[唐]
⇒唐(高祖太宗期,高宗武周期,睿宗玄宗期,代宗徳宗期,憲宗穆宗期,文宗武宗宣宗期,懿宗僖宗期,昭宗昭宣帝期),ウイグル,吐蕃,南詔,渤海
高祖(李淵)−太宗(李世民)−高宗(李治)−中宗(李顕)−睿宗(李旦)−〔周・武則天〕−中宗復辟−睿宗復辟−玄宗(李隆基)−粛宗(李亨)−代宗(李豫)−徳宗(李适)−順宗(李誦)−憲宗(李純)−穆宗(李恒)−敬宗(李湛)−文宗(李昂)−武宗(李炎)−宣宗(李忱)−懿宗(李漼)−僖宗(李儼)−昭宗(李傑)−哀帝(李祝)
※盛唐(713〜765)
玄宗(685〜762)
李隆基⇒。
魏知古(647〜715)
深州陸沢の人。乾封元年(666)、進士に及第して、著作郎となった。長安年間、鳳閣舎人・衛尉少卿を歴任した。相王李旦(睿宗)に従い、検校相王府司馬をつとめた。神龍初年、吏部侍郎・修国史となり、まもなく銀青光禄大夫に進んだ。睿宗が復辟すると、黄門侍郎となった。景雲二年(711)、右散騎常侍に転じた。睿宗に対してしばしば諫言をおこない、その実直を重んじられて、左散騎常侍・同中書門下三品(宰相)に上った。玄宗が即位すると、梁国公に封ぜられた。姚崇と合わず、工部尚書となって、宰相職から退いた。
劉幽求(655〜715)
冀州武強の人。唐の聖暦年間、制科に及第した。閬中県尉に任ぜられたが、刺史と対立して官を棄てて去った。長らくして朝邑県尉となった。桓彦范らが張易之・昌宗を誅殺したとき、武三思を処分しなかったため、幽求は「公らは葬られる地がないだろう」と警告した。李隆基(のちの玄宗)が韋后を誅殺すると、機密に参与して、詔勅は幽求の手で書かれた。中書舎人となり、中山県男に封ぜられた。景雲二年(711)、戸部尚書となった。まもなく吏部にうつり、侍中に任ぜられた。先天元年(712)、尚書右僕射となり、同中書門下三品・監修国史に上った。太平公主を除こうとして失敗し、封州に流された。太平公主が失脚すると、旧官に復帰した。開元初年、尚書左丞相・黄門監に進み、太子少保となったが、姚崇と対立して睦州刺史に左遷された。赴任途中で没した。
李思訓(653〜718)
字は建見。皇族の生まれで李林甫の伯父にあたる。高宗のとき江都令をつとめた。武則天が政権を握ると官を去った。中宗即位後は益州長史に任ぜられた。韋后の乱の平定に功績を立てて、左武衛大将軍に上り、彭国公に封ぜられた。山水画にすぐれ、のちの北宗画の祖と仰がれた。「江帆楼閣図」。
姚崇(650〜721)
字は元之。陝州陝石の人。姚懿の子。はじめ孝敬挽郎となり、郎中官を歴任した。武則天に引き立てられて侍中となり、たびたび進言した。聖暦三年、同鳳閣鸞台平章事(宰相)に上った。武則天が失脚して中宗が復位したとき、群臣が歓呼するなか、ひとり涕泣していたという。亳州刺史に左遷されたがかえって誅殺を免れた。睿宗が即位すると、兵部尚書・同中書門下三品となり、中書令に進んだ。太平公主によって同州刺史に左遷された。玄宗に呼び戻されて再び兵部尚書・同中書門下三品(宰相)となると、大綱十条を上書して政治を改革し、開元の治の基をきずいた。「救時宰相」と呼ばれた。開元四年(716)に息子の収賄事件に連座して辞任、致仕した。のちに太子少保に任ぜられ、死後に揚州大都督、さらに太子太保の位を追贈された。
劉知幾(661〜721)
字は子玄。徐州彭城の人。幼いころから左伝や史漢などの歴史書を好んだ。永隆元年(680)、進士に及第した。はじめ懐州獲嘉の主簿となった。聖暦二年(699)、武則天に召されて『三教珠英』の編纂に加わった。長安二年(702)には著作佐郎・修国史となり、『国史』の編纂にたずさわった。中宗が重祚すると著作郎となったが、史館の退廃に嫌気がさして、『史通』を私撰した。のち太子左庶子・崇文館学士となり、さらに左散騎常侍にまで上った。呉兢とともに『睿宗実録』『則天実録』『中宗実録』などを編纂した。死後、工部尚書を追贈された。
王翰(687?〜726?)
