⇒歴代后妃(伝説,,,,,,三国,,北朝,南朝,,,五代,宋,,,
[北宋(960〜1127)]

昭憲杜太后(902〜961)
  宋の太祖(趙匡胤)や太宗(趙匡義)の母。定州安喜の人。杜爽の娘。趙弘殷にとついだ。趙光済・趙匡胤・趙匡義・趙廷美・趙光賛・燕国長公主・陳国長公主を産んだ。後周の顕徳年間、南陽郡夫人に封ぜられた。太祖が即位すると、皇太后となった。建隆二年(961)、滋徳殿で崩じた。太宗が帝位についたとき、杜太后の遺命に仮託して、太宗に位を伝えるよう約したという金匱の盟の話が偽作された。

孝恵賀皇后(929〜958)
  宋の太祖(趙匡胤)の賀夫人。開封の人。賀景思の長女。後晋の開運初年、趙匡胤にとついだ。秦国公主・晋国公主・趙徳昭を産んだ。後周の顕徳三年(956)、会稽郡夫人に封ぜられた。五年(958)、病のため薨去した。宋の建隆三年(962)、皇后の位を追贈された。

孝明王皇后(942〜963)
  宋の太祖(趙匡胤)の王皇后。邠州新平の人。王饒の三女。後周の顕徳五年(958)、後妻として趙匡胤にとついだ。琅邪郡夫人に封ぜられた。太祖が即位すると、建隆元年(960)八月に皇后に立てられた。子女三人を産んだが、いずれも夭逝した。乾徳元年(963)十二月、崩じた。

孝章宋皇后(952〜995)
  宋の太祖(趙匡胤)の宋皇后。河南洛陽の人。宋偓の娘。乾徳五年(967)、太祖に召された。開宝元年二月、後宮に入って皇后に立てられた。太祖が崩ずると、開宝皇后と号した。太平興国二年(977)、西宮に住んだ。雍熙四年(987)、東宮にうつった。至道元年(995)四月、崩じた。

淑徳尹皇后(?〜?)
  宋の太宗(趙匡義)の尹夫人。相州鄴の人。尹廷勳の娘。後周のとき、趙匡義にとついだ。早くに亡くなった。太宗が即位すると、皇后の位を追贈された。

懿徳符皇后(942〜975)
  宋の太宗(趙匡義)の符夫人。陳州宛丘の人。魏王符彦卿の六女。後周の顕徳年間に趙匡義にとついだ。宋の建隆初年、汝南郡夫人に封ぜられた。のちに楚国夫人に進んだ。趙匡義が晋王となると、越国夫人となった。開宝八年(975)、薨去した。太宗が即位すると、皇后の位を追贈された。

明徳李皇后(960〜1004)
  宋の太宗(趙匡義)の李皇后。潞州上党の人。李処耘の次女。太平興国三年(978)、後宮に入った。雍熙元年(984)十二月、皇后に立てられた。至道三年(997)、太宗が崩じ、真宗が即位すると、皇太后となり、西宮嘉慶殿に住んだ。咸平四年(1001)、万安宮にうつった。景徳元年(1004)、崩じた。

元徳李皇后(944〜977)
  宋の太宗(趙匡義)の李夫人。真定の人。李英の娘。開宝年間、隴西郡君に封ぜられた。太宗が即位すると、夫人に進んだ。皇女二人を産んだが早く亡くなった。趙元佐を産み、趙恒(のちの真宗)を産んだ。太平興国二年(977)、薨去した。真宗が即位すると、賢妃に追封され、さらに皇太后に追尊された。

章懐潘皇后(968〜989)
  宋の真宗(趙恒)の潘夫人。大名の人。潘美の八女。韓王趙恒にとつぎ、莒国夫人に封ぜられた。端拱二年(989)五月、薨去した。真宗が即位すると、皇后の位を追贈された。

章穆郭皇后(976〜1007)
  宋の真宗(趙恒)の郭皇后。太原の人。郭守文の次女。淳化四年、襄王趙恒にとつぎ、魯国夫人に封ぜられた。のちに秦国夫人に進んだ。真宗が即位すると、皇后に立てられた。景徳四年(1007)、病のため崩じた。

