⇒歴代后妃(伝説,,,,,,三国,,北朝,南朝,,,五代,,,,
[遼(916〜1125)]

宣簡蕭皇后(?〜933)
  小字は巌母斤。太祖(耶律阿保機)の母。剔剌の娘。耶律撒剌的(徳祖)にとつぎ、六男六女を産んだ。

淳欽述律皇后(879〜953)
  名は平。小字は月理朶。遼の太祖(耶律阿保機)の述律皇后。契丹右大部の出身。太祖が帝位につくと、皇后に立てられた。太祖が党項を討ったとき、黄頭・臭泊の二室韋が来攻したのを撃退し、留守を守った。また韓延徽を用いるように勧め、太祖の謀主となした。ほか幽州・渤海を平定するのに謀を献じた。太祖が崩ずると、右腕を切って棺におさめた。次男の耶律徳光(太宗)を帝に擁立し、長男の耶律倍を放逐した。三男の耶律洪古を愛し、皇太子に立てさせた。太宗が崩じ、世宗(耶律阮)が鎮陽で立ち、耶律洪古を破ると、自ら出陣して世宗の軍と潢河をはさんで対峙した。世宗の派遣した耶律屋質の諫めを容れて撤兵した。のち祖州に身柄を移された。

靖安蕭皇后(?〜935)
  小字は温。遼の太宗(耶律徳光)の蕭皇后。室魯の娘。淳欽皇后の姪にあたる。太宗が大元帥となると、彼女を妃として納れた。耶律m(のちの穆宗)を産んだ。太宗が即位すると、皇后に立てられた。軍旅や田猟にも必ず伴われたという。

懐節蕭皇后(?〜951)
  小字は撒葛只。遼の世宗(耶律阮)の蕭皇后。阿古只の娘。淳欽皇后の姪にあたる。世宗が永康王となると、彼女を妃として納れた。耶律賢(のちの景宗)を産んだ。天禄末年、皇后に立てられた。翌年、萌古公主を産んだ。察割が乱を起こし、世宗が害されると、自ら察割のもとを訪れ、翌日害された。

甄皇后(?〜951)
  遼の世宗(耶律阮)の甄皇后。はじめ後唐の宮人だった。太宗(耶律徳光)の南征のとき、耶律阮(のちの世宗)に見初められてとついだ。寵愛を受け、寧王耶律只没を産んだ。世宗が即位すると、皇后に立てられた。察割が乱を起こすと、殺害された。

蕭皇后(?〜?)
  遼の穆宗(耶律m)の蕭皇后。蕭知璠の娘。穆宗が寿安王のとき、妃として納れられた。

睿智蕭皇后(?〜1009)
  名は綽。小字は燕燕。遼の景宗(耶律賢)の蕭皇后。蕭思温の娘。景宗が即位すると、貴妃に選ばれた。まもなく皇后に上り、耶律隆緒(のちの聖宗)を産んだ。景宗が崩ずると、皇太后となり、垂簾聴政にあたった。耶律斜軫・韓徳譲を信任して国政を決裁し、耶律休哥に南の辺事を委ねた。聖宗のときに遼が強盛となったのも、太后の導きによるところが大きかった。

仁徳蕭皇后(975〜1032)
  小字は菩薩哥。遼の聖宗(耶律隆緒)の蕭皇后。蕭隗因の娘。統和四年(986)九月、後宮に入り、皇后となった。十九年(1001)三月、罪をえて貴妃に降格された。五月、斉天皇后に冊さられた。二子を産んだが早く亡くなった。宮人耨斤の産んだ夷不菫(のちの興宗)を引き取って育てた。太平十一年(1031)六月、聖宗が崩じ、興宗が立った。耨斤が皇太后として立ち、斉天后と蕭匹敵が謀反をはかったと誣告した。蕭匹敵は処刑され、斉天后は中京から上京にうつされて幽閉された。翌年、耨斤が放った刺客により殺された。

