[吐谷渾]
吐谷渾−吐延−葉延−砕奚−視羆−烏紇提−樹洛干−阿豺−慕璝−慕利延−拾寅−度易侯−伏連籌−夸呂−世伏−伏允−順−諾曷鉢−忠−宣超−曦晧−兆…復
吐谷渾(?〜?)
  遼東鮮卑の出身。徒河渉帰の庶長子。慕容廆の兄にあたる。馬をめぐって兄弟が争い、吐谷渾は出奔してはるか西方の隴を上り、枹罕にいたって遊牧に適した地をみつけた。慕容廆は後悔して兄を追わせたが戻らず、阿于歌を作って追慕したという。

葉延(?〜?)
  吐延の子。父が昂城羌の姜聡に刺殺されると、幼少にして跡を継いだ。吐谷渾を姓氏とし、族名とし、また国号とした。

夸呂(?〜591)
  伏連籌の子。はじめて可汗を号し、伏俟城を居城とした。城郭はあっても、常住せず、いつもは穹廬に住んで、水草を求めて牧畜した。王・公・僕射・尚書・郎中などの号を設け、中国的官制を採用した。はじめ東魏に遣使して通交していたが、西魏の宇文泰が兵を率いて姑臧にいたると、おそれて貢物を献じた。恭帝三年(556)、突厥の木杆可汗に敗れて妻子を奪われた。北周の武成初年、涼州を攻めたが、賀蘭祥・宇文貴らに敗れた。隋の開皇初年、弘州を攻めた。かえって隋の元諧の侵攻をまねき、敗れて逃れ、隋によって移茲裒が河南王に立てられ、吐谷渾は分裂した。

伏允(?〜635)
  号は歩薩鉢。夸呂の子。隋の開皇十七年(597)、兄の世伏を殺して立った。隋の煬帝が即位すると、入朝して長子の順を人質として残した。隋の西辺を侵掠し、煬帝が鉄勒の降兵を派遣して迎撃すると、伏允は敗れて西平に立てこもった。さらに楊雄や宇文述率いる隋軍に敗れて泥嶺に隠れ、党項の客となった。隋末の大乱で中国が混乱すると、故地にもどった。唐の高祖が立つと、順が江都から長安を経て戻ってきたので喜んだ。太宗のとき、使者を遣わして長安に入朝させながら、帰らないうちに鄯州を攻めた。また岷州を攻めて李道彦に敗れた。このころ伏允は老いて耄碌し、天柱王が国事を専断していた。貞観九年(635)、李靖・侯君集・李道宗らの率いる唐軍の侵攻をまねき、敗れて遁走する途中に死んだ。


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