章献明肅劉皇后(969〜1033)
  宋の真宗(趙恒)の劉皇后。益州華陽の人。はじめ蜀の人の龔美にとついだ。龔美は彼女とともに京師に入り、襄王趙恒の邸に彼女を潜り込ませた。真宗が即位すると、徳妃となり、劉姓を名乗り、劉美(龔美)を兄ということにした。大中祥符五年(1012)十二月、皇后に立てられた。李宸妃が趙禎(のちの仁宗)を産むと、皇后はこの子を奪って自分の子ということにした。聡明機敏で、書史に通暁したので、真宗に重んじられ、しばしば政治に干渉した。真宗が崩ずると、皇太后となった。仁宗が立つと、十一年にわたって垂簾聴政した。晩年は外戚や宦官を重用した。

李宸妃(987〜1032)
  宋の真宗(趙恒)の李宸妃。杭州の人。李仁徳の娘。後宮に入り、章献劉皇后の侍児をつとめた。真宗の寵愛を受け、趙禎(のちの仁宗)を産んだが、劉皇后に奪われて、皇后の子とされた。真宗が崩ずると、幽閉された。明道元年(1032)、病が重くなり、宸妃の位に進められて、まもなく没した。翌年、劉皇太后が薨去すると、仁宗ははじめて李宸妃が実母であったことを知り、皇太后に追冊し、諡を荘懿といった。慶暦四年(1044)、章懿と改諡された。

楊淑妃(984〜1036)
  宋の真宗(趙恒)の楊淑妃。益州郫の人。楊知儼の娘。十二歳のとき、皇子宮に入った。真宗が即位すると、才人となり、婕、となり、婉儀に進んだ。大中祥符七年(1014)、淑妃となった。幼い趙禎(のちの仁宗)を撫育した。真宗が崩ずると、遺詔により皇太妃となった。章献太后が薨ずると、遺誥により皇太后と尊称された。仁宗と軍事や国事を討議した。住んでいた宮の名から保慶皇太后と号された。荘恵と諡された。慶暦四年(1044)、章恵と改諡された。

沈貴妃(994〜1076)
  宋の真宗(趙恒)の沈貴妃。沈継宗の娘。選ばれて真宗の後宮に入り、才人となった。美人を経て、婕、となり、充媛に進み、徳妃にいたった。節倹を尊び、華美を好まなかった。嘉祐末年、貴妃に上った。熙寧九年(1076)、薨去した。

郭皇后(1012〜1035)
  宋の仁宗(趙禎)の郭皇后。応州金城の人。天聖二年(1024)、皇后に立てられた。尚美人・楊美人としばしば諍いを起こし、仁宗にうとんじられるようになった。宦官の閻文応が仁宗とともに皇后の廃位をはかり、宰相の呂夷簡の協力をえた。明道二年(1033)十二月、子がないという理由で廃され、浄妃・玉京冲妙仙師となり、長楽宮に蟄居した。景祐元年(1034)、瑤華宮にうつった。金庭教主・冲静元師の号を賜った。二年(1035)、急死した。翌年、皇后に追復された。

慈聖光献曹皇后(1016〜1079)
  宋の仁宗(趙禎)の曹皇后。真定霊寿の人。曹彬の孫娘にあたる。明道二年(1033)、郭皇后が廃されると、後宮に入った。景祐元年(1034)九月、皇后に立てられた。禁苑で手ずから農耕や養蚕をおこなったという。慶暦八年、宮中の衛卒が乱を起こしたとき、あわてて逃げようとする仁宗をとどめ、宦官に叱咤して乱をおさめさせた。嘉祐八年(1063)、英宗(趙曙)が即位すると、皇太后となった。英宗が病となると、朝政を聴いた。翌年、英宗の病が癒えると、政権を返した。治平四年(1067)、神宗(趙頊)が即位すると、太皇太后となった。投獄されていた蘇軾を釈放させ、王安石の新法に反対し、祖法を軽々しく変えるべきではないと主張した。

張貴妃(1023〜1053)
  宋の仁宗(趙禎)の張貴妃。河南永安の人。張堯封の娘。幼くして父母を失い、後宮に入れられた。仁宗にもっとも寵愛を受けた。慶暦元年(1041)、清河郡君に封ぜられた。才人となり、修媛にうつった。皇祐初年、貴妃に進んだ。

苗貴妃(1023〜1091)
  宋の仁宗(趙禎)の苗貴妃。開封の人。苗継宗の娘。後宮に入って容徳となり、趙マ・福康公主を産んだ。仁寿郡君に封ぜられ、才人となり、昭容となり、徳妃に進んだ。趙曙(のちの英宗)をなにくれとなく世話した。英宗が即位すると、貴妃に上った。元祐六年(1091)、薨去した。

