[滇(前3c.〜?)]
荘蹻(?〜?)
  荘豪ともいう。滇の建国者とされる。楚の人。楚の荘王の後裔。楚に仕えて将軍となった。楚の頃襄王二十年(前279)ごろ、軍を率いて長江をさかのぼり、巴蜀・黔中を攻めた。遠征軍は且蘭を落とし、夜郎を征服し、滇池にまでいたった。二十二年(前277)、凱旋しようとしたが、ときに秦が楚の巴郡・黔中郡を奪ったため、帰路を失った。やむなく滇の王として自立し、土地の風俗に帰化し、長帥となったという。
当羌(?〜?)
  滇王。漢の武帝が蜀から西南の道を通じて身毒(インド)にいたる道を求めさせるため、王然于・柏始昌・呂越人らを派遣してきた。当羌はかれらを迎えて西方の道を求めさせたが、昆明国のために道は閉ざされていた。また漢使に「漢とわが国を比べてどちらが大きいか」と質問したという。

[夜郎(?〜前27)]
多同(?〜?)
  夜郎王。遯水の地で自ら即位し、王となった。建元六年(前135)、漢の郎中将唐蒙と会見して、漢の郡県を置くことを容認した。これによって漢の犍為郡が置かれた。
(?〜前27)
  夜郎王。漢の成帝の河平年間、鉤町王禹・漏臥侯兪との間が険悪で、互いに攻掠しあった。漢の太中大夫張匡が調停して和解させようとしたが、従わなかった。木を刻んで漢の役人をかたどり、路傍に立てて弓矢で射させた。また漢の牂柯郡太守陳立の命に従わなかった。陳立に且同亭に招かれて、数千人を率いて赴いたところ、問責されて首斬られた。

[爨(4c.〜8c.)]
爨深(?〜?)
  建寧郡同楽の人。叟族の出身。晋の永嘉年間、興古太守に任ぜられた。太寧元年(323)、成漢の李雄が寧州に侵攻すると、爨深は寧州刺史王遜の命を受け、軍を率いて堂狼でこれをはばんだ。咸和七年(332)、李雄がふたたび南下し、朱提を囲んだ。爨深は寧州刺史尹奉の命を受け、朱提を救援した。翌年春、李雄に降った。九年(334)、成漢の交州刺史に任ぜられた。以後、爨氏の勢力は雲南で伸張した。
爨宝子(?〜?)
  建寧郡同楽の人。東晋により振威将軍・建寧太守に任ぜられた。二十三歳で亡くなった。東晋の義煕元年(405)にかれの石碑が立てられ、清の乾隆四十三年(1778)に雲南省曲靖県楊旗田で出土した。
爨龍顔(?〜?)
  字は仕徳。建寧郡同楽の人。南朝宋の元嘉九年(432)、益州の趙広の乱の鎮圧に功績を挙げた。宋により龍驤将軍・護鎮蛮校尉・寧州刺史に任ぜられた。大明二年(458)、かれの石碑が立てられた。
爨瓚(?〜?)
  西爨の首長。白族の出身。梁の元帝のとき、武陵王の乱に従い、のちに北周により南寧州刺史に任ぜられた。
爨震(?〜?)
  西爨の首長。白族の出身。爨瓚の子。爨瓚の死後、爨翫と南寧州を二分して統治した。隋の開皇初年、隋に遣使した。隋が韋沖を南寧州総管に任ずると、爨震と西爨の首領たちは総管府に参詣した。まもなく隋にそむいた。隋軍に敗れて、処刑された。
爨翫(?〜?)
  西爨の首長。白族の出身。爨瓚の子。爨瓚の死後、爨震と南寧州を二分して統治した。隋の開皇初年、隋に遣使した。隋により昆州刺史に任ぜられた。まもなく隋にそむいた。十七年(597)、隋の令史万歳の兵に敗れた。翌年、再び叛いたが、敗れて入朝した。処刑されて、諸子は官奴に落とされた。
爨弘達(?〜?)
  西爨の首長。爨翫の子。隋の開皇年間、父が隋にそむいて敗れ、兄弟たちとともに官奴に落とされた。唐の武徳初年、昆州刺史に任ぜられ、父の遺体を郷里に葬ることを許された。三年(620)、唐に遣使して貢献した。
爨帰王(?〜?)
  西爨の首長。唐の開元年間、南寧州都督に任ぜられ、石城に拠った。東爨の蓋聘・蓋啓父子を襲って殺した。唐が安寧城を築くと、爨崇道・爨日進らと結んで安寧城を落とした。玄宗の命を受けた南詔の皮邏閣に討たれて敗れ、謝罪して許されたが、以後爨氏の勢力は衰退した。

