⇒歴代后妃(伝説,,,,,,三国,,北朝,南朝,,,五代,,,,
[伝説]

女登(?〜?)
  任姒ともいう。有蟜氏の娘。少典の妃となった。華陽で遊んでいたところ、神龍に感応して、神農(のちの炎帝)を産んだという。

附宝(?〜?)
  有蟜氏の娘。また地祇の子ともいう。少典にとついだ。北斗枢星をめぐる巨大な虹の光(オーロラ?)を見て、妊娠すること二十五カ月、軒轅(黄帝)を寿丘で産んだ。任姒と同一人物ともいう。

嫘祖(?〜?)
  嫘俎、雷祖、累祖ともいう。黄帝の正妃。西陵氏の娘。黄帝の正妃となり、玄囂・昌意のふたりの男子を産んだ。黄帝が九黎を破ったのち、蚕神が黄と白の二匹の蚕を黄帝に献じた。嫘祖は啓示を受けて、桑を採り、蚕を育て、繭を取り、糸を紡いで、精美な絹の衣料を織りあげた。これが養蚕の発明で、嫘祖が人々に教えたと伝えられる。

女節(?〜?)
  黄帝の妃。方雷氏の娘。青陽を産んだ。

彤魚氏(?〜?)
  黄帝の妃。彤魚氏の娘。夷鼓を産んだ。

嫫母(?〜?)
  黄帝の妃。蒼林を産んだ。

姜源(?〜?)
  帝嚳の妃。邰侯の娘。帝嚳の正妃となった。あるとき巨人の足跡をみつけて、面白がってそれを踏んだ。帰ると妊娠していて、子が産まれた。不吉に思ってこの子を路地に捨てたが、牛や羊も避けて踏まなかった。林に捨てたが、きこりが助けた。寒氷の上に置いたが、飛鳥が暖めて助けた。姜源はあきらめてこの子を棄と名づけて育てた。堯のとき、棄は邰に封ぜられ、后稷と号した。子孫は代々稷に住み、周の文王・武王にいたって天子となった。

簡狄(?〜?)
  帝嚳の妃。有娀氏の長女。帝嚳の次妃となった。堯のとき、玄鳥の卵を口にふくんで飲み込んでしまった。簡狄は妊娠し、契を生んだ。簡狄は契を教育し、契は堯のもとで司徒にのぼった。子孫に天乙があり、これが殷の成湯である。

慶都(?〜?)
  帝嚳の妃。陳鋒氏(陳鄷氏)の娘。放勲(堯)を産んだ。

常宜(?〜?)
  常儀ともいう。帝嚳の妃。娵訾氏の娘。摯(少昊)を産んだ。

女皇(?〜?)
  堯の妃。散宜氏の娘。丹朱を産んだ。

娥皇(?〜?)
  后育。舜の妃。堯の長女。四岳が舜を堯に推薦したため、堯は舜に親しんで娥皇と女英の姉妹をめあわせた。舜の父母と弟は、しばしば舜を殺そうとしたが、姉妹はそのたび夫を危地から救った。舜は堯のあとを受けて帝にのぼり、娥皇を后とし、女英を妃とした。天下は二妃の聡明貞仁をたたえた。舜が蒼梧で死ぬと、二妃は江湘の間で死んだ。夫の死を悲しんで湘水に身を投げたという伝説が残っている。

女英(?〜?)
  舜の妃。堯の次女。娥皇とともに舜にめあわされた。商均を産んだ。舜が帝位につくと、妃となった。舜が蒼梧で死ぬと、江湘の間で死んだ。

⇒歴代后妃(伝説,夏,,,,,三国,,北朝,南朝,,,五代,,,,
[夏(前2070?〜前1600?)]
女嬌(?〜?)
  禹の妃。塗山氏の長女。台桑で禹と結婚し、啓を生んだ。禹は治水工事の仕事が忙しく家に帰ることもできなかったが、塗山氏は啓を教育して、啓に禹の跡を立派に継がせたという。

后緡(?〜?)
  有仍氏の娘。帝相の妃。帝相が澆に殺されると、実家に帰り少康を産んだ。のちに少康は夏の中興をなした。

有虞氏(?〜?)
  虞思の娘。澆に追われて有虞氏のもとに身を寄せた少康にとつぎ、綸に住んだ。

妹喜(?〜?)
  末喜。桀王の妃。有施氏の娘。夏の桀王の妃となり、剣を佩き冠をつけて男のような格好するのを好んだ。桀王とともに日夜宴楽にふけり、酒池を作り、溺死するものがあると笑った。桀王が殷の湯王に鳴条で敗れると、桀とともに海に流され、南巣の山で死んだという。『竹書紀年』では、桀王が岷山のふたりの娘を寵愛したため、末喜は寵愛を失って洛に追放され、伊尹と結んで夏と敵対したとする異説を載せる。