周貴妃(?〜?)
  宋の仁宗(趙禎)の周貴妃。開封の人。四歳のとき、後宮に入った。仁宗の寵愛を受けて、ふたりの公主を産んだ。一日一食菜食し、一室に引きこもって、仏書を誦する生活を送った。賢妃に進んだ。徽宗(趙佶)が即位すると、貴妃の位を加えられた。九十三歳で薨去し、昭淑と諡された。

楊徳妃(1019〜1072)
  宋の仁宗(趙禎)の楊徳妃。定陶の人。楊忠の娘。天聖年間、後宮に入った。原武郡君に封ぜられ、美人に進んだ。婕、となり、修媛に進み、修儀にいたった。熙寧五年(1072)、薨去し、徳妃の位を贈られた。

馮賢妃(?〜?)
  宋の仁宗(趙禎)の馮賢妃。東平の人。九歳のとき、後宮に入った。仁宗の寵愛を受けて、邢国公主・魯国公主を産んだ。始平郡君に封ぜられた。才人となり、婕、に進み、修容にいたった。徽宗(趙佶)のころ、七十七歳で薨去し、賢妃の位を贈られた。

宣仁聖烈高皇后(1032〜1093)
  宋の英宗(趙曙)の高皇后。亳州蒙城の人。慶暦八年(1048)、趙頊(のちの神宗)を産んだ。神宗が立つと、皇太后となった。哲宗(趙煦)が立つと、太皇太后となり、聴政にあたった。祖宗の法を恢復するようつとめ、司馬光・呂光著らを起用し、新法党を排斥し、煕寧・元豊年間に立てられた法を廃止していった。これを元祐更化と称する。九年間にわたって臨朝称制した。

欽聖憲肅向皇后(1046〜1111)
  宋の神宗(趙頊)の向皇后。懐州河内の人。治平三年(1066)、穎王趙頊にとつぎ、安国夫人となった。神宗が即位すると、皇后に立てられた。哲宗が即位すると、皇太后となった。元符三年(1110)、哲宗が崩じ、嗣子がなかったので、端王趙佶を迎えて帝位につけた。これが徽宗である。徽宗が立つと、垂簾聴政した。半年ほどで政権を帝に返した。

欽成朱皇后(1052〜1102)
  宋の神宗(趙頊)の朱徳妃。開封の人。崔傑の娘。父を早く亡くし、母は再嫁して、任氏に育てられた。熙寧初年、後宮に入って御侍となり、才人に進み、婕、にいたった。趙煦(のちの哲宗)・趙似・徐国公主を産んだ。徳妃に累進した。哲宗が即位すると、皇太妃に上った。殿下と称され、聖瑞宮に住んだ。崇寧元年(1102)二月、薨去し、皇后に追尊された。

欽慈陳皇后(1054〜1085)
  宋の神宗(趙頊)の陳美人。開封の人。後宮に入って御侍となった。趙佶(のちの徽宗)を産み、美人に進んだ。神宗が崩ずると、自ら体をこわし、治療を拒否して、「早く先帝のもとにお仕えしたい」といって、まもなく亡くなった。建中靖国元年(1101)、皇太后に追冊された。

林賢妃(?〜1090)
  宋の神宗(趙頊)の林婕、。南剣の人。林洙の娘。幼くして選ばれて後宮に入った。成長すると、寵愛を受けて永嘉郡君に封ぜられ、美人に上った。趙俁・趙偲・邢国公主を産み、婕、に進んだ。元祐五年(1090)、薨去した。貴儀の位を贈られ、のち賢妃の位を贈られた。

武賢妃(?〜1107)
  宋の神宗(趙頊)の武賢妃。選ばれて後宮に入った。元豊五年(1082)、才人に進んだ。趙n・賢和公主を産んだ。美人・婕、と累進した。徽宗が即位すると、昭儀・賢妃に進んだ。大観元年(1107)、薨去した。

