⇒歴代后妃(伝説,,,,,,三国,,北朝,南朝,,,五代,,,明,
[明(1368〜1644)]
孝慈高皇后(1332〜1382)
  明の太祖(朱元璋)の馬皇后。安徽省鳳陽の人。幼くして両親を失い、郭子興の養女として育てられた。元の至正十二年(1352)、朱元璋にとついだ。朱元璋が各地を転戦するあいだ、手ずから兵士の衣服や鞋を作り、士気を鼓舞した。洪武元年(1368)、明が建国されると、皇后に立てられた。内治を助け、多くの功臣を守った。朱元璋により、唐の長孫皇后に比せられた。『高后内則』、『列女伝』。
成穆孫貴妃(1343〜1374)
  明の太祖(朱元璋)の孫貴妃。河南省陳州の人。元末の兵乱で両親を失い、次兄の孫蕃とともに揚州に避難した。馬世熊の養女となった。至正二十年(1360)、朱元璋にとついだ。明の洪武三年(1370)、貴妃に立てられ、位は諸妃の上とされた。礼法に習熟し、馬皇后により古賢女と称された。
李淑妃(?〜1384)
  明の太祖(朱元璋)の李淑妃。寿州の人。李傑の娘。洪武十七(1384)年九月、淑妃に封ぜられ、六宮の事をつかさどった。まもなく亡くなった。
郭寧妃(?〜?)
  明の太祖(朱元璋)の郭寧妃。安徽省鳳陽の人。郭山甫の娘。洪武初年、寧妃に封ぜられた。李淑妃が亡くなると、六宮の事をつかさどった。
馬皇后(?〜1402)
  明の恵帝(朱允炆)の馬皇后。安徽省鳳陽の人。馬全の娘。洪武二十八年(1395)、皇太孫朱允炆の妃となった。建文元年(1399)、朱允炆が即位すると、皇后に立てられた。靖難の役で燕王朱棣が京師に攻め入ると、宮中大火の中で薨じた。
仁孝徐皇后(1362〜1407)
  明の成祖(朱棣)の徐皇后。安徽省鳳陽の人。徐達の長女。幼くして読書を好み、女諸生と称した。洪武九年(1376)、燕王妃となった。靖難の役のとき、北平の留守を預かり、李景隆に攻められたが、将士の妻たちとともに守りぬいた。朱棣が即位すると、皇后に立てられた。『内訓』『勧善書』を撰して天下に広めた。のちに病没した。
昭献王貴妃(?〜1420)
  明の成祖(朱棣)の王貴妃。江蘇省蘇州の人。永楽初年に後宮に入った。永楽七年(1409)、貴妃となった。成祖の信頼あつく、宗室の多くが彼女の庇護を頼った。
恭献権賢妃(?〜1410)
  明の成祖(朱棣)の権賢妃。朝鮮の人。権永均の娘。玉簫を吹くのを得意とし、成祖に寵愛された。永楽七年(1409)、賢妃に封ぜられた。翌年、帝の北征に従い、凱旋すると、臨城において薨去した。
誠孝張皇后(?〜1442)
  明の仁宗(朱高熾)の張皇后。河南省永城の人。彭城伯張麒の娘。洪武二十八年(1395)、燕王世子朱高熾の妃となった。永楽二年(1404)、皇太子妃に進んだ。仁宗が即位すると、皇后に立てられた。宣徳年間には皇太后として、正統初年には太皇太后として、幼い皇帝に代わって軍国の大議を裁決した。彼女の執政した時代、明朝は華やかさはなかったものの比較的安定した。
恭譲胡皇后(?〜1443)
  名は善祥。明の宣宗(朱瞻基)の胡皇后。山東省済寧の人。永楽十五年(1417)、皇太孫朱瞻基の妃となった。仁宗のとき、皇太子妃となった。宣宗が即位すると、皇后に立てられた。帝の寵愛がなく、病がちで子もできなかったため、廃されて別宮にうつされた。没後、静慈仙師と諡された。
孝恭孫皇后(?〜1462)
  明の宣宗(朱瞻基)の孫皇后。山東省鄒平の人。孫忠の娘。永楽年間に皇太孫朱瞻基の嬪となった。宣宗が即位すると、貴妃となった。寵愛を受けたが子がなく、宮人の子を取って自分の子として養った。この子が朱祁鎮(のちの英宗)である。宣徳三年(1428)、皇后に立てられた。十年(1435)、英宗が即位すると、皇太后となった。正統十四年(1449)、英宗が北方に拉致されると、代宗(朱祁ト)を擁立し、彼女は上聖皇太后と称された。天順元年(1457)、幽閉されていた英宗を立てて復辟させた。
呉賢妃(?〜?)