字は子羽。晋陽の人。景雲二年(711)、進士に及第した。豪放な性格で任侠の士と交わり、酒宴と狩猟に日を送った。張説に認められて、駕部員外郎に任ぜられた。張説が失脚すると仙州別駕に左遷されたが、やはり任侠の士を集めて酒宴にふけったため、さらに道州司馬に流されて、配所で没した。
蘇頲(670〜727)
字は廷碩。雍州武功の人。調露二年(680)、進士に及第した。武則天に認められて、左司禦率府冑曹参軍となり、監察御史・給事中・中書舎人などを歴任した。また玄宗の信任もあつく、工部侍郎・中書侍郎に昇進。開元四年(716)には宰相となり、許国公に封ぜられて玄宗を補佐した。
僧一行(683〜727)
俗姓は張、名は遂。号は大慧禅師。魏州昌楽の人。若いころは経史を学び、また陰陽五行に通じた。荊州五泉山の恒景に従って仏門に入り天台を学んだ。禅を崇山の普寂に、律を当陽山の悟真に教授を受けた。金剛智・善無畏に師事して密教を学んだ。新暦の作成を玄宗に命じられて、天体観測のために黄道游儀や渾天儀を作ったという。密教の第六祖とされる。『大日経疏』、『大衍暦』。
徐堅(657〜729)
字は元固。湖州の人。幼年のころから智力が人にすぐれ、沛王に召された。のちに進士に及第した。聖暦年間、東都留守判官をつとめ、徐彦伯・劉知幾らとともに、『三教珠英』の編纂にたずさわった。給事中を経て、集賢院学士に上った。『初学記』。
張嘉貞(665〜729)
嘉貞は字。蒲州猗氏の人。二十歳で五経挙に応じて、平郷尉に任ぜられた。事件に連座して郷里に帰った。長安年間、張循憲が河東采訪使となると、推薦を受けて武則天の謁見を受けた。則天に気に入られ、監察御史に任ぜられた。兵部員外郎・中書舎人を歴任し、秦州都督・并州長史となり、為政は厳粛で官吏や民衆に畏敬された。開元八年(720)、中書侍郎・同中書門下平章事に上った。まもなく銀青光禄大夫を加えられ、中書令に転じた。宰相の地位にあること三年、強硬な態度で襟度の狭さを恨まれた。十一年(723)、豳州刺史に左遷された。翌年、戸部尚書・益州長史となった。十三年(725)、台州刺史に転じた。
沈佺期(?〜729)
字は雲卿。相州内黄の人。上元二年(675)、進士に及第した。協律郎・考功郎中・給事中を歴任した。張易之の庇護を受けたが、武周朝が倒れて張易之が殺されると、賄賂を取った罪で驩州に流された。その後、呼び戻されて起居郎・修文館直学士となり、中宗にとりいって、中書舎人・太子少・事にいたった。宋之問とともに、「沈宋」と併称される。
宇文融(?〜729)
京兆万年の人。開元初年、富平主簿に任ぜられた。玄宗に認められて覆田勧農使となり、本籍を離れて浮浪したり隠れたりしている百姓の籍を正した。その功績で兵部員外郎・侍御史に上った。各地に勧農判官を派遣することを上奏して、戸口と税収の増加に貢献し、御史中丞に上った。張説と廷争したため魏州刺史として出されたが、河北の洪水のあとを治めて成功せず、鴻臚卿・戸部侍郎として戻った。開元十七年(729)、黄門侍郎・同中書門下平章事(宰相)に上った。百日にして侍御史・李宙の弾劾を受けて、玄宗の怒りを買い、汝州刺史に落とされた。さらに弾劾されて平楽尉に左遷され、厳州に流され、広州に遷される途中で没した。
張説(667〜730)
字は道済、または説之。洛陽の人。永昌元年(689)、進士に及第した。太子校書から鳳閣舎人に進んだが、張易之兄弟に逆らい、欽州に流された。易之が殺され中宗が復位すると、呼び戻されて工部侍郎・兵部侍郎を歴任。睿宗のとき、中書侍郎・雍州長史となった。また皇太子・李隆基(のちの玄宗)の侍読をつとめ、同中書門下平章事(宰相)に上った。玄宗の即位後、太平公主が蕭致忠らを登用したため解任された。太平公主が誅されると、中書令に上り、宰相に復した。燕国公に封ぜられた。のち姚崇・宇文融と対立して失脚した。左遷されて相州・岳州刺史を歴任した。姚崇の死後、ふたたび中書令となった。晩年、玄宗の信任を恃んで専断の行為があり、弾劾を受けて罷免されたが、また右丞相に返り咲いた。のち左丞相に遷った。文筆は蘇頲とともに「燕許大手筆」とうたわれた。『張説之文集』。
張鷟(658?〜730?)
