[吐蕃(トボット)(629〜?)]
ソンツェン・ガンポ(棄宗弄讃)−グンソン・グンツェン−マンソン・マンツェン−ティドゥソン(器弩悉弄)−チデ・ツクツェン(棄隷蹜賛)−チソン・デツェン(乞黎蘇籠猟賛)−ムネ・ツェンポ(足之煎)−チデ・ソンツェン−チック・デツェン(可黎可足)−ダルマ・ウィドゥムツェン(達磨)…
ソンツェン・ガンポ(?〜649)
松賛乾布。名はチソンツェン(棄宗弄讃、棄蘇農)。号は弗夜氏。在位580〜649。十三歳で賛普の位につき、内乱を鎮め、羊同・蘇毘といったチベット諸族を征服して初のチベット統一王国を建設した。ラサに都を置いた。官制・軍制を立て、吐蕃を四「如」などの軍事行政区に分けて、六十一の千戸を置いた。法律を改訂し、度量衡と税制を統一した。農業牧畜の生産を重視し、灌漑を推しひろめた。唐から文成公主を迎えて妻とし、漢土の農産・紡績の技術や暦・医薬・書籍などを移入した。またインドから婆羅門を招き、チベット文字を創生した。二十三年(649)、唐の高宗が即位すると、駙馬都尉に任ぜられ、西海郡王に冊封された。死後は観世音の化身として、長くチベットの人々の間に信仰された。
文成公主(?〜680)
貞観十四年(640)、吐蕃の賛普ソンツェン・ガンポは大臣の禄東賛を長安に派遣し、婚姻を求めた。唐の太宗は公主を賛普に降嫁させることを決めた。翌年、公主は江夏王李道宗に護送されてチベットに入った。ソンツェン・ガンポは自ら柏海にまで出迎え、ラサに宮室を建てて公主に居住させた。公主は仏教を深く信奉し、小昭寺を修築させ、長安からもたらした釈迦牟尼像を安置した。公主はチベットに穀物や野菜の種子や薬材や各種の書物をもたらし、醸造や製紙や紡績といった唐の技術を移入させた。彼女はチベットの人々に深く愛され、その事蹟は雑劇や壁画や民謡といったかたちで伝承された。
ティドゥソン(?〜704)
器弩悉弄。名は都松芒布結。在位679〜704。ソンツェン・ガンポの孫にあたる。幼くして即位し、欽陵が摂政にあたった。聖暦二年(699)、欽陵が外に出ているすきに、大臣論巌らとともに欽陵の党与二千人あまりを殺し、欽陵を自殺に追い込んだ。のちに親政を開始した。幾度かにわたって唐を攻撃した。のちにネパールの叛乱を鎮圧におもむく途中に没した。
チック・デツェン(?〜?)
可黎可足。在位815〜836。長慶二年(822)、唐と和平条約を結び、安史の乱以来の両国の紛争に終止符をうった。仏教を採用し、経典の訳語を統一するなど、チベット仏教の確立につとめ、名君の誉れが高い。
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