[南詔(8c.〜902)]
舎尨−独邏−細奴邏−邏盛炎−炎閤−盛邏皮−雲南王(皮邏閣)−南詔王(閤羅鳳)−南詔王(異牟尋)−尋閣勧−勧龍晟−勧利−豊祐−景荘帝(世龍)−宣武帝(隆舜)−孝哀帝(舜化)
皮邏閣(?〜748)
  姓は蒙。盛邏皮の子。父の跡を継ぎ、台登郡王となる。河蛮を逐い、大和城を取った。唐朝により帰義の名を賜った。六詔を統一し、吐蕃を破った。開元二十六年(738)、玄宗朝に入朝して、雲南王に封ぜられた。都を大和城においた。

異牟尋(755?〜808)
  南詔王。在位779〜808。鳳迦異の子。閤羅鳳の孫にあたる。大暦十四年(779)、閤羅鳳の死後に立った。吐蕃と結んで唐朝と戦ったが敗れた。のち吐蕃から離反してこれを破った。唐朝と結んで、南詔王に封ぜられた。吐蕃を攻めて昆明城を取り、雲南の諸族を従え、南詔の最盛期をきずいた。

世龍(844?〜877)
  酋龍ともいう。南詔の初代景荘帝。在位859〜877。豊祐の死後、南詔王として立った。大中十三年(859)に帝を称し、国号を大禮とした。咸通十一年(870)には軍を発して成都を包囲し、子女工匠数万人を連行して去った。

[大長和国(902〜928)]
桓帝(鄭買嗣)−肅文帝(鄭仁旻)−恭恵帝(鄭隆亶)
鄭買嗣(860〜909)
  またの名を昶。大長和国王。聖明文武威コ桓皇帝。在位902〜909。光啓元年(886)、南詔の宣武帝(隆舜)のとき、侍中に上った。宣武帝が没すると、子の舜化が幼かったので、摂政にあたった。竜紀元年(889)に帝位を簒奪した。乾寧四年(897)、舜化(孝哀帝)に政権を奉還し、国老を自ら任じた。天復二年(902)、孝哀帝が死ぬと、蒙氏八百人を殺して再び簒奪した。国号を大長和国とした。

[大天興国(928〜929)]
趙善政(?〜?)
  大天興国王。悼康帝。在位928〜929。雲南寧北の人。はじめ樵夫をしていたが、鄭氏に仕えて清平官となった。天成三年(928)、楊干真が大長和国王の鄭隆亶を殺したのち、国主に擁立された。国号を大天興国とした。翌年、楊干真により廃された。

[大義寧国(929〜937)]
楊干真(?〜?)
  またの名を干貞。大義寧国王。肅恭帝。在位929〜937。雲南和村の人。鄭氏の大長和国に仕えた。東川節度使に上った。天成三年(928)、大長和国王の鄭隆亶を殺して、趙善政を擁立した。翌年、趙善政を廃して自立した。国号を大義寧国とした。在位八年の間、政治は貪虐無道で、内外の恨みを買った。天福元年(936)、段思平が起兵すると、敗れて義督に走った。段思平に罪を許され、剃髪して僧となった。また一説に、永昌で自殺したともいう。