字は文成、号は浮休子。深州陸沢の人。幼いころから聡明鋭敏で、群書に広く通じた。上元年間に進士に及第した。文辞にすぐれ、青銭学士の異名があった。長安初年に御史となった。開元初年、ときの弊政を批判したため、嶺南に左遷された。のちに司門員外郎として中央に戻った。文才は遠方まで鳴り響き、新羅・日本の使者も重金をもってかれの文を購い求めたという。『朝野僉載』、『竜筋鳳髄判』、『遊仙窟』。
源乾曜(?〜731)
相州臨漳の人。源直心の子。進士に及第した。神龍年間、殿中侍御史から江東に左遷された。景雲年間、諫議大夫に累進した。のち梁州都督として出された。開元初年、少府少監・邠王府長史に抜擢された。まもなく戸部侍郎・御史中丞となった。四年(716)、黄門侍郎、同紫微黄門平章事に上った。玄宗が洛陽に行幸すると、京兆尹となり、京師留守をつとめた。八年(720)、黄門侍郎・同中書門下三品となった。のちに尚書左丞相・侍中をつとめた。宰相の地位にあること十年、張嘉貞・張説らと協調して政権運営にあたった。李元紘・杜暹らが政権を握ると、唯々諾々と署名するのみとなった。十七年(729)、太子少傅となり、安陽郡公に封ぜられた。十九年(731)、老齢のため致仕し、その冬に没した。
僧善無畏(637〜735)
東インドの烏荼の人。国王であったが出家して、ナーランダ寺院で達磨掬多に師事して、密教を学んだ。開元四年(716)に長安にいたった。玄宗に厚遇をうけ、西明寺で密教経典の翻訳に従った。西域に帰ることを請うたが、帝が許さず当地で寂した。
宋m(663〜737)
荊州南和の人。二十歳のとき進士に及第した。はじめ上党尉をつとめ、監察御史・鳳閣舎人を歴任した。武則天に認められて、御史中丞に上った。張易之兄弟の専横の中でも節を曲げなかった。中宗復位後、吏部侍郎となり、諫議大夫を兼ねた。睿宗が即位すると、吏部尚書・中書門下三品(宰相)に上った。太平公主が専権を握ると、楚州刺史に左遷された。河北按察使・幽州都督・雍州長史などを歴任した。開元初年、京兆尹・御史大夫となった。また吏部侍中・広州都督などをつとめた。開元四年(716)、姚崇が宰相位の後継に彼を推薦し、刑部尚書・西京留守となり、ついで吏部尚書・黄門監をつとめた。八年(720)、開府儀同三司に上った。宰相として開元の治を支えた。二十年(732)致仕を許されて洛陽に隠居した。死後、太尉の官を追贈された。
張九齢(673〜740)
字は子寿。韶州曲江の人。幼少の頃、南方に流されてきた張説に才能を認められた。長安二年(702)、進士に及第した。左拾遺となり、玄宗の信任を得て左補闕・司勲員外郎を歴任。張説の腹心として活躍した。のちに中書舎人から工部侍郎・中書令(宰相)に至った。李林甫と衝突し、玄宗の信頼を失って荊州長史に左遷された。『曲江張先生集』。
孟浩然(689〜740)
字も浩然。襄州襄陽の人。若いころは科挙に及第できず、諸国を放浪した末、郷里の鹿門山に隠棲した。四十歳のとき都に出て、名士の屋敷に出入りし、王維らと親交を結んだが、官職は得られなかった。その後、張九齢が荊州長史として左遷されたとき、招かれて部下となった。まもなく辞任して去り、江南を放浪した末、郷里に帰った。隠棲中に、王昌齢の訪問を受け、病後にもかかわらず喜んで酒宴を開いたため、病気を悪化させて死んだ。『孟浩然集』。
僧金剛智(669〜741)
ヴァジラボーディ。南インドの人。ナーランダ寺院で出家し、竜樹の弟子にあたる竜智に師事して、密教を極めた。中国伝教を決意して、セイロン・南海を経由し、開元八年(720)に洛陽にいたった。密教の第五祖。中国における祖。仏典の漢訳にも貢献した。二十九年(741)インドに帰る直前に寂した。
王之渙(688〜742)
王之奐とも。字は季陵。晋陽の人。任侠を好み、若者を集めては狩猟と酒宴に日を送った。壮年となり、行状をあらためたが、科挙に及第できなかった。衡水主簿・文安尉を歴任した。詩は辺境の風光を描写し、気宇は大きく、感情は豪放であった。「出塞」と「登鶴雀楼」の詩が最も有名である。
裴耀卿(681〜743)