昭慈聖献孟皇后(1072〜1131)
  宋の哲宗(趙煦)の孟皇后。洺州の人。元祐七年(1092)、哲宗の皇后に立てられた。紹聖三年(1096)、掖庭秘獄が起こり、左道の罪で廃され、瑤華宮に蟄居した。元符三年(1110)、哲宗が崩ずると、内廷に召され、向太后とともに聴政した。元祐皇后と号した。崇寧元年(1102)、また廃された。靖康の変では、廃位されていたことが幸いして北に連れ去られずにすんだ。靖康二年(1127)、楚の張邦昌によって、再び元祐皇后として立てられた。手ずから書して康王趙構(高宗)が立ち宋の皇統を継いだことを内外に告げた。建炎元年(1127)、元祐太后となり、さらに隆祐太后と改号した。

昭懐劉皇后(?〜?)
  宋の哲宗(趙煦)の劉皇后。はじめ哲宗の御侍となった。美貌で多芸多才なため、寵愛を受けた。歌を作って孟皇后を誹謗し、皇后に取って代わった。徽宗が即位すると、元符皇后となった。翌年、皇太后となり、崇恩宮と称された。しばしば朝政に干渉し、品行は改まらなかったので、徽宗は彼女の廃位を準備した。下人に迫られて、自ら縊死した。

顕恭王皇后(1084〜1108)
  宋の徽宗(趙佶)の王皇后。開封の人。王藻の娘。元符二年(1099)六月、端王趙佶にとつぎ、順国夫人に封ぜられた。徽宗が即位すると、皇后に立てられた。趙桓(欽宗)と崇国公主を産んだ。大観二年(1108)、崩じた。

鄭皇后(1080〜1132)
  宋の徽宗(趙佶)の鄭皇后。開封の人。鄭紳の娘。容姿美しく、詩才にもすぐれ、徽宗に寵愛された。政和元年(1111)、皇后に立てられた。欽宗(趙桓)が立つと、太上皇后となり、寧徳宮にうつって、寧徳太后を称した。開封が陥落すると、徽宗・欽宗らとともに北方に連れ去られた。多くの侮辱を受け、金の燕京に着いたときには白髪と化していたという。抑留されること五年、五国城において崩じた。

王貴妃(?〜1117)
  宋の徽宗(趙佶)の王貴妃。徽宗が即位すると、平昌郡君に封ぜられ、貴妃に進んだ。趙楷・趙植・趙機・柔福帝姫らを産んだ。

韋賢妃(1080〜1159)
  宋の徽宗(趙佶)の韋賢妃。開封の人。韋安道の娘。後宮に入り、侍御となった。崇寧末年、平昌郡君に封ぜられた。大観初年に婕、となり、のちに婉容に進んだ。趙構(のちの高宗)を産んだ。趙構が康王となると、彼女は龍徳宮賢妃に封ぜられた。徽宗・欽宗らとともに北方に連れ去られた。南宋が建てられると、宣和皇后と尊せられた。紹興七年(1137)、皇太后と尊せられた。十二年(1142)、江南に送還され、高宗自らに迎えられた。臨安に入り、慈寧宮に住んだ。

喬貴妃(?〜?)
  宋の徽宗(趙佶)の喬貴妃。はじめ鄭皇后に仕え、韋賢妃とは姉妹の契りを結んだ。徽宗・欽宗らとともに北方に連れ去られた。韋妃が帰国するときには、酒を酌み交わし、涙を流して別れを惜しんだという。

劉貴妃(?〜1113)
  宋の徽宗(趙佶)の劉貴妃。徽宗にもっとも愛された。才人から貴妃に累進した。趙棫、趙模、趙榛を産んだ。

朱皇后(?〜?)
  宋の欽宗(趙桓)の朱皇后。開封祥符の人。朱伯材の娘。太子趙桓にとつぎ、皇太子妃となった。欽宗が即位すると、皇后に立てられた。徽宗・欽宗らとともに北方に連れ去られ、消息は伝わらなかった。

[南宋(1127〜1279)]

憲節邢皇后(1106〜1139)
  宋の高宗(趙構)の邢皇后。開封祥符の人。邢煥の娘。康王趙構にとつぎ、嘉国夫人に封ぜられた。開封が陥落すると、徽宗・欽宗らとともに北方に連れ去られた。高宗が即位すると、不在のまま皇后に立てられた。紹興九年(1139)、五国城で崩じた。

