⇒歴代后妃(伝説,,,,,,三国,,北朝,南朝,,,五代,,,,
[三国時代(220-280)]
[魏(220〜265)]

武宣卞皇后(?〜230)
  曹操の卞夫人。琅邪郡開陽の人。はじめ歌妓であったが、譙にいた曹操に迎え入れられた。建安初年、丁夫人が廃されると、後妻として立てられた。曹丕(のちの文帝)・曹彰・曹植・曹熊を産み、曹操の子のうち母を失ったものを養育した。華美を好まず、行いに節度があった。建安二十四年(219)、王后に立てられた。曹操が亡くなると、王太后と号した。文帝が即位すると、皇太后となり、永寿宮と称した。明帝(曹叡)が立つと太皇太后となった。太和四年(230)、亡くなった。

文昭甄皇后(182〜221)
  魏の文帝(曹丕)の甄皇后。中山郡無極の人。甄逸の娘。はじめ袁紹の次男の袁煕にとついだ。曹操が冀州を平定すると、曹丕により鄴に迎えられ、とついだ。曹叡(のちの明帝)と東郷公主を産んだ。文帝が即位すると、郭氏・李氏・陰氏らが寵愛を受けたため、恨みごとを述べて文帝の怒りを買い、自殺させられた。

文徳郭皇后(184〜235)
  字は女王。魏の文帝(曹丕)の郭皇后。安平郡広宗の人。郭永の娘。幼くして孤児となった。曹操が魏公のとき、曹丕にとつぎ、後継者の地位を確立するのを助けた。曹丕が魏王となると、夫人となった。曹丕が帝位につくと、貴嬪となった。帝の寵愛は甄皇后から彼女にうつり、帝は甄氏に死を賜った。黄初三年(222)、皇后に立てられた。明帝(曹叡)のとき、太后となり、永安宮と称した。

明悼毛皇后(?〜237)
  魏の明帝(曹叡)の毛皇后。河内郡の人。毛嘉の娘。黄初年間、東宮の女官となった。曹叡が平原王のとき、寵愛された。明帝が即位すると、貴嬪となった。太和元年(227)、皇后に上った。明帝が郭氏を寵愛するようになると、かえりみられなくなった。景初元年(237)、死を賜った。

明元郭皇后(?〜263)
  魏の明帝(曹叡)の郭皇后。西平郡の人。郭満の娘。河西の大族の家に生まれた。黄初年間に西平郡が叛乱を起こしたため、身分を剥奪されて後宮に入れられた。明帝が即位すると、夫人となり、寵愛を受けた。毛皇后が死を賜ると、皇后に立てられた。斉王曹芳のとき、太后となり、永寧宮と称した。以後三代の皇帝はみな幼少だったため、輔政の大臣はみな太后に上奏して裁可を求めた。司馬懿が曹爽を誅殺したときや、毋丘倹・鍾会らの乱のときも、みな太后の命に仮託して実行した。

張皇后(?〜?)
  魏の斉王(曹芳)の張皇后。馮翊郡高陵の人。張緝の娘。嘉平四年(252)、皇后に立てられた。六年(254)、父の張緝と中書令李豊が夏侯玄を大将軍とする政変を計画し、これが漏れて張緝・李豊らは処刑された。まもなく皇后も廃された。

王皇后(?〜?)
  魏の斉王(曹芳)の王皇后。王夔の娘。嘉平六年(254)、張皇后が廃されると、皇后に立てられた。

卞皇后(?〜?)
  魏の高貴郷公(曹髦)の卞皇后。琅邪郡開陽の人。卞隆の娘。正元二年(255)、皇后に立てられた。

卞皇后(?〜?)
  魏の元帝(曹奐)の卞皇后。琅邪郡開陽の人。卞琳の娘。景元四年(263)、皇后に立てられた。

[呉(222〜280)]

呉夫人(?〜202)
  孫堅の呉夫人。呉郡の人。銭唐にうつり、父母を早く失って、弟の呉景と暮らした。孫堅にとつぎ、四男一女を産んだ。孫権の事業に助言をなし、裨益するところが大きかった。建安二年(202)、張昭らに後事を託して亡くなった。