字は煥之。河東聞喜の人。裴守真の次男。二十歳のとき、秘書正字に任ぜられた。相王李旦(睿宗)の下で相王府典籤をつとめ、重んじられた。睿宗が重祚すると、国子主簿に任ぜられた。開元初年、長安県令をつとめた。十三年(725)、済州刺史となった。宣冀二州刺史として治績を挙げ、戸部侍郎として召された。二十年(732)、信安王李禕の下で副将をつとめ、契丹を討った。京兆尹・侍中を経て、黄門侍郎・同中書門下平章事(宰相)に上った。二十四年(736)、尚書左丞相となって、宰相職を退き、趙城侯に封ぜられた。天宝初年に、尚書左僕射と進んだが、李林甫に譲って尚書右僕射となった。死後、太子太傅の位を追贈され、文献と諡された。
賀知章(657〜744)
字は季真。越州永興の人。証聖元年(695)、進士に及第した。四門博士・太常博士・太子賓客を歴任し、開元十三年(725)には礼部侍郎・集賢院学士に至った。しかし晩年は放縦な生活を送り、四明狂客・秘書外監などと称して町を遨遊した。天宝三載(744)、天帝のもとに遊んだ夢を見たことから、郷里に帰って道士になろうと志し、長安の邸宅を道観として寄進した。『賀秘監集』。
李邕(678〜747)
字は泰和。揚州江都の人。李善の子。李キョウに才能を認められて、武則天のとき左拾遺に任ぜられた。剛直な性格で、しばしば天子を直諫しては左遷された。玄宗の信任をうけて、その即位後に戸部郎中となった。のちに姚崇と対立して括州司馬に左遷された。陳州刺史に遷ったが、張説と衝突して死罪となるところを、とくに赦されて遵化に流された。やがて赦免されて地方官を歴任し、北海太守となったが、こんどは宰相・李林甫に憎まれた。失策を告発されて、杖で打ち殺された。文章をよくし、楷書にたくみだった。
李適之(?〜747)
もとの名は昌。唐の皇族の子孫。神竜初年(705ごろ)、左衛郎将となった。開元年間には通州刺史・秦州都督・河南尹などを歴任して治績をあげた。玄宗の信任を得て、御史大夫・刑部尚書を歴任し、天宝元年(742)には左相となった。李林甫の陰謀を恐れて辞職したが、宜春太守に流され、任地へついたときに服毒自殺した。
呉兢(670〜749)
開封浚儀の人。若くして経史に通じ、史館に入って脩国史となった。中宗のとき、右補闕となり、相王を弁護して起居郎に遷った。玄宗が立つと、諫議大夫・脩国史となった。長く史官の職にあった。『唐書』『唐春秋』を私撰し、劉知幾とともに『武后実録』を撰した。また太宗と臣下の問答集という形で書かれた『貞観政要』は帝王学の教科書といわれた。
李林甫(?〜752)
幼名は哥奴。李思誨の子。皇族の生まれで、開元初年には太子中允に、開元十四年(726)には宇文融に推されて御史中丞となった。玄宗の寵愛した武恵妃と親しく、そのため取り立てられた。開元二十三年(735)には同中書門下平章事(宰相)に上った。上に迎合し、賢才の士を排して専横したため、政治の腐敗を招いた。「口に蜜あり、腹に剣あり」と世間に評された。安禄山を重用して大軍を預け、のちの叛乱を招いた。
崔(?〜754)
汴州の人。開元十一年(723)、進士に及第した。司勲員外郎・太僕寺丞に至った。若い頃は浮艶な詩を作っていたが、晩年は気骨に富む作風に変わった。人となりは軽薄で、博打と酒を好み、美人を選んでは妻とした上、飽きるとすぐ離縁し、四、五回も妻を変えたという。
高仙之(?〜755)
高句麗の人。高舎雞の子。父の代から唐に仕えた。父の功により游撃将軍となり、田仁琬・蓋嘉運らの下で西域を転戦した。開元末年には安西副都護・四鎮都知兵馬使に上った。天宝六載(747)にパミール高原に進出し、吐蕃と結んでいた小勃律を討った。これによって西方の七十二カ国を服属させた。九載(750)には石国(タシケント)を討って国王を捕虜としたが、翌年のタラス河畔の戦いでアッバース朝イスラム帝国と西域諸国の連合軍に敗れた。その失敗を朝廷に隠して報告せず、自己の保身を図った。武威太守・右羽林大将軍などをつとめ、密雲郡公に封ぜられた。安禄山の乱が起こると、兵五万を率いて封常清の後詰めとして東に向かった。封常清が洛陽を失陥したため、潼関に退いて守り、叛乱側も攻め入ることができなかった。しかし監軍の辺令誠が敗北として報告したため、玄宗の怒りを買って軍中で斬られた。
王昌齢(700?〜755?)