憲聖慈烈呉皇后(1115〜1197)
  宋の高宗(趙構)の呉皇后。開封の人。呉近の娘。十四歳のとき、選ばれて康王趙構の宮に入った。古典に広く通じ、書画をよくしたので、日増しに寵遇を受けるようになった。高宗が即位すると、戎服を着てそばに仕えた。和義郡夫人に封ぜられ、才人となり、婉儀に進んだ。紹興十二年(1142)、貴妃に立てられた。翌年、皇后に立てられた。高宗が孝宗に帝位を譲ると、太上皇后と号し、徳寿宮にうつった。高宗が崩ずると、皇太后となった。光宗が即位すると、寿聖皇太后と改号された。孝宗が崩ずると、太皇太后となった。ときに光宗が病と称して、喪を執り行わなかったので、知枢密院事趙汝愚の建議を納れて、光宗退位の手詔を宣布し、皇子嘉王を立てた。これが寧宗である。「古烈女図」などの画を残した。

潘賢妃(?〜1148)
  宋の高宗(趙構)の潘賢妃。開封の人。潘永寿の娘。康王趙構にとつぎ、元懿太子を産んだ。高宗が即位すると、賢妃となった。

張賢妃(?〜1142)
  宋の高宗(趙構)の張婉儀。開封の人。建炎初年、才人となった。高宗の寵愛を受け、婕、に進んだ。趙伯j(のちの孝宗)を母がわりに養育した。婉儀に上った。死後、賢妃の位を贈られた。

劉貴妃(?〜?)
  名は希。宋の高宗(趙構)の劉貴妃。銭塘人。紹興十八年(1148)、後宮に入った。のちに明達貴妃に封ぜられ、御前文字を管掌した。書法にたくみで、絵画をよくした。絵画にはみな「奉華堂印」の図章が加えられた。代表作に「太真酔浥花露」、「宮衣添銭」、「枚卜」、「宮綉」。

劉婉儀(?〜?)
  宋の高宗(趙構)の劉婉儀。康王趙構の宮に入り、宜春郡夫人に封ぜられた。のちに婉儀に封ぜられた。建炎年間に内翰文字と写宸翰字を管掌した。画をよくし、とくに人物画を得意として、古人の筆法を模した。

張貴妃(?〜1190)
  宋の高宗(趙構)の張貴妃。開封祥符の人。後宮に入り、永嘉郡夫人に封ぜられた。乾道六年(1170)、婉容に進んだ。淳熙七年(1180)、太上皇淑妃となった。十六年(1189)、貴妃に上った。

成穆郭皇后(1125〜1156)
  宋の孝宗(趙シン)の郭夫人。開封祥符の人。郭瑊の娘。普安郡王趙伯j(のちの孝宗)にとついで咸寧郡夫人に封ぜられた。光守・荘文太子・趙ト・趙恪を産んだ。死後、淑国夫人に追封され、孝宗が立つと、皇后の位が贈られた。

成恭夏皇后(?〜1167)
  宋の孝宗(趙シン)の夏皇后。袁州宜春の人。夏協の娘。後宮に入り、憲聖呉太后に仕えた。普安郡王趙伯j(のちの孝宗)の郭夫人が亡くなると、後妻として迎えられ、斉安郡夫人に封ぜられた。孝宗が即位すると、賢妃に立てられた。翌年、皇后に上った。

成肅謝皇后(?〜1203)
  宋の孝宗(趙シン)の謝皇后。丹陽の人。幼くして孤児となり、翟氏に育てられた。成長すると、選ばれて後宮に入り、普安郡王趙伯j(のちの孝宗)にとついで、咸安郡夫人に封ぜられた。孝宗が即位すると、婉容となった。翌年、貴妃に進んだ。淳熙三年(1176)、皇后に立てられた。孝宗が光宗に帝位を譲ると、寿成皇后と号した。孝宗が崩ずると、皇太后となった。慶元初年、恵慈皇太后と号した。嘉泰二年(1202)、慈佑太皇太后となった。