[大理(937〜1253)]
段思平−段思英−段思良−段思聡−段素順−段素英−段素廉−段素隆−段素真−段素興−段思廉−段連義−段寿輝−段正明−(高昇泰)−段正淳−段正厳−段正興−段智興−段智廉−段智祥−段祥興−段興智
段思平(893〜944)
  大理国の建国者。太祖聖神文武皇帝。在位937〜944。段保隆の子。白族の出身。小府副将より、通海節度使に上った。天福二年(937)、雲南の大義寧国の楊干貞の政権を打倒して、大理国を建国した。翌年、文徳と改元した。過酷な法令を除き、冗官を省き、八府四郡三十七部を設けた。仏教を好み、しばしば寺を建立させ、仏万尊を鋳させた。

段思英(?〜?)
  大理国主。文経皇帝。在位944〜945。段思平の子。神武末年(944)、即位した。翌年、文経と改元した。叔父の段思良と争い、廃位されて、出家して僧となった。法名を宏修大師といった。

段思良(?〜951)
  またの名を思冑。大理国主。聖慈文武皇帝。在位945〜951。段思平の弟にあたる。文経元年(945)、甥の段思英を廃して自ら即位した。翌年、至治と改元した。「楼石坪碑」を刻ませたという。文武先皇と諡された。

段思聡(?〜969)
  大理国主。至道廣慈皇帝。在位951〜969。段思良の子。至治六年(951)、即位した。翌年、明徳と改元した。

段素順(?〜986)
  大理国主。在位969〜986。順徳二年(969)、即位した。明政と改元した。三年(971)、三十七部とともに石城に盟誓碑を立てた。

段素英(?〜1009)
  大理国主。昭明皇帝。在位986〜1009。段素順の子。明政十八年(986)、即位した。広明と改元した。

段素廉(?〜1022)
  大理国主。宣肅皇帝。在位1009〜1022。段素英の子。明治末年(1009)、即位した。翌年、明啟と改元した。

段素隆(?〜?)
  大理国主。秉義皇帝。在位1022〜1026。段素英の孫にあたる。明啟十三年(1022)、即位した。翌年、明通と改元した。四年(1026)、段素真に位を譲り、出家して僧となった。

段素真(?〜1041)
  大理国主。聖コ皇帝。在位1026〜1041。段素廉の子。明通四年(1026)、即位した。翌年、正治と改元した。

段素興(?〜1044)
  大理国主。天明皇帝。在位1041〜1044。段素英の孫にあたる。正治十五年(1041)、即位した。天明帝を号した。翌年、聖明と改元した。遊興を好み、広壮な宮室を営んだ。多く植物を集めて植えさせ、その前で昼夜の別なく酒宴を楽しんだ。荒淫にして節度がなく、在位四年に満たずして国人により廃された。

段思廉(?〜?)
  大理国主。興宗孝コ皇帝。在位1044〜1075。段思平の五世の孫にあたる。聖明三年(1044)、段素興を廃して自ら即位した。保安と改元した。正安元年(1053)、儂智高が宋の郎州で乱を起こして狄青に敗れ、大理に侵入すると、段思廉は儂智高を殺害して開封にその首を送った。岳侯高智昇に楊允賢を討たせ、勝利した。高智昇に太保の位を加え、徳侯に封じ、白崖茹甸の地を賜った。まもなく高智昇を鄯闡侯に進封させ、子孫に世襲させた。保徳末年(1075)、子の段連義に位を譲って僧となった。

段連義(?〜1080)
  またの名を廉義。大理国主。上コ皇帝。在位1075〜1080。段思廉の子。保徳末年(1075)、即位した。翌年、上徳と改元した。広安四年(1080)、臣下の楊義貞に殺されて位を奪われた。

段寿輝(?〜?)
  大理国主。上明皇帝。在位1080〜1082。段思平の五世の孫にあたる。広安四年(1080)、鄯闡侯高智昇の子の高昇泰が楊義貞を誅すと、擁立されて即位した。翌年、上明と改元した。高智昇を布燮とし、高昇泰を鄯闡侯とした。上明二年(1082)、段正明に位を譲った。