謝夫人(?〜?)
  呉の大帝(孫権)の謝夫人。会稽郡山陰の人。謝煚の娘。呉夫人のとりなしで孫権に迎えられ、妃となった。のちに孫権が徐夫人を迎えると、徐夫人の下につけようとしたが、謝夫人は受け入れなかった。孫権の寵愛を失い、失意のうちに死去した。

徐夫人(?〜?)
  呉の大帝(孫権)の徐夫人。呉郡富春の人。徐琨の娘。はじめ呉郡の陸尚にとついだが、陸尚は早く亡くなった。孫権が呉郡にいたとき、とついで妃となった。孫登を母親がわりに養育した。孫権が帝位につくと、群臣は徐夫人を皇后に立てるよう請願したが、孫権は歩夫人を皇后に立てようとの心づもりだったので、認めなかった。のちに徐夫人は病のため死去した。

歩夫人(?〜?)
  呉の大帝(孫権)の歩皇后。臨淮郡淮陰の人。二人の娘(魯班、魯育)を産んだ。嫉妬心をあらわさず、宮中の女性たちの世話を何くれと焼いた。孫権が帝位につくと、彼女を皇后に立てようとしたが、群臣は徐夫人を皇后に立てるよう推したので、十数年のあいだ決着がつけられなかった。しかし宮中では歩夫人が皇后と呼ばれ、親族が上疏するときは中宮と呼ばれた。死後、皇后の位が追贈された。

王夫人(?〜?)
  大懿皇后。呉の大帝(孫権)の王夫人。琅邪郡の人。孫和を産んだ。孫和が太子に立てられると、孫権は王夫人を皇后に立てようとしたが、全公主(魯班)の讒言を信じて夫人につらくあたるようになり、失意のうちに亡くなった。

潘夫人(?〜252)
  呉の大帝(孫権)の潘皇后。会稽郡句章の人。父親が法に触れて処刑され、彼女も織室に入れられたが、孫権に見いだされて後宮に入れられた。孫亮を産んだ。太元元年(251)五月、皇后に立てられた。嫉妬心が強く、袁夫人を讒言して死に追いやった。孫権が危篤となったとき、看病疲れで寝ている皇后を宮女たちが縊り殺した。

全夫人(?〜301?)
  呉の会稽王(孫亮)の全皇后。呉郡銭唐の人。全尚の娘。従祖母にあたる全公主(魯班)に愛され、しばしば孫権に目通りした。全公主は彼女を孫亮にとつがせるように孫権に勧めた。孫亮が帝位につくと、皇后に立てられた。全尚をはじめ全氏の一族は高位に上り、外戚として威権をふるった。しかし、全懌・全端らが魏に降り、全煕が処刑されると、全氏は衰えた。孫亮が廃位され、侯官にうつされると、皇后も従った。呉が晋に滅ぼされた後、内地にうつって永寧年間に死去した。

朱夫人(?〜265)
  景皇后。呉の景帝(孫休)の朱皇后。朱拠の娘。母は朱公主(魯育)。赤烏末年、孫休にとついだ。孫休が琅邪王に封ぜられると、丹楊にうつった。孫峻が国政を専断するようになり、朱公主が孫儀の謀反に連座して処刑されると、朱夫人は孫休と別れて建業の孫峻のもとに出頭した。孫峻は夫人を孫休のもとに戻らせた。孫綝が孫亮を廃して孫休を即位させた。永安五年(262)、朱夫人は皇后に立てられた。孫休が死去すると、皇太后となった。孫晧が立つと、降格されて景皇后となり、安定宮と称された。甘露元年(265)七月、害されて亡くなった。

何姫(?〜?)
  昭献皇后。呉の末帝(孫晧)の母。孫和の何夫人。丹陽郡句陽の人。何遂の娘。孫権が見いだして後宮に入れ、孫和に賜った。孫晧を産んだ。孫和が南陽王となると、長沙にうつった。孫亮が即位し、孫峻が国政を専断すると、孫和は自殺させられた。何姫は孫晧と三人の弟を養い育てた。孫晧が即位すると、昭献皇后と尊ばれ、升平宮と称された。まもなく皇太后となった。