欽哀蕭皇后(?〜?)
  小字は耨斤。遼の聖宗(耶律隆緒)の蕭夫人。黒ずんだ顔に鋭い目つきだったという。後宮に入り、聖宗の寵愛を受けて、耶律宗真(のちの興宗)を産んだ。聖宗(耶律隆緒)が崩ずると、仁徳皇后や蕭浞卜・蕭匹敵らが乱を謀ったと誣告して、殺させた。自ら皇太后として立ち、垂簾聴政した。重煕三年(1034)、諸弟を集めて密議し、耶律重元を立てようと図った。耶律重元が興宗に上奏したため、皇太后は捕らえられ、慶州七括宮に幽閉された。六年(1037)、興宗に幽閉を解かれ、迎えられた。清寧初年、太皇太后となった。

仁懿蕭皇后(?〜1076)
  小字は撻里。遼の興宗(耶律宗真)の蕭皇后。蕭孝穆の長女。興宗が即位すると、後宮に入り、耶律洪基(のちの道宗)を産んだ。重煕四年(1035)、皇后に立てられた。道宗が即位すると、皇太后となった。清寧九年(1063)、耶律重元・耶律涅魯古父子が乱を起こすと、自ら衛士を率いて叛乱軍を破った。太康二年(1076)、崩じた。

蕭貴妃(?〜?)
  遼の興宗(耶律宗真)の蕭貴妃。蕭匹里の娘。選ばれて東宮に入った。興宗が即位すると、皇后に立てられた。重煕初年、罪をえて貴妃に降格された。

宣懿蕭皇后(1036〜1075)
  小字は観音。遼の道宗(耶律洪基)の蕭皇后。蕭恵の娘。容姿が抜きんでて美しく、詩にたくみで、談論をよくした。歌詞を自作し、琵琶を最も得意とした。重煕年間、道宗が燕趙王のとき、妃となった。清寧初年、懿徳皇后となった。耶律濬(順宗)を産んだ。音楽を好み、伶官の趙惟一を寵愛してはべらせたが、私通の疑いをかけられて趙惟一は誅され、皇后は自殺させられた。

蕭恵妃(?〜?)
  小字は坦思。遼の道宗(耶律洪基)の蕭恵妃。大康二年(1076)、選ばれて後宮に入り、皇后に立てられた。八年(1082)、恵妃に降格され、乾陵にうつされた。母の燕国夫人が梁王耶律延禧(のちの天祚帝)を呪って処刑され、恵妃も連座して庶民に落とされ、宜州に幽閉された。天慶六年(1116)、都に呼びもどされ、太皇太妃に立てられた。のち黒頂山に逃れ、亡くなった。

蕭皇后(?〜?)
  小字は奪里懶。遼の天祚帝(耶律延禧)の蕭皇后。大安三年、後宮に入った。翌年、燕国王妃に封ぜられた。乾統初年、皇后に立てられた。金の侵攻で天祚帝が西に逃れると、皇后は病のため崩じた。

蕭徳妃(?〜?)
  小字は師姑。遼の天祚帝(耶律延禧)の蕭徳妃。蕭常哥の娘。寿隆二年(1096)、後宮に入った。燕国妃に封ぜられた。耶律撻魯を産んだ。乾統三年(1103)、徳妃に立てられた。耶律撻魯が燕国王に封ぜられると、徳妃は賛翼の号を加えられた。耶律撻魯が薨ずると、悲しみにくれて亡くなった。

蕭文妃(?〜1121)
  小字は瑟瑟。遼の天祚帝(耶律延禧)の蕭文妃。耶律撻葛の邸で天祚帝に見いだされた。乾統三年(1103)、文妃に立てられた。蜀国公主や晋王傲盧斡を産んだ。承翼の号を加えられた。歌をよくし、金の侵攻に迫られて天祚帝が忠臣をしりぞけるようになると、文妃は歌を作って帝を諫めた。のちに蕭奉先が晋王傲盧斡の人望の高さを忌み、余覩による晋王擁立の陰謀ありと誣告すると、文妃も連座して死を賜った。

