[唐]
⇒唐(高祖太宗期,高宗武周期,睿宗玄宗期,代宗徳宗期,憲宗穆宗期,文宗武宗宣宗期,懿宗僖宗期,昭宗昭宣帝期),ウイグル,吐蕃,南詔,渤海
高祖(李淵)−太宗(李世民)−高宗(李治)−中宗(李顕)−睿宗(李旦)−〔周・武則天〕−中宗復辟−睿宗復辟−玄宗(李隆基)−粛宗(李亨)−代宗(李豫)−徳宗(李适)−順宗(李誦)−憲宗(李純)−穆宗(李恒)−敬宗(李湛)−文宗(李昂)−武宗(李炎)−宣宗(李忱)−懿宗(李漼)−僖宗(李儼)−昭宗(李傑)−哀帝(李祝)
曹松(830?〜901)
字は夢徴。舒州の人。はじめ洪州の西山に住み、のちに建州刺史の李頻に頼った。李頻の死後、貧苦になやみ、江南を漂白した。光化四年(901)、歳七十を過ぎてようやく進士に及第した。校書郎に任ぜられた。「己亥歳」の「一将功成って万骨枯る」の一節は有名。
呉融(850〜903?)
字は子華。山陰の人。竜紀元年(889)、進士に及第した。蜀を討伐に出た韋昭度の幕僚となったが、免職となった。放浪して荊南節度使の成ゼイを頼った。のちに都に召し出されて左補闕・中書舎人を歴任した。昭宗の信任をえて戸部侍郎に上った。天復元年(901)、昭宗が鳳翔に連れ去られると、ブン郷に引きこもった。のちに翰林承旨として招かれたが、まもなく没した。
杜荀鶴(846〜907)
字は彦之、号は九華山人。池州石タイの人。杜牧の庶子といわれる。大順二年(891)、進士に及第した。朱全忠に仕えて、翰林学士・主客員外郎・知制誥などを歴任した。権勢に驕って人を見下したので、命を狙われたこともあったという。。
王師範(877〜907)
青州の人。平盧節度使王敬武の子。唐の龍紀年間、父の軍権を引き継いだ。朝廷が太子少師の崔安潜を平盧節度使に任じたが、その入鎮をはばんだ。大順二年(891)、平盧節度使に任ぜられた。 法律の適用に厳格で、その舅が酒に酔って殺人を犯したとき、法にもとづいて処断したという。乾寧四年(897)、朱全忠に鄆・斉・曹・兗・沂・密などの州を奪われた。師範は弟の王師海を派遣して沂州・密州を奪回した。天復三年(903)、朱全忠の子の朱友寧が来攻すると、青州城外に迎え撃ち、これを敗死させた。同年八月、朱全忠が二十万の軍を率いて来攻し、青州を囲んだ。このとき王師範はなお十余万の勢力を保っていたが、弟の王師克を捕らえられていたため、朱全忠に降った。知節度留後事に任ぜられた。のちに河陽節度使となった。後梁建国後、右金吾衛上将軍に任ぜられたが、まもなく捕らえられて族誅された。
司空図(837〜908)
字は表聖。河中虞郷の人。咸通十年(869)、進士に及第した。はじめ宣歙観察使の王凝に認められて、その幕僚となった。殿中侍御史・礼部郎中などを歴任した。僖宗が黄巣の乱を避けて鳳翔に移ったとき、これに従って知制誥・中書舎人となった。昭宗の代となって戸部侍郎として招かれたが、辞退した。郷里の中条山にこもって、客を招いて高飲した。朱全忠が帝位を簒奪したのち、礼部尚書として招いたが応じなかった。哀帝が殺されたのを聞いて、絶食して死んだ。『詩品』、『司空表聖文集』。
劉仁恭(?〜914)
深州楽寿の人。若くして幽州節度使李可挙に仕えた。地下道を掘って城を攻略するのを得意としたので、劉窟頭と軍中で号された。のちに晋王李克用について、幽州節度使となった。まもなく李克用と反目し、滄州・景州・徳州などの地を併せて、河北を併呑しようと図った。幽州に拠り、将を選んで練兵し、時期に乗じて契丹の牧地を焼かせて、侵攻を防いだ。また後梁と争い、領内の男子に入れ墨してことごとく兵とし、定覇都と称した。幽州城の西の大安山に館を営み、美女を集めて奢侈におぼれた。天佑四年(907)、子の劉守光に捕らえられて幽閉された。乾化三年(913)、父子ともに晋軍に捕らえられた。翌年、殺された。
李茂貞(856〜924)
もとの姓は宋、名は文通。字は正臣。深州博野の人。唐の乾符年間、博野軍の隊長となり、尚譲を撃ち破って、功により神策軍指揮使に抜擢された。光啓年間、僖宗を護衛した功績で、武定軍節度使となり、李茂貞の姓名を賜った。のちに李昌符を殺して鳳翔節度使に取って代わった。楊復恭と楊守亮が興元でそむくと、これを撃破した。昭宗が両鎮の兼領を許し、秦王に封じたので、関中の強藩となった。王行瑜・韓建の兵とともに長安に入り、宰相の韋昭度・李磎を殺し、昭宗の廃位を図った。乾寧三年(896)、長安に攻め入り、昭宗は華州に避難し、宮殿は焼失した。天復元年(901)、岐王に封ぜられ、朝政を総覧し、宦官の韓全海とともに昭宗を鳳翔に連れ出した。このため朱全忠に鳳翔を包囲された。三年(903)、韓全海を殺し、昭宗を送り出した。天祐四年(907)、後梁が建国されると、自ら岐王府を開いて自立し、二十余州を領した。後梁の末年にもなお七州を領しており、後唐に対して臣を称した。
↓次の時代=後梁
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