  明の宣宗(朱瞻基)の呉賢妃。丹徒の人。洪煕年間、選ばれて太子朱瞻基の宮に入った。宣徳三年(1428)、朱祁ト(代宗)を産み、賢妃に封ぜられた。代宗が即位すると、皇太后となった。英宗(朱祁鎮)が復辟すると、また宣廟賢妃と称した。成化年間に薨去した。
郭嬪(?〜?)
  名は愛、字は善理。明の宣宗(朱瞻基)の郭嬪。安徽省鳳陽の人。文才があったが、後宮に入ってわずか二十日ほどで亡くなった。
孝荘銭皇后(?〜1468)
  明の英宗(朱祁鎮)の銭皇后。海州の人。正統七年(1442)、皇后に立てられた。英宗が土木の変でオイラートの捕虜となると、宮廷の資金を集めて英宗の解放のために運動した。また上天の加護を求めて祈祷を重ねた。哀哭はげしく、右眼を失明した。英宗の帰国後、南宮に幽閉されたが、いつも英宗のそばにあって慰めた。子がなく、周貴妃の産んだ朱見深(のちの憲宗)を皇太子に立てさせた。英宗は銭皇后の千秋万歳ののち、自分とともに葬るよう遺言した。英宗が崩じ、憲宗が立つと、先帝皇后たる銭氏と憲宗の生母たる周氏の尊号をどうするか論争が起こった。宦官の夏時が周貴妃を支持したが、大学士の李賢らが銭皇后を支持して、銭皇后は慈懿皇太后と号した。成化四年(1468)六月、崩じた。
孝肅周太后(?〜1504)
  明の英宗(朱祁鎮)の周貴妃。昌平の人。英宗の後宮に入り、朱見深(のちの憲宗)を産んだ。天順元年(1457)、貴妃に封ぜられた。憲宗が即位すると、皇太后に上った。憲宗と紀妃の間に朱祐トウ(のちの孝宗)が生まれ、紀妃が急死すると、朱祐トウを養育した。成化二十三年(1487)四月、聖慈仁寿皇太后の徽号を受けた。孝宗が立つと、太皇太后となった。弘治十一年(1498)冬、清寧宮で火災があり、仁寿宮にうつった。翌年、清寧宮が再建されると、もどった。十七年(1504)三月、崩じた。
汪廃后(?〜1506)
  明の代宗(朱祁ト)の汪皇后。順天府の人。汪映之の娘。正統十年(1445)、郕王朱祁トの妃となった。十四年(1449)冬、代宗が帝位につくと、皇后に立てられた。二女を産んだ。代宗は杭氏との間に生まれた朱見済を皇太子に立てようとしたが、汪皇后はこれに反対し、皇后位を廃された。正徳元年(1506)十二月、薨去した。
肅孝杭皇后(?〜1456)
  明の代宗(朱祁ト)の杭皇后。代宗の妃となり、朱見済を産んだ。景泰三年(1452)、代宗が朱見済を皇太子に立てようとはかり、汪皇后がこれに反対したため、汪皇后を廃位し、杭妃を皇后に立てた。七年(1456)、崩じた。
呉廃后(?〜1509)
  明の憲宗(朱見深)の呉皇后。順天府の人。歌曲を好んだ。天順年間に皇太子妃となり、憲宗が即位すると、皇后に立てられた。憲宗の寵妃万氏を杖で打ったため廃された。のちに孝宗により母后の礼で遇された。没後、妃の礼で葬られた。
孝貞王皇后(?〜1518)
  明の憲宗(朱見深)の王皇后。江蘇省応天の人。英宗のとき、東宮に入った。天順八年(1464)、憲宗が呉皇后を廃すと、皇后に立てられた。成化二十三年(1487)、孝宗が立つと、皇太后となった。弘治十八年(1505)、武宗が立つと、慈聖康寿太皇太后となった。『慈聖皇太后女鑑』。
孝穆紀太后(?〜1475)
  明の憲宗(朱見深)の紀夫人。広西省賀州の人。成化年間に後宮に入り、女史に任ぜられた。成化六年(1470)、朱祐トウ(のちの孝宗)を産んだ。万貴妃の魔手から守るため、朱祐トウを大監張敏に託して育てさせた。十一年(1475)、急死した。一説に万貴妃に害されたともいう。孝宗が即位すると、皇太后に追尊された。
孝恵邵太后(?〜1522)
  明の憲宗(朱見深)の邵夫人。昌化の人。邵林の娘。貧家の生まれで、杭州鎮守太監のもとに売られた。憲宗の後宮に入り、興献王朱祐杬を産んだ。成化十二年(1476)に宸妃となり、まもなく貴妃に進んだ。孫の朱厚熜(世宗)が即位すると、皇太后となった。嘉靖元年(1522)、寿安皇太后と号し、十一月に崩じた。