滕夫人(?〜?)
  呉の末帝(孫晧)の滕皇后。滕牧の娘。滕胤が誅殺されたとき、一家ともに辺郡に流された。孫休が即位すると、大赦により建業にもどった。孫晧が烏程侯のとき、滕氏は孫晧にとついだ。孫晧が即位すると、皇后に立てられた。寵愛は早く冷めたが、何姫の後ろ盾あって、廃位されなかった。天紀四年(280)、孫晧とともに洛陽にうつった。

[蜀(221〜263)]

甘皇后(188〜209)
  蜀漢の昭烈帝(劉備)の甘夫人。沛の人。劉備が小沛にいたころ、側室とした。劉備がたびたび正妻を失ったため、家の奥向きを取り仕切った。劉備に従って荊州におもむき、劉禅(のちの後主)を産んだ。劉備が当陽の長阪で曹操の追撃を受けると、甘夫人と劉禅は置き去りにされ、趙雲に護衛されて難をまぬかれた。亡くなって南郡に埋葬された。章武二年(222)、皇思夫人と諡して蜀に移葬することになったが、棺が到着しないうちに劉備は亡くなった。後主が立つと、昭烈皇后と諡された。

穆皇后(?〜245)
  蜀漢の昭烈帝(劉備)の穆皇后。陳留郡の人。幼くして孤児となり、呉懿とともに劉焉を頼って蜀に入った。劉焉の子の劉瑁にとついだが、劉瑁は早く亡くなった。劉備が益州を平定した後、孫夫人が呉に帰ったので、穆氏をめとって夫人とした。建安二十四年(219)、漢中王后となった。章武元年(221)、劉備が即位すると、皇后に立てられた。建興元年(223)、後主(劉禅)が即位すると、皇太后となり、長楽宮と称した。延煕八年(245)、亡くなった。

敬哀張皇后(?〜237)
  蜀漢の後主(劉禅)の張皇后。張飛の娘。章武元年(221)、太子妃として宮中に入った。建興元年(223)、後主が立つと、皇后に立てられた。十五年(237)、亡くなった。

張皇后(?〜?)
  蜀漢の後主(劉禅)の張皇后。張飛の娘。敬哀皇后の妹にあたる。建興十五年(237)、宮中に入って貴人となった。延煕元年(238)、皇后に立てられた。咸煕元年(264)、後主とともに洛陽に移された。

⇒歴代后妃(伝説,,,,,,三国,晋,北朝,南朝,,,五代,,,,
[西晋(265〜316)]
宣穆張皇后(189〜247)
  名は春華。司馬懿の張夫人。河内郡平皋の人。張汪の娘。母は山氏。司馬師・司馬昭・司馬幹・南陽公主を産んだ。司馬懿が曹操の招聘に応じず、仮病を使っていたのであるが、書物の虫干しをしていたところにわか雨にあって、飛び起きてこれを片付けた。それを家中の端女に見られていた。張夫人は事が漏れるのを恐れて、手ずから口封じをした。司馬懿が病にたおれて、張夫人が看病すると、司馬懿は「老いたものは憎むべきだ、どうして出てきて煩わすのだ」と暴言を吐いて追い払った。張夫人は絶食して自殺しようとし、諸子もまた絶食した。司馬懿が驚いて夫人に謝ったので、夫人は絶食するのをやめた。魏の正始八年(247)、亡くなった。晋の武帝(司馬炎)が即位すると、皇后の位が贈られた。

景懐夏侯皇后(211〜234)
  名は徽。字は媛容。司馬師の夏侯夫人。沛国譙の人。夏侯尚の娘。母は曹氏の徳陽郷主。魏の明帝のころ、司馬懿が将軍として重んじられ、司馬師・司馬昭らも雄才大略があった。夏侯夫人は司馬師らが魏の忠臣でないことを知っており、夏侯氏は魏の曹氏の縁戚であったので、司馬師は彼女を扱いかねていた。青龍二年(234)、夫人は毒殺された。晋の泰始二年(266)、諡を追贈された。

景献羊皇后(214〜278)
  名は徽瑜。司馬師の羊夫人。泰山郡南城の人。羊衜の娘。母は蔡氏。司馬師は、夏侯夫人が亡くなると、呉質の娘をめとったが、まもなく追い出し、羊夫人をめとった。子がないまま、司馬師は亡くなった。晋の武帝(司馬炎)が即位すると、羊夫人は弘訓宮に住み、弘訓太后と号した。咸寧四年(278)、崩じた。