字は少伯。江寧の人、あるいは太原の人。開元十五年(727)、進士に及第した。校書郎・氾水尉・江寧丞などを歴任したが、素行が悪く、竜標尉に左遷された。安禄山の乱が起こって、故郷に帰ったが、刺史の閭丘暁に憎まれて、殺された。『王昌齢詩集』。
顔杲卿(692〜756)
琅邪郡臨沂の人。顔元孫の子。顔真卿の従兄にあたる。はじめ父の蔭官により遂州司法参軍をつとめた。厳正剛直で知られた。安禄山に抜擢されて常山郡の太守となった。安禄山が乱を起こすと唐朝側に立ち、兵を率いて河北十七郡を奪回した。史思明の軍に攻められ、常山にこもったが敵せず、捕らえられた。洛陽の安禄山の前に引き出され、かれを面罵して殺された。
楊貴妃(719〜756)
名は玉環。道名を太真ともいう。蒲州永楽の人。玄宗の子の寿王(李瑁)の妃だったが、玄宗に見初められ、玄宗の後宮に入った。玄宗の寵愛を一身に受けて、天宝四年(745)には貴妃となり、三人の姉は国夫人となり、楊国忠をはじめ一族は高官に抜擢された。安禄山の乱が起こると、玄宗に従って蜀に逃亡する途中、馬嵬駅で随行の兵士たちの不満が爆発し、その要求により殺害された。彼女の挿話は白楽天の「長恨歌」で有名である。
楊国忠(?〜756)
もとの名はサ。蒲州の人。楊貴妃の従祖兄にあたる。無頼の徒で無学だったが、楊貴妃が入宮すると、任用されて玄宗の側近となった。李林甫と組んで、玄宗の機嫌を取り、信任された。二度にわたって南詔を討ち、多大な犠牲を払って、成果がえられなかった。李林甫の死後は、宰相に上り、私腹をこやした。安禄山を掣肘するため、たびたび玄宗に讒言した。安禄山の乱が起こると、長安を脱出した玄宗に随行したが、蜀に向かう途中で馬嵬駅で同行の兵に殺された。
李トウ(?〜756?)
太原文水の人。明経の試験に合格し、開元初年に咸陽の尉となった。張説に才能を認められて、監察御史・給事中・河南少尹を歴任した。天宝初年には清河太守から尚書右丞・京兆尹・東都留守にいたった。安禄山の乱が起こると、叛軍に捕らえられて殺された。
張巡(709〜757)
字も巡。ケ州南陽の人。開元二十四年(736)、進士に及第した。太子通事舎人から清河・真源の令を歴任。善政を布いた。安禄山の乱のとき、手兵を率いて雍丘に立てこもり、千余人で数万の敵軍を引き受け、数ヶ月の間城を守り続けた。その後、睢陽に移って籠城を続けたが、力尽きて城は陥落し、捕らえられて殺された。
安禄山(705〜757)
もとの名は軋犖山。営州柳城の人。ソグド人の出身。安延偃の子。成長すると六カ国語を解し、はじめ互市牙郎となったという。平盧・范陽節度使の張守珪に認められて部将となり、その仮子となった。天宝元年(742)、平盧節度使に任ぜられた。李林甫に取り入って、玄宗に謁し、玄宗に気に入られた。三載(744)、范陽節度使を兼ねた。また、楊貴妃に取り入ってその養児となった。十載(751)には河東節度使を兼ねて、三節度使を兼任。李林甫が没すると楊国忠と対立。楊国忠がたびたび安禄山に叛意ありと讒言したため、十四載(755)に危機感に駆られて禄山は叛乱を起こした(安禄山の乱)。洛陽・長安を陥落させ、翌年には大燕皇帝を称し、聖武と建元した。唐朝の抵抗やウイグルの援兵の参戦で、やがて戦線は膠着した。禄山は失明と疽のため凶暴となり、子の安慶緒に殺された。
哥舒翰(?〜757)
