[唐]
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段成式(?〜863)
  字は柯古。斉州臨淄の人。段文昌の子。段文昌は唐の穆宗のときに中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)に上っている。成式は、若いころから苦学して、とくに仏理に通じた。父の蔭官によって秘書省校書郎に任ぜられ、尚書郎・吉州刺史・太常少卿を歴任した。博学をもって知られた。『酉陽雑俎』

柳公権(778〜865)
  字は誠懸。京兆華原の人。柳子温の子。柳公綽の弟にあたる。元和三年(808)、進士に及第した。秘書省校書郎として任官し、右拾遺・翰林侍書学士・司封員外郎・中書舎人・右散騎常侍などを歴任し、河東郡開国公に封ぜられた。懿宗の咸通初年、太子少師に上った。書にすぐれ、とくに行書と楷書は絶妙で、後世に顔真卿の後継者として位置づけられ、顔柳と併称された。「李晟碑」、「玄秘塔碑」、「神策軍碑」など。

義玄(?〜867)
  俗姓は邢。諡は慧照禅師。曹州南華の人。出家して戒律・唯識などを学んだが、飽きたらなくなり、黄檗希運に師事した。黄檗の紹介で、大愚に学んだ。大愚の死後、黄檗のもとに戻り、その法を継いだ。河北鎮州の臨済院に住持して、臨済宗の開祖となる。『臨済録』。

魚玄機(843?〜868?)
  字は幼微、または尢磨B京兆の人。妓楼の養女となり、読書や詩作にふけった。李億の妾となったが正妻に嫉まれて別れ、咸宜観に入って女道士となった。侍女・緑翹に嫉妬して殺害し、刑死した。薛濤と並んで唐代女詩人の双璧。

(?〜869)
  南詔が安南に侵入したとき、糧科判官として唐軍に従軍して桂林にいたった。兵士たちに推されて叛軍の将となった。長江岸まで進出して、農民・土豪・群盗を糾合して勢威を張った。唐の征討を受けて敗死した。

張義朝(?〜872)
  敦煌の人。安史の乱以後、隴右・河西地方は吐蕃の支配下にあったが、吐蕃の内紛に乗じて占領。大中五年(851)、沙州に拠って唐に帰服し、帰義軍節度使の称号をえた。咸通七年(866)には長安にいたり、右神武統軍に任ぜられた。長安で没した。

温庭筠(812〜872)
  もとの名は岐、字は飛卿。太原祁の人。試験場で隣席の者のために詩を作ってやったり、遊里を飲み歩いて衛兵と喧嘩したりと、軽薄な行為が多く、科挙に及第できなかった。宰相・令孤綯の家に寄食したが、綯を侮辱して追い出された。大中の末年(859ごろ)、特に召し出されて、試験を受けたが、長安で任官を待つ間、微行していた宣宗に会い、皇帝と知らずにからかったので、方城の尉に左遷された。襄陽の節度使・徐商に招かれて幕下に入ったこともあるが、満足せず辞職した。江東地方を放浪したあげく、最後は零落して死んだ。李商隠とともに晩唐期を代表する詩人。『温飛卿集』。

薛逢(806?〜876?)
  字は陶臣。河東の人。会昌元年(841)、進士に及第した。万年の尉をはじめとして、直弘文館・侍御史などを歴任した。巴州刺史となった。友人の楊収が宰相に上ったとき、不満を示す詩を作ったため、蓬州刺史に左遷された。のちに呼び戻されたが、秘書監に終わった。自信過剰で、人を見下す風が強かったという。

李頻(818?〜876)
  字は徳新。寿昌の人。はじめ山中に籠居していたが、詩才を姚合に認められた。大中八年(854)、進士に及第した。秘書郎から武功県令・侍御史・都官員外郎などを歴任した。建州刺史に上った。唐末の混乱の中、善政を布いたので建州のみ平穏であったという。

王仙芝(?〜878)
  濮州の人。もとは農民であったが、重税にあえぎ、生活自衛のため「塩梟」として塩の密売を行っていた。乾符元年(874)に山東で飢饉が起こると、陳留郡長垣で衆数千を率いて叛乱を起こした。天補平均大将軍・海内諸豪都統を自称した。唐の朝廷を指して「官吏は貪欲で、賦税は重く、賞罰は不公平だ」と非難して諸道に檄を飛ばした。曹州・濮州を攻め、黄巣らが呼応した。大勢力となって河南を転戦した。三年(876)の六月、平盧節度使の宋威の率いる征討軍に敗退し、王鐐の勧めを容れて唐に帰順し、左神策押牙・監察御史の叙任を受けようとした。黄巣に面罵されて、衆人にも非難されたため、叙任を受けそこねた。黄巣と道を違え、兵を率いて湖北に移り、鄂州を陥落させ、襄陽を包囲した。五年(878)、江陵を攻略しているとき、荊南道節度使・高駢の攻撃を受けて敗走し、黄梅で戦死した。捕らえられて誅されたともいう。