蕭元妃(?〜?)
  小字は貴哥。遼の天祚帝(耶律延禧)の蕭元妃。蕭常哥の娘。徳妃の妹にあたる。秦王・許王を産んだ。あるとき元妃が昼寝をしていて、近侍が貂のころもを盗んだところを目覚めたが、元妃はもの言わず、後宮はその寛容を噂しあったという。金の侵攻で天祚帝が西に逃れると、病のため亡くなった。

[金(1115〜1234)]

翼簡皇后(?〜1093)
  拏懶氏。金の太祖(完顔阿骨打)の母。完顔劾里缽にとついだ。完顔烏雅束・完顔阿骨打・完顔斡帯・完顔呉乞買(のちの太宗)・完顔斜也を産んだ。

聖穆皇后(?〜?)
  金の太祖(完顔阿骨打)の唐括夫人。唐括留速の娘。完顔烏烈・完顔宗傑を産んだ。

欽憲皇后(?〜1136)
  金の太祖(完顔阿骨打)の紇石烈夫人。完顔宗望・完顔宗雋・完顔訛魯を産んだ。天会十三年(1135)、熙宗が即位すると、太皇太后に上り、慶元宮と称した。

欽仁皇后(?〜1143)
  金の太宗(完顔呉乞買)の唐括夫人。唐括阿魯束の娘。天会十三年(1135)、熙宗が即位すると、太皇太后に上り、明徳宮と称した。

悼平皇后(?〜1149)
  金の熙宗(完顔合剌)の裴満皇后。婆盧木部の人。裴満忽達の娘。熙宗が即位すると、貴妃となった。天眷元年(1138)、皇后に立てられた。完顔済安を産み、皇太子としたが、一年に満たず亡くなった。完顔宗翰の死後、政治に干渉することが多く、宰相の人事も左右し、熙宗を掣肘した。近侍の高寿星が熙宗の命により燕南にうつされそうになったので、皇后に訴えた。皇后は怒りにまかせて左司郎中三合を殺し、平章政事秉徳を鞭打って、高寿星の異動を阻止した。熙宗は怒って皇后を殺した。

徒単皇后(1120〜1170)
  金の海陵王(完顔迪古乃)の徒単皇后。徒単斜也の娘。完顔迪古乃にとつぎ、完顔光英を産んだ。はじめ岐国妃となり、天徳二年(1150)に恵妃に封ぜられた。九月、皇后に立てられた。海陵王は好色淫奔で、皇后をかえりみなかった。海陵王が南征すると、太子の完顔光英とともに留守を守った。海陵王が殺されると、皇后は中都にうつって、海陵王の母大氏の故宮に住んだ。世宗(完顔烏禄)が彼女をあわれんで、上京の父母のもとに帰し、歳幣二千貫を与えて養わせた。

貞懿李皇后(?〜1161)
  金の世宗(完顔烏禄)の母李氏。遼陽の人。雛訛只の娘。天輔年間、太祖(完顔阿骨打)の子の完顔宗輔(肅宗)にとついだ。七年(1123)、完顔烏禄を産んだ。天会十三年(1135)、夫の完顔宗輔が亡くなると、出家して通慧円明大師と号し、紫衣を賜って遼陽に帰った。清安禅寺を建て、別に尼院を営んで住んだ。正隆六年(1161)五月、寂した。

昭徳皇后(?〜1151)
  金の世宗(完顔烏禄)の烏林荅夫人。海羅伊河の人。石土黒の娘。完顔烏禄にとつぎ、舅や姑につつしんで孝事した。完顔允恭(顕宗)・完顔孰輦・完顔斜魯を産んだ。完顔烏禄が済南にいたとき、海陵王(完顔迪古乃)が烏林荅夫人を中都に召し出そうとした。夫人は海陵王に会うことを望まず、かつ夫に累を及ぼすのを避けるため、済南を出て良郷にいたったところで自殺した。大定二年(1162)、昭徳皇后と追冊された。