蔡貴妃(?〜1185)
  宋の孝宗(趙シン)の蔡貴妃。蔡滂の娘。後宮に入り、和義郡夫人に封ぜられた。婉容に進んだ。淳熙十年(1183)冬、貴妃に任ぜられた。

李賢妃(?〜1183)
  宋の孝宗(趙シン)の李婕、。後宮に入り、典字となり、通義郡夫人に封ぜられた。婕、に進んだ。死後、賢妃の位を贈られた。

慈懿李皇后(1145〜1200)
  字は鳳娘。宋の光宗(趙惇)の李皇后。相州安陽の人。李道の娘。恭王趙惇にとつぎ、妃として迎えられ、栄國夫人に封ぜられた。乾道四年(1168)、嘉王を生んだ。七年(1171)、皇太子妃となった。淳煕十六年(1189)、光宗が即位すると、皇后に冊立された。嘉王を皇太子に立てるよう願ったが、太上皇(孝宗)に反対されたため、太上皇が廃立を企んでいると光宗に讒言した。光宗は皇后の言に惑わされて、父子の間は険悪になった。黄貴妃が光宗の寵愛を受けていたが、皇后はこれを謀殺した。太上皇の死後は、一族を重用して、専横をきわめた。寧宗が立つと、太上皇后となった。

黄貴妃(?〜1191)
  宋の光宗(趙惇)の黄貴妃。淳熙末年、徳寿宮に入り、和義郡夫人に封ぜられた。皇太子趙惇にもっとも愛された。光宗が即位すると、貴妃に上った。紹熙二年(1191)十一月、李皇后に謀殺された。

恭淑韓皇后(?〜1200)
  宋の寧宗(趙擴)の韓皇后。韓同卿の娘。選ばれて後宮に入り、平陽郡王趙擴にとついで、新安郡夫人に封ぜられた。崇国夫人に進んだ。寧宗が即位すると、皇后に冊立された。

恭聖仁烈楊皇后(1162〜1233)
  宋の寧宗(趙擴)の楊皇后。会稽の人。楊懿之の娘。美貌をもって選ばれて後宮に入った。慶元元年(1195)、平楽郡夫人に封ぜられた。婉儀、次いで貴妃に上った。韓皇后が薨ずると、曹夫人と皇后の位を争った。嘉泰二年(1202)、皇后に立てられ、曹夫人を推した韓侘冑を謀殺した。太子趙拡が皇后と宰相史弥遠の専権を憎み、史弥遠を追放しようとした。史弥遠は趙拡を廃位すべく、趙ホ(のちの理宗)を皇后に会わせた。皇后はやむをえず、趙拡を廃して済王とし、趙ホを皇太子とした。理宗が立つと、皇太后となり、垂簾聴政した。『楊太后宮詞』。

謝皇后(1210〜1283)
  名は道清。天台の人。宋の理宗(趙ホ)の謝皇后。謝渠伯の娘。生まれたときは肌が黒く、片眼を失明していたという。祖父の謝深甫が楊太后と親しかったので、選ばれて後宮に入った。まもなく病にかかり、快復すると肌は白くなり、目も見えるようになったと伝えられる。通義郡夫人に封ぜられた。宝慶三年(1255)九月に貴妃となり、十二月に皇后に立てられた。理宗は賈貴妃や閻貴妃を寵愛したが、皇后は意に介さなかった。開慶初年、蒙古兵が長江を渡って攻めてきたので、理宗は遷都を議論させたが、皇后は民心の動揺するのを恐れて反対した。そのため遷都は取りやめとなった。理宗が崩じて、度宗(趙キ)が立つと、咸淳三年(1267)に寿和聖福皇太后となった。徳祐二年(1276)二月、恭宗(趙ケン)が元に降ると、太后は八月に大都に入り、寿眷郡夫人に封ぜられた。

全皇后(?〜?)
  宋の度宗(趙キ)の全皇后。会稽の人。忠王の妃として選ばれ、後宮に入った。景定二年(1261)十一月、永嘉郡夫人に封ぜられた。十二月に皇太子妃に立てられた。咸淳三年正月、皇后に立てられた。十年、度宗が崩ずると、皇太后となった。徳祐二年(1276)、恭宗(趙ケン)が元に降ると、大都に入り、尼となって正智寺に住持した。

楊淑妃(?〜1279)
  宋の度宗(趙キ)の楊淑妃。後宮に入って美人となった。咸淳三年(1267)、淑妃に上った。建国公趙昰を産んだ。徳祐二年(1276)五月、趙昰(端宗)が福州で立つと、皇太后と尊称され、臨朝聴政した。景炎三年(1278)、端宗が崩ずると、異母弟の趙昺が立てられた。祥興二年(1279)二月、克Rで宋軍が敗れると、陸秀夫が趙昺を背負って海に身を投げた。妃はこれを聞いて、また身を投げて死んだ。
歴代后妃(遼・金・元)

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