黄巣(?〜884)
  曹州冤句の人。いわゆる「塩梟」として塩の密売を行っていた。科挙を幾度も受験したが、及第できなかった。乾符二年(875)、曹州で衆数千を率いて蜂起した(黄巣の乱)。流寇・遊撃戦を繰り返し、汝州・鄭州を抜き、洛陽に迫ったが、王仙芝を撃破して意気上がる官軍を避けて長駆南下し、広州を占領した。周辺を平定して率土大将軍を称した。六年(879)、数十万の兵力を擁して北伐し、江南を平定して補天大将軍と改めた。翌年、洛陽を無血占領して、潼関を抜き、長安をも占領した。皇帝を自称して、国号を斉とし、金統と建元した。しかし、王重栄や朱温らに次々と背かれた。ひとたび長安を捨てたが、代わって入城した唐朝軍の鄭畋が殺戮暴行を行って民心を失うのを見ると、再び長安を奪った。長安は廃墟さながらと化し、朱温(朱全忠)や李克用の軍に圧迫され、飢えにも迫られて、長安を捨てた。郷里の山東方面に逃亡して再起しようとしたが、ベン州の東方で大敗。瑕丘で最後の一戦を行ったが敗れて、狼虎谷で自刃した。

皮日休(?〜880)
  字は襲美、号は閑気布衣。襄陽の人。咸通八年(867)、進士に及第した。はじめ故郷に近い鹿門山に籠居し、酒と詩を友とする生活を送った。官に就いては著作郎・太常博士・ビ陵副使を歴任。黄巣の軍が長安を占拠したとき、その下に参じて翰林学士に任ぜられたが、疑われて殺された。『皮子文藪』。

薛能(817〜880)
  字は太拙。汾州の人。会昌九年(846)、進士に及第した。侍御史・刑部員外郎・西川節度使副使・刑部郎中・工部尚書・徐州節度使などを歴任した。のち、忠武軍節度使として許昌に鎮したが、徐州の軍が叛乱して許昌に迫ったとき、動揺した部下のために殺された。

陸亀蒙(?〜881)
  字は魯望、号は天随子、または江湖散人。呉郡の人。科挙に及第せず、湖州刺史・蘇州刺史の幕僚をつとめた。仕官をきらって帰郷し、松江の甫里に隠棲した。詩人として、また茶人として知られた。死後に右補闕の官を追贈された。『唐甫里先生文集』。

李拯(?〜886)
  字は昌時。隴西の人。咸通十二年(871)、進士に及第した。節度使の幕府を転々とするうち、黄巣の乱に遭い、平陽に避難した。そのとき僖宗に召し出されて、尚書郎から考功郎中・知制誥となった。しかし光啓二年(886)、朱バイの叛乱のとき、叛軍に捕らえられて翰林学士に任ぜられた。節義を汚したことへの後悔と朱バイの横暴に対する不平を抱きつつ、朱バイが攻め滅ぼされたときに、乱軍の中で殺された。

高駢(821〜887)
  字は千里。幽州の人。名家の出身で、はじめ武芸に熱中した。のちに学問・文学に志した。侍御史・安南都護などを歴任。僖宗のとき、西川節度使・荊南節度使に上った。黄巣の乱が起こると淮南に自立して天下をうかがったが、部下に弑された。

秦宗権(?〜889)
  蔡州上蔡の人。はじめ許州の牙将となった。広明元年(880)、趁軍の乱により蔡州に拠った。同年、黄巣の乱が起こると、宗権は蔡州の軍により黄巣を討った。のちに敗れて黄巣に降り、蔡州節度使と称した。陳州を攻めたが、刺史の趙犨の堅守のため、落とすことができなかった。中和二年(882)、黄巣が敗死すると、宗権は蔡州で帝を称し、四方を劫掠し、暴虐の限りをつくした。光啓三年(887)、汴州に進攻したが、朱全忠に敗れ、勢力が衰えた。龍紀元年(889)、部将の郭璠に捕らえられ、朱全忠のもとに送られ、長安で斬られた。

時溥(?〜893)
  徐州彭城の人。徐州の牙将となった。黄巣が長安を落とすと、中和二年(882)に武寧軍節度使支詳の命を受けて陳璠とともに兵五千を率いて黄巣討伐のため出撃した。軍が河陰にいたったとき、兵乱が起こって、住民から掠奪してまわった。時溥は兵乱を収めたが、責任を追及されるのをおそれてとどまった。支詳はその罪を許して徐州に呼び戻したが、時溥は推されて留後となり、支詳を幽閉したすえに陳璠に殺させた。蔡州の秦宗権を討って、たびたび撃破した。黄巣の乱が鎮圧されると、功績第一として検校太尉・中書令に任ぜられ、鉅鹿郡王に封ぜられた。さらに徐州行営兵馬都統となった。秦宗権が平定されると、朱全忠と功を争い、朱全忠が孫儒や楊行密を討つのを妨害した。そのため景福二年(893)に朱全忠の攻撃を受けて、王重師・牛存節らの軍に徐州城内に侵入されると、自ら楼閣に火を放って妻子とともに焼け死んだ。
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