安西の人。哥舒道元の子。若いころは家財を頼って、任侠であった。四十を越えてはじめて仕官し、王忠嗣の麾下で吐蕃と歴戦し功績を重ねた。左衛郎将・右武衛将軍などを歴任した。天宝六載(747)、隴右節度使に上った。のちに安西節度使を兼ねて、吐蕃の侵入を防いだ。安禄山と険悪な仲だったため、楊国忠によって利用され、さらに河西節度使を兼ねて西平郡王に封ぜられた。のち尚書左僕射・同中書門下平章事に上ったが、安禄山の乱を討伐するため出征した。高仙之の跡を継いで潼関に駐屯していたが、楊国忠との関係が悪化し、讒言されたため玄宗の不信を買った。洛陽奪回を命ぜられてやむをえず撃って出て、大敗した。保身をはかる部下のために捕らえられ、安禄山軍に引き渡された。同平章事に任ぜられたが、のち幽閉された。洛陽が唐軍に奪回されたとき、安慶緒に殺された。
王維(699〜759)
字は摩詰。太原祁県の人。九歳で詩文を作り、弟の王縉とともに評判が高かった。書および音楽に詳しく、岐王に才能を認められた。開元十九年(731)、進士に及第した。太楽丞に任ぜられたが、事件に連座して済州司倉参軍に左遷された。張九齡が政務をにぎると、右拾遺に抜擢された。監察御史となったが、母を失って喪に服した。喪が解けると、左補闕・庫部郎中・文部郎中を歴任して給事中となったが、安禄山の乱が起こり、逃げ遅れて捕らえられた。安禄山に仕官を強要され、やむなく受諾して給事中をつとめた。乱の鎮圧後、太子中允に降職されたが、のちに昇進して尚書右丞にまでのぼった。三十歳のころに妻を亡くし、生涯再婚しなかった。詩人として著名だが、書画にもすぐれ、南宗画の祖とされる。『王右丞集』。
儲光羲(707〜759)
兗州の人。開元十四年(726)、進士に及第した。監察御史となったが、安禄山の乱のとき、叛軍に捕らえられ、その朝廷に仕えた。ために、叛乱鎮定ののち、投獄され、嶺南に流されて死んだ。田園生活を詠んだ詩を多く作った。
安慶緒(?〜759)
営州柳城の人。安禄山の次男。父が叛乱を起こして大燕皇帝を名乗ると晋王に封ぜられた。病衰した禄山が異母弟の安慶恩を立てようとしているのに危機感を抱き、厳荘らと共謀して父を拭した。跡を継いで大燕皇帝として立ったが、郭子儀・李光弼らの唐軍に連敗し、長安・洛陽を失陥し、衛州に敗れ、鄴に逃れた。史思明のもとに赴き、そむかれて殺された。
張均(691〜760)
洛陽の人。張説の子。太子通事舎人・中書舎人・兵部侍郎を歴任した。また父の燕国公の位を襲爵した。宰相の地位を望んだが、李林甫・楊国忠らに阻まれて刑部尚書にとどまり、不満を抱いた。安禄山が叛乱して、その軍が長安に入ると、その下で中書令(宰相)に任ぜられた。叛乱が鎮定されると、死罪となるべきところ父の功により減刑されて、合浦に流されて没した。
史思明(?〜761)
営州柳城の人。突厥の出身。安禄山が乱を起こすと、これに従った。常山を攻略して顔杲卿を捕らえた。しかし郭子儀・李光弼には連敗を喫した。安禄山が潼関を落とすと、河北諸郡を平定した。安慶緒が父の禄山を殺すと、范陽で自立し唐に降った。粛宗が彼を殺そうとしたので、再び兵を起こし、安慶緒を殺してその軍を併せ、洛陽を奪って大燕皇帝を称した。末子の史朝清を溺愛したため、長男の史朝義に鹿橋で縊殺された。
韓幹(701〜761)
藍田の人。貧家の生まれで、幼いころは酒屋の手代をして働いた。王維に見出されて画を学んだ。玄宗の天平年間に太府寺丞に上った。とくに人馬の絵に巧みであった。代表作は「照夜白」。
李白(701〜762)
字は太白、号は青蓮居士。綿州彰明の人。彼の母は太白星(金星)を夢見て、彼を身篭もったという。 若くは官途を目指して挫折を重ねた。剣術を好み、任侠を愛し、各地を遊歴した。四十二歳になって長安にいたり、賀知章の推薦で玄宗に拝謁し、翰林供奉に任ぜられた。高力士を侮辱して憎まれ、「清平調三首」が楊貴妃を侮辱したものだと讒訴されて宮廷をしりぞいた。再び放浪の生活に入ったが、安禄山の乱が起こると、永王の軍に参加。しかし永王は粛宗と対立して殺され、李白も夜郎に流された。配所に赴く途中で大赦にあい、長江を下って、江南を流浪していたが、当途にいたり、そこで死んだ。一説によると、酒に酔い、池に映じた月を取ろうとして溺れ死んだのだという。『李太白集』。