段正明(?〜?)
  大理国主。保定皇帝。在位1082〜1094。段思廉の孫にあたる。上明二年(1082)、即位した。保定と改元した。天祐末年(1094)、臣下の高昇泰に廃されて、位を奪われた。出家して僧となった。

高昇泰(?〜1095)
  大中国主。富有聖徳表正皇帝。在位1094〜1095。高智昇の子。広安四年(1080)、楊義貞が大理国の王位を奪うと、高昇泰は東方爨僰の兵を率いて楊義貞を討ち、段寿輝を大理国王に擁立した。鄯闡侯に封ぜられた。天祐末年(1094)、王位を奪い、国号を大中国とした。翌年、上治と改元した。段氏に政権を返すよう子の高泰明に遺言して薨じた。

段正淳(?〜?)
  大理国主。中宗文安皇帝。在位1095〜1108。段正明の子。上治元年(1095)、大中国主高昇泰が亡くなると、高泰明により擁立され、即位した。かれ以後の大理国は後理国とも称される。翌年、天授と改元した。高泰明を相国として、国政を執らせ、高泰運を棚主とした。楚雄城を築き、高明亮を封じた。高泰運を北宋に派遣して経籍六十九家・薬書六十二部を持ち帰らせた。文安四年(1108)、段正厳に位を譲って僧となった。

段正厳(?〜?)
  またの名を和誉。大理国主。憲宗宣仁皇帝。在位1108〜1147。段正淳の子。文安四年(1108)、即位した。翌年、日新と改元した。三十七部が叛いたので相国の高泰明に平定させた。文治七年(1116)、高泰明が亡くなると、子の高泰運に国政を執らせた。翌年、李紫j・李伯祥らを開封に派遣して、北宋に馬・麝香・牛黄などを献じ、雲南節度使・上柱国・大理国王に封ぜられた。三十七部が再び叛き、鄯闡を奪われ、高明清が戦死した。高昇泰の甥の高量成を相に立てて、中国公と号させた。紹興十七年(1147)、子の段正興に位を譲って僧となった。

段正興(?〜?)
  大理国主。景宗正康皇帝。在位1147〜1171。段正厳の子。広運末年(1147)、即位した。翌年、永貞と改元した。高量成が引退して甥の高寿貞が相となった。高寿貞が亡くなると、高寿昌が相となり、中国公と号した。在位二十五年、子の段智興に位を譲って僧となった。

段智興(?〜1200)
  大理国主。宣宗功極皇帝。在位1171〜1200。段正興の子。建徳末年(1171)、即位した。翌年、利貞と改元した。李観音が高寿昌の位を奪い、高貞明を立てた。阿機が起兵して高貞明の位を奪い、再び高寿昌を立てた。高貞明は鶴慶に拠って明国公を自称した。また高妙音が白崖で起兵して、鄯闡に拠った。

段智廉(?〜1204)
  大理国主。享天皇帝。在位1200〜1204。段智興の子。安定末年(1200)、即位した。翌年、鳳暦と改元した。使者を立てて宋に『大蔵経』千四百六十五部を求めさせ、五華楼に置いた。

段智祥(?〜?)
  大理国主。神宗皇帝。在位1204〜1238。段智廉の子。元寿末年(1204)、即位した。翌年、天開と改元した。高隆を鄯闡王に封じ、高泰祥を相国とし、光日を演習とした。在位三十三年、子の段祥興に位を譲って僧となった。

段祥興(?〜1251)
  大理国主。孝義皇帝。在位1238〜1251。段智祥の子。仁寿末年(1238)、即位した。翌年、道隆と改元した。六年(1244)、モンゴル軍が霊関を出て大理国に侵入したため、高禾に迎撃させた。高禾は奮戦して戦死し、蒙古軍は侵攻の意図をくじかれた。段連祐が南宋に帰順した。