恭肅万貴妃(1430〜1487)
  明の憲宗(朱見深)の万貴妃。山東省諸城の人。天順年間に選ばれて東宮に侍った。成化二年(1466)、貴妃となった。憲宗より二十歳の年長で、機知に富み、帝を喜ばせて寵愛を受けた。ほかの妃が妊娠すると、危害を加えて堕胎を迫るなどした。宦官の銭能・汪直らから宝石の献上を受けて喜び、かれらが民の財産を収奪するのを放任した。
孝康張皇后(?〜1541)
  明の孝宗(朱祐トウ)の張皇后。河北省河間の人。張巒の娘。張鶴齢の姉にあたる。成化二十三年(1487)、皇太子妃に選ばれた。孝宗が即位すると、皇后となった。武宗(朱厚照)が立つと、皇太后となった。正徳五年(1510)、慈寿皇太后と号した。武宗が崩ずると、楊定和らとともに禁中粛正に乗り出し、江彬らを捕らえた。世宗(朱厚熜)が立つと、聖母・伯母と改称した。しかし世宗の生母の興国太后が引き立てられて、伯母にあたる張太后は冷遇され、弟の張延齢が罪に問われるなど、憂憤のうちに崩じた。
孝静夏皇后(?〜1535)
  明の武宗(朱厚照)の夏皇后。上元の人。正徳元年(1506)、皇后に立てられた。嘉靖元年、荘肅皇后の尊称を受けた。十四年正月、崩じた。
孝潔陳皇后(?〜1528)
  明の世宗(朱厚熜)の陳皇后。元城の人。嘉靖元年(1522)、皇后に立てられた。七年(1528)、流産して崩じた。
張廃后(?〜1536)
  明の世宗(朱厚熜)の張皇后。世宗の後宮に入り、順妃に封ぜられた。嘉靖七年(1528)、陳皇后が崩ずると、皇后に立てられた。世宗は道教に傾倒して、祈祷をおこなったり祭殿を濫造したりした。十三年、四明山で採れた霊芝が献上され、千年の霊芝を煎じて飲むと不老不死となると聞かされた。世宗は喜んで、霊芝を各地から取り寄せ、皇后にも飲ませた。皇后は腹を下して命を落としかけ、これを機会に皇后は積年の怨み言を世宗にぶつけてしまった。世宗も激怒して皇后を廃位し、別宮にうつさせた。十五年、薨じた。
孝烈方皇后(?〜1547)
  明の世宗(朱厚熜)の方皇后。江寧の人。嘉靖十年、嬪となった。十三年、張皇后が廃されると、代わって皇后に立てられた。二十一年、楊金英らが世宗の暗殺を企てた。世宗は寵愛する曹端妃の宮に泊まっていたが、楊金英らは寝静まったところをうかがって、世宗の首を絞めた。張金蓮が事を皇后に密告して、皇后は世宗を救い、張佐らに命じて楊金英らを捕らえさせた。また事件に無関係だった曹端妃も処刑された。二十六年十一月、崩じた。
孝恪杜太后(1516?〜1554)
  明の世宗(朱厚熜)の杜夫人。順天府大興の人。嘉靖九年(1530)、後宮に入った。翌年、康嬪となった。十五年(1536)、妃となった。翌年、朱載垕(のちの穆宗)を産んだ。病没した。穆宗が即位すると、皇太后に追尊された。
孝懿李皇后(?〜1558)
  明の穆宗(朱載垕)の李夫人。昌平の人。選ばれて裕王朱載垕の妃となり、憲懐太子を産んだ。嘉靖三十七年(1558)四月、薨去した。穆宗が即位すると、孝懿皇后の謚を追贈された。
孝安陳皇后(?〜1596)
  明の穆宗(朱載垕)の陳皇后。通州の人。嘉靖三十七年(1558)九月、選ばれて裕王朱載垕の継妃となった。隆慶元年(1567)、皇后に立てられた。
孝定李太后(?〜1614)
  明の穆宗(朱載垕)の李貴妃。漷県の人。裕王朱載垕の邸に仕えた。隆慶元年(1567)三月、貴妃に封ぜられた。朱翊鈞(のちの神宗)を産んだ。神宗が即位すると、慈聖皇太后と尊称された。慈寧宮から乾清宮にうつって、幼帝を厳しくしつけた。神宗は彼女のために慈寿寺を修建した。書をよくし、慈寿寺中の宝蔵閣および文華後殿の「学二帝三皇治天下大経大法」の扁額はともに李太后の筆である。
孝端王皇后(?〜1620)
  明の神宗(朱翊鈞)の王皇后。余姚の人。万暦六年(1578)、皇后に立てられた。四十八年(1620)四月、崩じた。
劉昭妃(1557〜1642)