高力士(684〜762)
もとの姓は馮。潘州の人。嶺南討撃使・李千里に閹児として献じられて宮廷に上がり、武則天のもとで宦官としてつとめた。高延福の養子となり、高氏を継いだ。諸侯王であった李隆基(玄宗)に仕え、太平公主を打倒するのに力があった。玄宗の即位後、右監門衛将軍・知内侍省事に任ぜられ、禁軍を掌握し宦官の取締りにあたった。玄宗朝の事務的な決済を任され、李林甫・楊国忠・安禄山らも彼を頼った。安史の乱が起こると、玄宗に随行して蜀へ行き、斉国公に封ぜられた。都に戻ったのち、李輔国に誣告されて流された。宝応元年(762)、許されて帰る途中、玄宗の死を知り、悲憤のうちに没した。
李輔国(?〜762)
本名は静忠。玄宗のとき、宦官となり高力士に奴僕として仕えた。養馬院官帳となり、認められて太子・李亨に近侍した。安史の乱のとき、馬嵬駅で楊国忠を誅殺した。粛宗が即位すると、太子家令・判元帥府行軍司馬に上った。至徳二載(757)、開府儀同三司を兼職し、百官の上奏が彼を通して粛宗に伝えられるようになった。代宗にその専横を嫌われ、程元振が台頭したこともあって、権限を削られ、のちに暗殺された。
鑑真(688〜763)
俗姓は淳于。揚州江陽の人。長安・洛陽に遊学して相部宗および南山律を学んだ。日本からの留学僧の栄叡・普照らに請われて、天宝元年(742)に日本への伝戒を志した。渡航失敗を重ねて盲目となりながらも、十一年を経て六度目の天宝十三載(天平勝宝六年,754)に日本に到着。東大寺で聖武上皇・孝謙天皇以下に授戒。唐招提寺を創建し、律宗の祖となった。唐大和尚と称された。
史朝義(?〜763)
営州の人。突厥の出身。史思明の長男。父が大燕皇帝を称すると、懐王に封ぜられた。父・史思明は弟・史朝清を偏愛したため、父子は不和であった。上元二年(761)、唐朝の衛伯玉の軍に敗れ、軍令により処分されそうになったため、駱悦らと謀って父を殺し、大燕皇帝を称した。唐軍に敗れ、洛陽を失陥し、范陽に逃れようとしたが、部将の田承嗣・李懐仙らが唐に降ったために、進退に窮して自殺した。
李光弼(708〜764)
営州柳城の人。契丹の出身。李楷洛の子。左衛親府左郎将・安北都護などをつとめ、王忠嗣のもとで吐蕃と戦った。天宝十四載(755)安史の乱が起こると、郭子儀に推挙され、御史大夫・河東節度使に上った。郭子儀とともに山西・河北地方を転戦した。
程元振(?〜764)
京兆三原の人。宦官として李輔国の下にあり、粛宗不予のなか、越王・李系を摂政としようとする密謀を李輔国に密告して李系一派を征誅するのに功があった。代宗の代になると、内省事を主管し、李輔国に代わって禁軍の実権を握った。驃騎大将軍に上ったが、その専横ぶりは李輔国に勝り、政敵を排斥した。吐蕃の長安侵入に対応できず、代宗が陝州に逃れたとき、追放されて没した。
高適(702〜765)
字は達夫、または仲武。滄州渤海の人。豪放な性格で仕官を望まず、博徒の仲間に入っていたが、推薦されて封丘の尉に任ぜられた。しかし官を捨てて辺境の地方を遊歴。河西節度使・哥舒瀚に認められてその幕僚となった。安禄山の乱の後は侍御史・諫議大夫に上った。直言したために権臣に憎まれ、蜀州・彭州の刺史として都を追われた。その後、西川節度使に昇進、都に帰って刑部侍郎・左散騎常侍に至った。渤海県侯に封ぜられた。壮年に至って詩を作るようになったが、たちまち文名があがり、杜甫・李白とも親しく交際した。『高常侍集』。
厳武(726?〜765?)