段興智(?〜1260?)
  大理国主。在位1251〜1253。段祥興の子。道隆十三年(1251)、即位し、天定と改元した。天定元年(1252)、モンゴルよりたびたび招諭の使者が来たが、全て殺した。相国高泰祥に金沙江を守らせた。高泰祥はフビライの軍に敗れて五華楼の下で斬られた。段興智は鄯闡に逃れた。翌年、モンゴルの大将ウリャンハダイの軍に攻められ、さらに昆沢に逃れたが、捕らえられ降った。翌年、蒙古に地図を献上し、雲南諸郡の平定を願い、民を治め賦税を取る法を上奏した。憲宗(モンケ)は、かれを賞賛して摩訶羅嵯(マハラジャ)の号を与えた。ウリャンハダイの軍の先鋒かつ案内役として、雲南諸郡の平定や交趾への侵攻に従った。没後、大理向義王の号を贈られた。


[大理総管]
段実(?〜1282)
  またの名は信苴日。段祥興の子。段興智の弟にあたる。モンゴルの中統二年(1261)、世祖フビライに謁見し、兄の職を継いで総管となり、虎符を賜り、大理・威楚・鄯闡・統矢・会川・建昌・騰越などを領した。至元元年(1264)、妖僧舍利威が威楚・統矢・鄯闡および三十七部と結んで叛したので、段実はこれを討ち破った。四年(1267)、フビライの五男フゲチが雲南王となり、大理に鎮した。翌年、占城・真臘への遠征に従軍した。七年(1270)、大理路軍民総管府が置かれた。翌年、フゲチが元帥宝和丁に殺された。大理三十七部が南北中三路に分けられ、阿魯忒兒が宣撫のため大理に赴任してきた。十一年(1274)、元の宗室の脱忽魯が雲南王となり、雲南行省平章政事の賽典赤に命じて雲南各衙門を建てさせた。妖僧舍利威がまた叛いたので、段実は石買を遣わして捕らえさせ梟首した。十七年(1280)、エセンテムルが雲南王となった。翌年、子の段阿慶とともに入朝した。十九年(1282)、金歯で病没した。武定公と諡された。

段忠(?〜1283)
  段祥興の子。段実の弟にあたる。至元二十年(1283)、兄の職を継いで大理路総管となった。元の元帥濶木に従って芒部・両林蛮・会川などの叛乱勢力を討った。功により善闡酋とされ、虎符を賜った。雲南王エセンテムルに従って、武定を討った。十二月、亡くなった。

段慶(?〜1306)
  またの名は阿慶。段実の子。至元十八年(1281)、父に従って元に入朝した。二十一年(1284)、大理路総管となった。二十七年(1290)、皇孫カマラが梁王となり雲南に鎮した。三十年(1293)、カマラの子の松山が雲南に鎮した。大徳三年(1299)、雲南水西土官の宋隆済が叛き、貴州知州張懐徳が戦死した。雲南行省麻九兒が宋隆済を討ち破った。八年(1304)、平雲南碑を點蒼山に立てた。十年(1306)、羅雄土官阿那龍少が叛き、越州に拠った。右丞汪惟能に命じて討たせ、阿那龍少を斬った。この年、亡くなった。

段正(?〜1316)
  段実の子。段慶の弟にあたる。大徳十一年(1307)、大理路総管となった。蒙化山中の爨族たちを招撫して戸籍に入れさせた。晋寧に盤龍寺を建てさせた。

段隆(?〜?)
  段慶の子。延祐四年(1317)、大理軍民総管となった。延祐七年(1320)、カマラの孫の王禅が雲南王となった。至治三年(1323)、王禅の子のテムルブカが雲南王となった。至順元年(1330)、豫王阿忒思納失里が雲南に鎮した。禿堅が雲南に拠って叛き、廉訪使を殺して雲南王を自称した。枢密テムルが命を受けて禿堅を討ち、捕らえた。至順二年(1331)、引退して子の段俊に位を譲った。