孝懿皇后(1147〜1191)
  徒単氏。金の章宗(完顔麻達葛)の母。徒単貞の娘。完顔允恭(顕宗)にとついだ。大定四年(1164)、皇太子妃となった。完顔麻達葛を産んだ。

欽懐皇后(?〜?)
  金の章宗(完顔麻達葛)の蒲察夫人。上京曷速河の人。蒲察鼎寿の娘。大定二十三年(1183)、金源郡王夫人に封ぜられた。二十六年(1186)、完顔洪裕を産んだ。妃に封ぜられ、亡くなった。章宗が即位すると、皇后に追冊された。

李元妃(?〜1209)
  名は師兒。金の章宗(完顔麻達葛)の李夫人。李湘の娘。大定末年、宮中に入り、諸宮女とともに学問を受けた。明昌四年、昭容に封ぜられた。翌年、淑妃に進んだ。

徒単皇后(?〜?)
  金の衛紹王(完顔永済)の徒単皇后。大安元年(1209)、皇后に立てられた。衛紹王が廃殺されると、皇后号を削られた。貞祐二年(1214)、衛紹王の家人とともに鄭州に禁固とされた。天興元年(1232)に禁固を解かれたが、金朝が河南を失陥すると、徒単后と子孫の行方は知れなくなった。

王皇后(?〜?)
  金の宣宗(完顔吾睹補)の王皇后。中都の人。王彦昌の娘。明恵皇后の妹にあたる。貞祐元年(1213)九月、元妃に封ぜられた。二年(1214)七月、温敦氏の姓を賜り、皇后に立てられた。哀宗が即位すると、皇太后となり、仁聖宮と称した。天興元年(1232)冬、哀宗が帰徳にうつると、翌年正月に徒単四喜らを汴京につかわして皇太后らを迎えさせようとした。皇太后らは陳留までやってきたが、不審火が起こり、伏兵を恐れて進まず、再び汴京に帰った。まもなく汴京がモンゴル軍の攻撃により陥落し、皇太后の身柄は北にうつされたが、以後の消息は知られていない。

明恵皇后(?〜1231)
  金の宣宗(完顔吾睹補)の王夫人。中都の人。王皇后の姉にあたる。完顔寧甲速(のちの哀宗)を産んだ。宣宗が即位すると、淑妃に封ぜられた。妹が皇后に上ると、元妃に進んだ。哀宗が即位すると、皇太后に上り、慈聖宮と称した。

徒単皇后(?〜?)
  金の哀宗(完顔寧甲速)の徒単皇后。徒単頑僧の娘。正大元年(1224)、皇后に立てられた。天興元年(1232)冬、哀宗が帰徳にうつると、翌年正月に后弟の徒単四喜らを汴京につかわして皇后を迎えさせようとした。皇后らは陳留までやってきたが進まず、再び汴京に帰った。まもなく汴京がモンゴル軍の攻撃により陥落し、皇后の身柄は北にうつされたが、以後の消息は知られていない。