⇒歴代后妃(伝説,,殷,,,,三国,,北朝,南朝,,,五代,,,,
[殷(前1600?〜前1046?)]
有娎氏(?〜?)
  妣丙。殷の成湯(大乙)の妃。有娎氏の娘。湯王の妃となり、仲壬・外丙を生んだ。九嬪(婦官)を統領し、後宮に秩序があったという。

妣戊(?〜?)
  殷の武丁(高宗)の后。安陽殷墟出土の青銅器である司母戊方鼎に見える母戊も彼女であるという。

婦好(?〜?)
  殷の武丁(高宗)の諸婦のひとり。軍を率いて土方・巴方などを討ったほか、王命を受けて多くの祭祀をおこなった。武丁在位中に死んだ。婦好の墓は1976年に安陽殷墟の中で発見された。殷墟甲骨文で実在が確認された。

婦妌(?〜?)
  殷の武丁(高宗)の諸婦のひとり。祭祀に参与した。

婦婐(?〜?)
  殷の武丁(高宗)の諸婦のひとり。祭祀に参与した。

妣辛(?〜?)
  殷の庚丁(康丁)の后。武乙を産んだ。

妣戊(?〜?)
  殷の武乙の后。太丁(文丁)を産んだ。一説によると司母戊方鼎に見える母戊は彼女である。

妣癸(?〜?)
  殷の太丁(文丁)の后。帝乙を産んだ。

妲己(?〜前1046?)
  殷の紂王の妃。有蘇氏の娘。紂王に寵愛された。新淫の声・北鄙の舞・靡靡の楽を作って後宮で楽しんだ。また酒池肉林にたわむれ、長夜の飲をなした。炮烙の刑を考案し、罪人を殺して喜んだ。比干が紂王を諫めると、「聖人の胸に七つの穴があるとわたしは聞いています」と妲己はいい、比干の胸を割かせた。紂王が周の軍に牧野で敗れて廩台で自殺すると、妲己も自ら縊死した。また武王に首斬られたともいう。

⇒歴代后妃(伝説,,,周,,,三国,,北朝,南朝,,,五代,,,,
[周(前1046?〜前249)]
大姒(?〜?)
  姓は譜。周の文王(姫昌)の妃。有娎氏の娘。文王の妻となり、朝夕に勤労して、婦道につとめた。文王との間に伯邑考・武王発・周公旦ら十人の子を産み、かれらを教育した。

邑姜(?〜?)
  姓は姜。周の武王(姫発)の妃。斉太公(呂望)の娘。成王や唐叔虞(晋の祖)を産んだ。また王姜と同一人物ともいい、周公旦の東征のとき、一軍を率いたともいう。

姜后(?〜?)
  周の宣王(姫静)の妃。斉侯の娘。賢明で徳行があったという。宣王が房事を楽しみ、朝政に出なかったので、彼女は宮中の廊下で罪を請うた。王は「わたしの不徳であって、夫人の罪ではない」といって反省し、政治につとめるようになり、ついに周の中興をなさしめた。

申后(?〜?)
  周の幽王(姫涅)の后。申侯の娘。幽王の正后で、宜臼(のちの平王)を産んだ。幽王が褒姒を寵愛するようになり、廃された。

褒姒(?〜?)
  周の幽王(姫涅)の后。褒の人。神竜が吐いた口沫から産まれたという伝説をもつ女性。幽王の後宮に入って寵愛を受け、伯服を産んだ。申侯の娘に代わって王后に上った。酒宴や娯楽や喜劇を前にしても笑わなかったという。外寇があったときのための狼煙が外寇がないときにたまたま挙がって京師に諸侯が参集したが、そのとき初めて笑いを見せた。幽王は彼女の笑顔を見るため、外寇がないときにたびたび狼煙を挙げて諸侯を参集してみせたという。諸侯の信を失った西周は申侯・犬戎らのため滅ぼされた。このとき申侯の虜となったという。

(?〜?)
  周の荘王(姫佗)の妾姫。穨を産んだ。

恵后(?〜?)
  周の恵王(姫閬)の后。恵王に寵愛されて叔帯を産んだ。叔帯はのちに戎翟とはかって襄王(姫鄭)を討ち、敗れて斉に逃れた。恵后は翟を誘って周に攻め入らせ、叔帯は再起して襄王を鄭に逐った。晋の文公(重耳)が襄王を立てて温を囲むと、叔帯は殺された。

翟后(?〜?)
  周の襄王(姫鄭)の后。翟の人。襄王の寵愛を失って退けられた。翟人が来襲して、襄王を鄭に逐った。叔帯が立つと、叔帯に納れられて温にあった。
歴代后妃(秦・漢)

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