段俊(?〜1331)
  段隆の子。至順二年(1331)、大理軍民総管となった。この年、亡くなった。

段義(?〜1332)
  段俊の族弟にあたる。至順三年(1332)、大理軍民総管となった。この年、亡くなった。

段光(?〜1344)
  段隆の子。元統元年(1333)、段義の跡を継いだが、元朝には承務カ・蒙化州知州に任ぜられるにとどまった。番兵が乱を起こしたので、孟州判官李生らが白崖を守り、高蓬新が番兵を破って、勝ちに乗じて長駆して河尾関を破った。段光は兵を率いて番兵を大いに破り、多数を斬首した。翌年、張希矯・楊生・張連らを遣わして梁王把匝剌瓦爾密を攻めさせたが、大敗した。至元元年(1335)、梁王が大理を侵したので、段光は自ら軍を率いて昆弥山に戦い、梁王を破って凱旋した。侍翰楊天甫が「長寿仙曲」を作って祝った。至正元年(1341)、段氏の臣下の高蓬が梁王の招きを断って、料理人に刺殺された。四年(1344)、段光は病没した。

段功(?〜1366)
  段隆の子。段光の弟にあたる。至正五年(1345)、段光の跡を継いだが、元朝には承務カ・蒙化州知州に任ぜられるにとどまった。翌年、木邦夷思可が叛いた。賈敦熙が雲南路の兵を率いてこれを討ち、段功が先鋒をつとめて戦勝を挙げた。功績により大理総管に任ぜられ、まもなく参政に上った。十三年(1353)、紅巾軍が建昌に流入し雲南の辺境を侵すと、阿次失里がこれを討った。十五年(1355)、元の太師トクトが雲南に流されて殺された。二十三年(1363)、紅巾軍の明玉珍が李芝麻・李明二らに兵三万を率いさせて雲南を攻めさせた。梁王は楚雄に逃れ、車力帖木兒が李明二を捕らえ、段氏の将の鉄万戸が戦死した。段功は長らく中慶の梁王府にあったが、妻の高夫人の勧めを容れて大理に帰った。段功は梁王に疑われるようになった。二十六年(1366)、段功は東寺で梁王に仏典を講じることとなり、通済橋にかかったところ、段功の馬が逸ったため、梁王は機会に乗じて番将に段功を殺させた。

段宝(?〜1381)
  段功の子。至正二十六年(1366)、父が梁王に殺されると、平章政事を自称し、大理において立った。梁王が段氏を族誅しようと図ったので、梁王と段氏は仇敵となり、金鶏廟を境に南は梁王、北は段氏が領した。洪武元年(1368)、段宝は梁王と和解した。舍興の乱が起こると、梁王を救援して舍興を破った。四年(1371)、明に降った。十四年(1381)、没した。

段明(?〜1381)
  段宝の子。洪武十四年(1381)四月、段宝の跡を継いだ。九月、明の洪武帝(朱元璋)の命により溥友徳・曹正・王弼・金朝興・郭英・張銓らが三十万の軍を率いて雲南を攻めた。諸部の首長は風を望んで明に降った。梁王は敗れて晋寧に逃れ、投水死した。沐英らが入城し、梁王の金印と図書・戸籍を接収し、民衆を安撫した。十二月、段明は亡くなった。

段世(?〜?)
  段功の子。段宝の弟にあたる。洪武十五年(1382)、段明の跡を継いだ。二月、明軍が大理に迫ったので、段世は明の正朔を奉じて外臣とならんと伝えたが、溥友徳らに無視され降伏を迫られた。このため明軍を挑発する書簡を送ったが、戦い敗れ、大理城を落とされ、子の段苴仁・段苴義とともに捕らえられた。四月、雲南の諸部は明によって平定された。翌年、段世と二子は南京に送られた。段氏による大理総管は断絶し、一族の段保が明朝により雲龍州土知州に封ぜられたのみであった。


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