  明の神宗(朱翊鈞)の劉昭妃。万暦六年(1578)、昭妃となった。天啓・崇禎年間には慈寧宮に住み、太后の璽を管理し、諸王を養育した。穀宗(朱由検)は彼女を母のように礼遇した。
孝靖王太后(?〜1611)
  明の神宗(朱翊鈞)の王恭妃。順天府大興の人。はじめ慈寧宮の宮人となった。万暦十年(1582)四月に恭妃に封ぜられ、八月に朱常洛(のちの光宗)を産んだ。二十九年(1601)、朱常洛が皇太子となったが、鄭貴妃をはばかって王氏は進封がなかった。三十四年(1606)、元孫を生み、慈聖の徽号が加えられ、皇貴妃に進んだ。三十九年(1611)、薨去した。熹宗(朱由校)が即位すると、孝靖温懿皇太后と追諡された。
恭恪鄭貴妃(1564?〜1630)
  明の神宗(朱翊鈞)の鄭貴妃。順天府大興の人。万暦六年(1578)、選ばれて後宮に入った。貴妃となり、三子を産んだ。皇貴妃に進んだ。自分の子を太子にしようとして、争国本・梃撃の諸案を引き起こした。神宗が崩ずると、勢力を失った。恭恪と諡された。
孝元郭皇后(?〜1613)
  明の光宗(朱常洛)の郭夫人。順天府の人。郭維城の娘。万暦二十九年(1601)、皇太子妃に立てられた。四十一年(1613)十一月、薨去した。熹宗が即位すると、孝元昭懿皇后の号を追贈された。
孝和王太后(?〜1619)
  明の光宗(朱常洛)の王夫人。順天府の人。皇太子朱常洛に仕えて東宮に入り、選侍となった。朱由校(のちの熹宗)を産んだ。万暦三十二年(1604)、才人となった。四十七年(1619)三月、薨去した。熹宗が即位すると、孝和恭献皇太后の号を追贈された。
孝純劉太后(?〜1614)
  宛平の人。明の光宗(朱常洛)の劉夫人。皇太子朱常洛に仕えて東宮に入り、淑女となった。万暦三十八年(1610)、朱由検(のちの穀宗)を産んだ。
李康妃(?〜?)
  明の光宗(朱常洛)の李夫人。光宗の後宮に入り、選侍となった。李荘妃と区別して、西李と称された。光宗にもっとも寵愛され、皇貴妃となったが、皇后に上れなかった。光宗が崩ずると、乾清宮で皇太子朱由校(のちの熹宗)の身柄を押さえ、権力を握ろうとした。しかし朱由校は王安の手で文華殿にうつされ、群臣の前で即位した。熹宗は左光斗らの意見を容れて彼女を別宮にうつさせた。天啓四年(1624)、康妃に封ぜられた。
李荘妃(?〜?)
  明の光宗(朱常洛)の李夫人。光宗の後宮に入り、選侍となった。李康妃と区別して、東李と称された。生母を失った朱由検(のちの穀宗)を養育した。天啓元年(1621)、荘妃に封ぜられた。魏忠賢や客氏に憎まれ、憂憤のうちに薨じた。
趙選侍(?〜?)
  明の光宗(朱常洛)の趙夫人。光宗のとき、封号をえられなかった。熹宗(朱由校)が立つと、魏忠賢や客氏に憎まれ、自殺を命じられた。光宗からの賜物を並べ、西に向いて仏を拝み、痛哭して自殺したという。
懿安張皇后(1608〜1644)
  名は嫣。明の熹宗(朱由校)の張皇后。河南省祥符の人。張国紀の娘。天啓元年(1621)、皇后に立てられた。ときに太監魏忠賢と乳母の客氏が帝の信任を受けていたので、かれらの専横を掣肘しようとした。このため魏忠賢に憎まれ、誣告を受けた。帝の子を身ごもったが、客氏のために流産させられたという。信王朱由検(のちの穀宗)を後継に立てさせたのは、皇后の力であった。崇禎十七年(1644)、李自成軍が北京に入ると、自ら縊死した。
張裕妃(?〜?)
  明の熹宗(朱由校)の張夫人。魏忠賢や客氏の怒りを買って位を奪われ、別宮に幽閉されて、飲食を絶たれて亡くなった。
愍周皇后(?〜1644)
  明の穀宗(朱由検)の周皇后。江蘇省蘇州の人。天啓年間、選ばれて信王朱由検の邸に入り、朱慈烺を産んだ。穀宗が即位すると、皇后に立てられた。崇禎十七年三月十八日、北京が李自成軍によって陥落すると、帝に先だって自殺した。
恭淑田貴妃(?〜1642)
  明の穀宗(朱由検)の田夫人。陝西省の人。田弘遇の娘。崇禎元年に礼妃に封ぜられ、のちに皇貴妃に進んだ。
歴代后妃(清)

人物事典トップへもどる