に立てられた。即位後、李徳裕の党を排斥し、牛僧孺の党を任用した。廃仏をやめ、趙帰真らを殺し、州県の官を増置して、前代の政風から一変させた。裴休を任用して、運河の水運を改善したほか、内政につとめた。「大中刑法統類」を撰した。吐蕃が内紛で弱体化し、張議潮が河湟十一州の地をもって帰順してきた。晩年、神仙に凝って服薬し、それがもとで崩じた。小太宗と称される治績を挙げたが、唐の衰勢を止めることはできなかった。

李漼(833〜873) Li Wen
  もとの名は温。唐の十七代懿宗(Yizong)。昭聖恭恵孝皇帝。在位860〜873。宣宗(李忱)の長男。はじめ鄆王に封ぜられた。宣宗の病が重くなると、左神策軍中尉の王宗実らが詔と偽って太子に立てた。宣宗が崩ずると即位した。在位中、政務を怠り、遊宴に節度がなかった。仏教を篤く信じ、仏骨を鳳翔に迎えた。咸通元年(860)、裘甫の乱が浙東で起こった。九年(868)、龐が桂林で起兵した。藩鎮がしばしば兵乱を起こし、南詔がたびたび辺境を騒がせた。政治は混乱し、民衆の負担は増大した。帝の死後、王仙芝・黄巣の乱として不満が爆発することとなる。

李儇(862〜888) Li Yan
  もとの名は儼。唐の十八代僖宗(Xizong)。恵聖恭定孝皇帝。在位873〜888。懿宗(李漼)の五男。晋王に封ぜられた。懿宗が崩ずると、宦官の劉行深らに擁立されて帝となった。即位すると、宦官の田令孜を重用し、阿父と呼び、政治の一切を委ねた。ときに南詔との戦いは日ごとに激しさを増し、軍費は増大し、財政は悪化していた。加えて連年、水害・旱害・蝗害が起こり、賦税の負担は重く、人民は苛斂誅求に苦しんだ。乾符初年、王仙芝・黄巣の乱が山東で勃発し、瞬く間に広がりをみせた。広明元年(880)、黄巣が洛陽・長安を攻め落としたため、帝は田令孜とともに蜀に逃亡した。中和五年(885)、長安に帰還した。田令孜と王重栄が塩の利権をめぐって争い、河東節度使の李克用らが長安に迫ったため、再び都落ちした。ときに江淮の地方の賦税は関中に届かず、各地の諸藩は気ままに攻伐を繰り返した。唐室は名のみ存して、実質の力を持たなかった。

李曄(867〜904) Li Jie
  もとの名は傑。のちに敏と改名した。唐の十九代昭宗(Zhaozong)。聖穆景文孝皇帝。在位888〜904。懿宗(李漼)の七男。はじめ寿王に封ぜられた。兄の僖宗が崩ずると、宦官の楊復恭らによって帝に擁立された。宰相の崔胤が藩鎮の兵を借りて宦官を誅殺しようと謀り、ひそかに汴州の朱全忠を呼び寄せた。帝は神策軍中尉の韓全晦によって鳳翔に連れ去られ、李茂貞のもとに拠った。朱全忠は鳳翔を囲み、李茂貞が降って、帝も長安に帰還した。朱全忠が宦官を殺しつくし、朝政を専決した。朱全忠が崔胤を殺し、洛陽遷都を決行すると、帝は各藩鎮に朱全忠討伐の密勅を送った。まもなく帝は殺された。

李祝(892〜908) Li Zhu
  もとの名は祚。唐の二十代哀帝(Aidi)。昭宣光烈孝皇帝。在位904〜907。昭宗(李曄)の九男。乾寧四年(897)、輝王に封ぜられた。朱全忠が昭宗を殺すと、詔と偽って太子に立てられ、にわかに即位した。朱全忠が朝政を専断しており、完全な傀儡であった。天祐四年(907)、朱全忠に帝位を譲り、曹州にうつされて、済陰王に封ぜられた。翌年、朱全忠に殺された。ここに唐は滅んだ。後唐の明宗により昭宣帝と追諡された。
歴代皇帝(五代)

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