字は季鷹。華州華陰の人。八歳のとき、父が本妻より妾を愛するのに憤慨し、夜中に鉄槌で妾の頭を打ち砕いたという。太原府参軍から殿中侍御史に進んだ。安禄山の乱のとき、玄宗に従って蜀に避難し、諫議大夫に昇進した。その後は給事中・京兆少尹・剣南節度使を歴任。都へ帰って京兆尹となり、宰相の地位を望んだが果たせず。再び剣南節度使となって吐蕃の大軍を撃破した。役人としては上官の命令を守らず、部下にも苛酷な処置が多かった。一方では、四川に流浪してきた杜甫をかばい、生活の世話もしている。
李華(?〜766)
字は遐叔。趙州賛皇の人。開元二十三年(735)、進士に及第した。天宝十一載(752)、監察御史となったが、剛直な性格で、楊国忠に逆らって、右補闕に左遷された。安禄山の乱のとき、叛乱軍の占領地域にいた母を救おうとして捕らわれた。叛乱軍によって鳳閣舎人の職が与えられたため、叛乱鎮定後に杭州司戸参軍に左遷された。節義を汚したことを恥じて、職を辞して江南に引きこもった。その後、左補闕・司封員外郎として召されたが辞退した。いっとき、江南観察使の幕下に入ったが、病気のため辞職して山陽に隠棲し、農耕に従事して世を終えた。蕭潁士の親友で、散文の名手として知られた。
皇甫冉(714〜767)
字は茂政。安定の人。はじめ丹陽に移住し、農耕と釣に日を送っていたが、張九齢に才能を認められた。天宝十五載(756)、進士に及第し、無錫の尉となった。大暦元年(766)には河南節度使の書記となった。次いで左拾遺・左補闕を歴任した。
蕭潁士(717〜768)
字は茂挺。蘭陵の人。梁の皇族の子孫という。開元二十三年(735)、進士に及第した。秘書正宇から集賢院校理となったが、宰相・李林甫の意に逆らって広陵の参軍に左遷された。李林甫の死後は河南府参軍に任ぜられた。安禄山が台頭すると、官職を捨て、嵩山の太室山にこもった。安史の乱では官軍に加わったが、ふたたび官職につくことなく、放浪をつづけ、汝南で没した。韓愈に先立つ古文運動の開拓者と評価される。『蕭茂挺集』。
杜甫(712〜770)
字は子美、号は少陵。杜審言の孫にあたる。襄州襄陽の人。若いころは貧乏で、諸国を遊歴し、長安へ出て科挙を受験したが、及第できなかった。天宝十四載(755)になって、右衛率府冑曹参軍に任命され、奉先に預けていた妻子を引き取ろうと旅に出た後、安禄山の乱が起こった。霊武にあった粛宗の本陣に加わろうとしたが、途中で叛軍に捕らえられ、長安に監禁された。翌年、変装して脱出し、鳳翔にあった粛宗の行在所に出仕して、左拾遺に任命された。叛乱が鎮定された後、直言を憎まれて、華州司功参軍に転出。飢饉にあって生計が立たず、妻子を連れて旅に出た。成都に移って、厳武の保護を受けてしばらく落ち着いた。永泰元年(765)には、成都を出て長江を下り、キ州に移住。三年後にはまた旅に出て、湖北経由で長安に入ろうとして果たせず、岳陽から湘江を南にさかのぼる旅を続けた末、舟の中で死んだ。代表作は「春望」、「兵車行」。『杜工部集』。
岑参(715〜770)
荊州江陵の人。天宝三載(744)、進士に及第した。安西・河西などの節度使の幕僚となって長く塞外に勤務した。安禄山の乱のとき、鳳翔にあった粛宗の陣営に馳せ参じ、杜甫らの推薦で右補闕に任ぜられた。その後、起居舎人・殿中侍御史・虞部郎中・嘉州刺史などを歴任。辞職して都に戻ろうとした途中、成都で没した。『岑嘉州集』。
杜環(?〜?)
京兆万年の人。杜佑の甥にあたる。天宝十載(751)、高仙芝の軍に一兵士として従軍して、タラス河畔の戦いでイスラム軍の捕虜となった。宝応元年(762)、海路より商船に便乗して帰国。そのときの体験を『経行記』にまとめた。
僧慧超(704〜?)
新羅の人。唐に入って金剛智に師事し、のち海路からインドに入って聖地を巡った。ペルシアやアラビア半島をも巡行した。その後、金剛智のもとにあって仏典の漢訳につとめた。『往五天竺国伝』。
阿倍仲麻呂(698〜770)
唐朝での名は晁衡。養老元年(開元五年,717)、第八回遣唐使の一員として唐に留学。進士に及第して、玄宗に仕えた。李白・王維らとも親しく交わった。第十回遣唐使・藤原清河の帰国に同行したが、途中に暴風雨に遭って安南に漂着した。長安に引き返し、安禄山の乱に遭って、玄宗に随行して蜀へ行き、鎮南都護に任ぜられてベトナムへ赴任した。大暦二年(767)、長安に帰り、そこで没した。
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