文明王皇后(217〜268)
  名は元姫。司馬昭の王夫人。東海郡郯県の人。王粛の娘。幼くして詩や論語を誦し、病の母を助け、祖父の王朗に愛された。成人すると、司馬昭にとついだ。司馬炎(のちの武帝)・遼東王司馬定国・斉王司馬攸・城陽王司馬兆・広漢王司馬広徳・京兆公主らを産んだ。鍾会が乱を起こすことを予見して大任を与えないよう助言した。武帝が即位すると、皇太后となり、崇化宮と称された。尊位にあっても紡ぎ織りや洗濯などの仕事を忘れなかった。泰始四年(268)、崩じた。

武元楊皇后(238〜274)
  名は艶。字は瓊芝。西晋の武帝(司馬炎)の楊皇后。弘農郡華陰の人。楊文宗の娘。母は趙氏。司馬炎の妃となり、寵遇を受け、毗陵王司馬軌・司馬衷(のちの恵帝)・秦王司馬柬・平陽公主・新豊公主・陽平公主を産んだ。武帝が即位すると、皇后に立てられた。武帝は太子司馬衷が帝位に耐えないと思い、廃位のことを思い悩んでいたが、皇后は嫡長が立つべきことを勧め、太子は廃されなかった。また賈充の妻の郭氏から賄賂を受けて、賈南鳳を太子妃とするよう帝に勧めた。臨終の床にあって従妹の楊芷を皇后に立てるよう懇願した。

武悼楊皇后(258〜291)
  名は芷。字は季蘭。西晋の武帝(司馬炎)の楊皇后。楊駿の娘。武元皇后(楊艶)の従妹にあたる。渤海王司馬恢を産んだ。武元皇后が亡くなると、皇后に立てられた。武帝は太子妃賈氏(賈南鳳)が不器量なため廃そうと考えていたが、皇后は力を尽くして諫めはばんだ。賈妃はそのことを知らず、皇后を恨んでいた。武帝が崩ずると、皇太后となった。賈皇后が楊駿を殺すと、彼女は金墉に幽閉され、絶食して自殺した。

胡貴嬪(?〜?)
  名は芳。安定郡臨の人。胡奮の娘。泰始九年(273)、選ばれて後宮に入った。貴嬪に上った。武帝に問われるたびに、言辞を飾らずに率直に答えた。後宮一万人の女性の中で最も寵愛を受けた。武安公主を産んだ。武帝と樗蒲を遊んでいたとき、矢を争ってはずみで武帝の指を傷つけてしまった。武帝は怒って「やはり将種だな」というと、貴嬪は「北に公孫を討ち、西に諸葛を防いだのが、将種でなくて何でしょうか」と言い返したので、武帝は恥じいったという。

左貴嬪(?〜300)
  名は芬。字は蘭芝。斉国臨淄の人。左思の妹にあたる。泰始八年(272)、選ばれて後宮に入り、修儀となった。のちに貴嬪に進んだ。生まれつき体が弱く、療養のため薄室で暮らした。容姿が醜く、寵愛を受けなかったが、文才にすぐれていた。詔を受けて「離思賦」を作り、楊皇后や万年公主のために賦・頌を作った。

恵賈皇后(256〜300)
  名は南鳳。西晋の恵帝(司馬衷)の賈皇后。平陽郡襄陵の人。賈充の娘。泰始八年(272)、太子司馬衷の妃として宮中に入った。きわめて嫉妬深く、数人の人を殺したため、武帝は彼女を廃そうとしたが、荀勗や楊皇后らのとりなしがあって赦免された。永煕元年(290)、恵帝が即位すると皇后に立てられた。楊駿が専権をふるうと、李肇らと密謀をめぐらして、楚王司馬瑋に詔を下して楊駿を殺させた。汝南王司馬亮が政権を握ると、帝の詔をもって呼び出し、司馬瑋に亮を殺させた。返す刀で楚王司馬瑋も謀反の罪で殺させた(八王の乱の開始)。十年にわたって政権を握り、親近のものを顕位に登用し、生活は淫蕩をきわめたという。また妊娠したと偽って妹の子を自分の産んだ子とし、太子を変えようとした。趙王司馬倫が乱を起こしたとき、毒殺された。

