[唐]
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呂温(772?〜811?)
  字は和叔。河中の人。貞元十四年(798)、進士に及第した。王叔文と親しかった。貞元末年に侍御史として吐蕃に使者として立ったが、抑留されて帰れなかった。その間に順宗が即位して王叔文が政権を握ったので、呂温は不運を嘆いた。しかし元和元年(806)に帰国したときには、王叔文の一党は追放されていた。外地にいたためあやうく粛清の難を逃れて、左拾遺・戸部員外郎を歴任した。のちに李吉甫に憎まれて、筠州に流され、さらに道州・衡州と移されて、配所で没した。

杜佑(735〜812)
  字は君卿。京兆万年の人。杜希望の子。蔭官によってはじめ済南参軍事となった。韋元甫に見出されて工部郎中・江淮青苗使・容管経略使などを歴任した。民の困窮を上書して盧杞に憎まれ、蘇州刺史に左遷された。その後、嶺南節度使・尚書右丞・淮南節度使などを歴任した。貞元年中に検校尚書左僕射・同中書門下平章事に上った。十九年(803)、検校司空・同中書門下平章事となった。司徒となり、岐国公に封じられた。三十六年間をかけて『通典』を編纂し、遠古から中唐にいたる職官典礼などの歴史をまとめた。

孟郊(751〜814)
  字は東野。湖州武康の人。一説に洛陽の人。はじめは嵩山に隠棲していたが、四十代も半ばとなって、母の命に従って都に出た。貞元十二年(796)、進士に及第した。溧陽尉に任ぜられた。しかし、職務につとめず、毎日川べりで酒を飲んでは詩を作っていたので、俸給の半額しか支給されず、貧乏に苦しんで職を捨てた。その後、韓愈の推薦で協律郎に任ぜられ、山南西道節度使の幕僚として大理評事の職を与えられたが、赴任の途中で没した。韓愈と親しく、「孟詩韓筆」とうたわれた。『孟東野集』。

李吉甫(758〜814)
  字は弘憲。趙郡の人。貞元初年、太常博士に任ぜられた。博覧多聞で、とくに有職故実に通じた。忠州刺史などを歴任し、屯田・駕部員外郎に累進した。憲宗が即位すると、考功郎中・知制誥となった。まもなく翰林学士・中書舎人となった。元和二年(807)、中書侍郎・同平章事(宰相)に上った。翌年、宦官の排斥を受け、淮南節度使として赴任した。六年(811)、中書侍郎・同平章事に復した。八年(813)、韋処厚の撰した『先帝実録』の欠けたところを補い、『順宗皇帝実録』を修した。『元和郡県図志』、『十道州郡図』、『六代略』、『国朝哀策文』、『古今文集略』、『古今説苑』。

懐海(720〜814)

武元衡(758〜815)
  字は伯蒼。河南の人。建中四年(783)、進士に及第した。徳宗に才能を認められ、華原の令から比部員外郎・右司郎中・御史中丞を歴任。順宗のときに、王叔文に従わなかったため降職されて太子右庶子となった。憲宗の時代になって御史中丞・戸部侍郎を歴任し、元和二年(807)には門下侍郎・同中書門下平章事(宰相)に至った。淮西節度使・呉元済が叛乱を起こしたとき、憲宗から委任されて討伐を準備したが、呉元済派の朝臣の放った刺客に暗殺された。

李賀(790〜816)
  字は長吉。福昌昌谷の人。李晋粛の子。皇室の後裔であったが貧しく、下級の役人をつとめた。宮廷生活を題材にした詩を残し、二十七歳で夭逝した。「鬼才」と呼ばれた。

権徳輿(759〜818)
  字は載之。秦州の人。若くして文才を知られ、徳宗に召し出されて太常博士となった。知制誥・中書舎人・兵部侍郎などを歴任した。元和五年(810)、宰相に上った。『権載之文集』。

柳宗元(773〜819)
  字は子厚。河東の人。貞元九年(793)、進士に及第した。校書郎から藍田の尉・監察御史裏行を歴任した。このころ、王叔文・韋執誼らが皇太子(のちの順宗)の周囲にあって、政治の改革を企てていた。宗元もこれに加わって、永貞元年(805)、順宗の即位とともに礼部員外郎に任ぜられた。しかし、順宗はわずか七カ月で退位して、改革は失敗に終わり、宗元も永州司馬に左遷された。元和十年(815)、都に召され、柳州刺史に任ぜられた。柳州に赴任し、そこで没した。韓愈とともに唐代の散文改革運動の旗手であり、「韓柳」と併称される。『柳河東集』。

慧琳(737〜820)
  俗姓は裴。カシュガルの人。はじめ不空三蔵の弟子となった。密教を研究し、またインドの音韻に詳しかった。西明寺に住持して、『一切経音義』を撰した。

李愬(773〜821)
  字は元直。臨潭の人。李晟の子。蔭官により、はじめ太常寺協得郎に任ぜられた。衛尉少卿・右庶子・坊州刺史・晋州刺史・太子・事などを歴任した。元和十一年(816)、幾度も失敗を重ねていた蔡州の呉元済の討伐に成功した。淮西平定の功績により、検校尚書左僕射・襄州刺史・山南東道節度使に任ぜられ、涼国公に封ぜられた。のちに鳳翔・隴右節度使などをつとめた。元和十五年(820)、検校尚書左僕射・同中書門下平章事(宰相)に上った。洛陽で病没した。

馬総(?〜823)
  字は会元。扶風の人。貞元年間、姚南仲に召されて従事となった。事件に連座して泉州別駕に左遷された。元和年間に検校刑部尚書に上った。

韓愈(768〜824)
  字は退之。諡は文公。ケ州南陽の人(一説に昌黎の人)。幼少の頃、父と兄を失い、兄嫁・鄭氏に養われた。貞元八年(792)、二十五歳で進士に及第したが、官職をえられず、節度使の幕下を転々とした。十八年(802)、四門博士に任ぜられた。さらに監察御史に進んだが、京兆尹・李実を弾劾して、かえって陽山の令に左遷された。順宗が即位すると大赦を受け、江陵府に遷った。国子博士・河南令・史館修撰・中書舎人を歴任、刑部侍郎に進んだが、憲宗の仏教への耽溺をいさめる「仏骨を論ずる表」を捧呈して怒りを買い、潮州刺史に左遷された。穆宗の長慶元年(821)にまた許されて、兵部侍郎・吏部侍郎を歴任、死後は礼部尚書を贈られた。柳宗元とともに、四六駢驪文を排し、いわゆる「古文」をうちたてた。『韓昌黎集』、『文集』、『論語筆解』。

李益(748〜827?)
  字は君虞。隴西姑蔵の人。李賀の同族にあたる。大暦四年(769)、進士に及第した。鄭県の尉となったが、昇進の遅いのに不満を抱いて辞職。河北の地方を遊歴し、幽州・汾寧節度使の幕僚となった。その文名が憲宗に聞こえて召され、秘書少監・集賢殿学士に任ぜられた。傲慢な態度のため、一時降職されたが、侍御史・太子賓客・右散騎常侍を歴任し、礼部尚書にいたった。疑い深い性格で、妻や妾の部屋にはいつも鍵をかけ、戸口に灰をまいて不義を防いだりしたため、「妬癡尚書李十郎」と呼ばれたという。大暦十才子のひとり。
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