恵羊皇后(?〜?)
  名は献容。西晋の恵帝(司馬衷)の羊皇后。泰山郡南城の人。羊玄之の娘。賈皇后が廃されると、孫秀の発議により、太安元年(302)に皇后に立てられた。成都王司馬穎が長沙王司馬乂を破ると、羊皇后は廃されて庶民に落とされた。陳眕が成都王司馬穎を討つと、皇后位に復した。張方が入洛すると、廃された。張方が恵帝を長安に連行すると、皇后はまた復位した。永興初年、張方がまた皇后を廃した。河間王司馬顒が詔を偽って羊氏に死を賜ろうとしたが、劉暾らに庇護された。恵帝が洛陽に帰ると、羊皇后は復位した。何喬によって廃され、また張方によって復位した。恵帝が崩じたが、皇太后を称せず、懐帝が即位すると恵帝皇后となり、弘訓宮を称した。洛陽が陥落すると、劉曜の手に落ちた。劉曜が皇帝を称すると、皇后となり、二子を産んだ。漢により献文皇后の諡が贈られた。

懐王皇太后(?〜?)
  名は媛姫。西晋の武帝(司馬炎)の王夫人。武帝の後宮に入り才人となった。司馬熾(のちの懐帝)を産んだ。懐帝が即位すると、皇太后と追尊された。

[東晋(317〜420)]

元夏侯太妃(?〜307)
  名は光姫。東晋の元帝(司馬睿)の母。沛国譙の人。夏侯荘の娘。司馬覲にとつぎ、元帝を産んだ。元帝が琅邪王位を継ぐと、王太妃を称した。永嘉元年(307)、江左で亡くなった。

元敬虞皇后(278〜312)
  名は孟母。東晋の元帝(司馬睿)の虞皇后。済陽郡外黄の人。虞予の娘。元帝が琅邪王のとき、とついで妃となった。永嘉六年(312)、亡くなった。太興三年(320)、皇后に追尊された。

豫章君(?〜335)
  荀氏。東晋の元帝(司馬睿)の宮人。司馬紹(のちの明帝)と司馬裒を産み、正妻の虞氏に憎まれた。明帝が即位すると、建安君に封ぜられた。成帝が立つと、皇太后と同等に尊重された。咸康元年(335)、亡くなった。

明穆庾皇后(297〜328)
  名は文君。東晋の明帝(司馬紹)の庾皇后。潁川郡鄢陵の人。庾琛の娘。性格はやさしく慈しみ深く、立ち居振る舞いが美しかったという。元帝がこれを聞いて太子妃として迎えさせた。明帝が即位すると、皇后に立てられた。成帝が立つと、皇太后となった。成帝が幼かったので、後漢の和熹ケ皇后の故事にならうよう群臣に請われ、四たび断ったが、やむをえず臨朝聴政にあたった。太后の父母に対して位を追贈するよう役人に請われたが、許さなかった。蘇峻が乱を起こし、建康が陥落すると、太后は恥辱にみまわれ、まもなく亡くなった。

成恭杜皇后(321〜341)
  名は陵陽。東晋の成帝(司馬衍)の杜皇后。京兆郡杜陵の人。杜乂の娘。杜預の曾孫にあたる。咸康二年(336)、皇后に立てられた。皇后は成長しても歯がなかったが、成帝が納采をおこなうと、一夜にして歯が生えそろったと伝えられる。

章太妃周氏(?〜363)
  東晋の成帝(司馬衍)の周夫人。司馬丕(のちの哀帝)と司馬奕(のちの海西公)を産んだ。貴人となった。哀帝が立つと、夫人の位号について議論となったが、皇太妃となり、皇太后と同等の礼がとられた。

康献褚皇后(324〜384)
  名は蒜子。東晋の康帝(司馬岳)の褚皇后。河南郡陽翟の人。褚裒の娘。若くして名家の娘として宮中に入り、琅邪王妃となった。康帝が即位すると、皇后に立てられた。穆帝(司馬タン)が立つと、皇太后となった。穆帝が幼かったので、司徒蔡謨らに請われて、臨朝称制にあたった。穆帝が成人すると、政権を返し、崇徳宮に住んだ。哀帝(司馬丕)と廃帝(司馬奕)の代にも、また臨朝称制した。桓温が司馬奕を廃位したとき、詔を出して追認した。簡文帝(司馬c)が即位すると、崇徳太后と尊称された。孝武帝(司馬曜)が立つと、また臨朝称制した。

穆章何皇后(339〜404)
  名は法倪。東晋の穆帝(司馬タン)の何皇后。廬江郡灊県の人。何準の娘。皇后に立てられた。哀帝(司馬丕)が即位すると、穆皇后と称し、永安宮に住んだ。桓玄が帝を称すると、司徒府にうつされた。移送途中、太廟の前で輿を止めて慟哭したため、桓玄の怒りを買って、零陵県君に落とされた。安帝(司馬徳宗)とともに西に向かい、巴陵にいたった。劉裕が桓玄を討ち、殷仲文が太后を迎えて建康に帰還した。

哀靖王皇后(?〜364)
  名は穆之。東晋の哀帝(司馬丕)の王皇后。太原郡晋陽の人。王濛の娘。司馬丕にとついで、琅邪王妃となった。哀帝が即位すると、皇后に立てられた。子がないまま、興寧二年(364)に崩じた。

孝庾皇后(?〜371)
  名は道憐。東晋の廃帝(司馬奕)の庾皇后。潁川郡鄢陵の人。庾冰の娘。東海王妃となり、帝が即位すると、皇后に立てられた。太和六年(371)、崩じた。帝が廃されて海西公となると、海西公夫人に貶諡された。

簡文宣鄭太后(?〜326)
  名は阿春。東晋の元帝(司馬睿)の鄭夫人。河南郡滎陽の人。鄭トの娘。四人姉妹の長女で、幼くして孤児となった。渤海の田氏にとつぎ、一子を産んだ。寡婦となり、舅にあたる濮陽の呉氏を頼った。建武元年(317)、司馬睿にとつぎ、琅邪王夫人となった。司馬煥・司馬c(のちの簡文帝)・尋陽公主を産んだ。元帝が崩ずると、建平国夫人を称した。咸和元年(326)、薨去した。太元十九年(394)、簡文太后と追尊された。

簡文順王皇后(?〜348)
  名は簡姫。東晋の簡文帝(司馬c)の王皇后。太原郡晋陽の人。王遐の娘。会稽王妃となり、司馬道生・司馬兪生を産んだ。永和四年(348)、母子ともに廃されて幽閉され、まもなく憂死した。

孝武文李太后(?〜400)
  名は陵容。東晋の簡文帝(司馬c)の李夫人。簡文帝にとつぎ、宮人となった。司馬曜(のちの孝武帝)・司馬道子・鄱陽公主を産んだ。孝武帝が即位すると、淑妃となった。太元三年(378)に貴人となり、九年(384)に夫人となった。十二年(387)、皇太妃となった。十九年(394)、皇太后に上り、崇訓宮と称された。安帝(司馬徳宗)が即位すると、太皇太后となった。

孝武定王皇后(360〜380)
  名は法慧。東晋の孝武帝(司馬曜)の王皇后。太原郡晋陽の人。哀靖皇后の姪にあたる。王蘊の娘。寧康三年(375)、桓沖らの上奏を受けて後宮に迎えられ、皇后に立てられた。太元五年(380)、二十一歳の若さで崩じた。

安徳陳太后(?〜390)
  名は帰女。松滋郡潯陽の人。陳広の娘。容貌美しく、歌唱弾曲をよくして、孝武帝(司馬曜)に見いだされ後宮に入った。淑媛となり、安帝(司馬徳宗)・恭帝(司馬徳文)を産んだ。太元十五年(390)、薨じた。夫人の位を贈られた。安帝が立つと、皇太后に追尊された。

安僖王皇后(384〜412)
  名は神愛。東晋の安帝(司馬徳宗)の王皇后。琅邪郡臨沂の人。王献之の娘。 太元二十一年(396)、太子妃となった。安帝が即位すると、皇后に立てられた。義煕八年(412)、崩じた。

恭思褚皇后(384〜436)
  名は霊媛。東晋の恭帝(司馬徳文)の褚皇后。河南郡陽翟の人。褚爽の娘。琅邪王妃となった。元煕元年(419)、皇后に立てられ、司馬海塩・富陽公主を産んだ。宋が立てられると、零陵王妃に降された。元嘉十三年(436)、崩じた。
歴代后妃(北朝)

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