⇒歴代后妃(
伝説,,,,,,三国,,北朝,南朝,,,五代,,元,,
[元(1271〜1368)]
ボルテ・フジン(?〜?)
  孛兒台旭真。コンギラト(弘吉剌)氏。太祖(チンギス)の光献翼聖皇后。デイ・セチェン(特薛禅)の娘。テムジン(チンギスの幼名)が父に連れられてコンギラト氏を訪れたとき、デイ・セチェンは「目に光あり、面に光ある子なり」といってボルテをテムジンにとつがせた。メルキド部に捕らわれたが、トオリルとジャムカの援軍を得たテムジンに救い出された。のちにジュチ・チャガタイ・オゴタイ・トゥルイの四子を産んだ。チンギス・ハーンには四十人あまりの妻がいたが、これを四つのオルドに分けた。彼女は正妻として大オルドをつかさどった。
ドレゲネ(?〜1246)
  脱列哥那。ナイマン(乃馬真)氏。太宗(オゴタイ)の昭慈皇后。チンギス・ハーンがメルキド部を滅ぼしたとき、捕らえられてオゴタイの妻とされた。五子を産んだ。1241年、オゴタイが崩ずると、国事を預かった。1246年、クリルタイを開催し、グユクを大ハーンに擁立した。まもなく亡くなった。
オグル・ガイミシュ(?〜1252)
  斡兀立海迷失。定宗(グユク)の欽淑皇后。オイラート部長クトゥファ(忽都花)の娘。1248年、定宗グユクが崩ずると、国事を預かった。オゴタイの孫のシレムンを大ハーン位に立てようと謀ったが、バトゥとトゥルイ諸子の反対を受けて断念した。1251年、バトゥがクリルタイを招集してモンケをハーンに立てたが、彼女とオゴタイ諸子は参加しなかった。兵変を謀ったとされ、1252年に処刑された。
クトゥダイ(?〜?)
  忽都台。コンギラト(弘吉剌)氏。憲宗(モンケ)の貞節皇后。忙哥陳の娘。モンケの皇后となった。二子を産んだ。
チャピ(1215?〜1281)
  察必。コンギラト(弘吉剌)氏。世祖(フビライ)の昭睿順聖皇后。按陳の娘。1259年、フビライが南下して宋を攻めると、留守を守った。憲宗モンケが崩じ、アリクブカがハーン位を狙うと、フビライに使者を送って急報を伝えた。中統元年(1260)、フビライが即位すると、正后に立てられ、大オルドをつかさどった。ドルジ・チンキム・マンガラ・ノムガンを産んだ。至元十三年(1276)、元軍が南宋の臨安を陥したとき、フビライは群臣と祝宴を催して喜んでいたが、皇后は冷ややかであった。フビライが「なぜ喜ばないのか」と問うと、「いにしえより千歳を保つ国はないといいます。私たちの子孫が同じ運命に遭わないように祈りたいものです」と答えた。のち病没した。
ナンピ(?〜?)
  南必。コンギラト(弘吉剌)氏。世祖(フビライ)の皇后。仙童の娘。至元二十年(1283)、皇后に上った。察必皇后を継いで大オルドを守った。フビライが高齢のため政務が見られなくなると、代わりに朝政を聴いた。鉄蔑赤を産んだ。
シリンダリ(?〜?)
  失憐答里。コンギラト(弘吉剌)氏。成宗(テムル)の貞慈静懿皇后。斡羅陳の娘。大徳三年(1299)、皇后に立てられた。ティシュを産んだ。
ブルガン(?〜?)
  卜魯罕。バヤウト(伯岳吾)氏。成宗(テムル)の皇后。脱里思の娘。元貞初年、皇后に立てられた。成宗が病弱なため、よく政務をみた。大徳九年(1305)、ダルマバラの妻ダギとその子アユルバルワダ(のちの仁宗)を懐州に流した。翌年、成宗が崩ずると、メリク・テムルや左丞相アクタイらとともに安西王アーナンダを帝位に擁立しようとした。右丞相ハラハスンがアユルバルワダを京師に迎え、アーナンダらを誅した。皇后は東安州に蟄居させられ、のち殺された。
チェンガ(?〜1327)
  真哥。コンギラト(弘吉剌)氏。武宗(カイシャン)の宣慈恵聖皇后。進不剌の娘。至大三年(1310)、皇后に立てられた。皇慶二年(1313)、長秋寺を立て、皇后宮の事務をつかさどらせた。
スガシリ(?〜?)
  速哥失里。コンギラト(弘吉剌)氏。武宗(カイシャン)の皇后。ハルジ(哈兒只)の娘。真哥皇后の従妹にあたる。
イキレス氏(?〜?)
  亦乞烈氏。名は不詳。武宗(カイシャン)の妃。奴兀倫公主の娘。コシラ(のちの明宗)を産んだ。
タングート氏(?〜?)
  唐兀氏。名は不詳。武宗(カイシャン)の妃。トク・テムル(のちの文宗)を産んだ。天暦二年(1329)、仁献章聖皇后と追尊された。
アナシシリ(?〜1322)
  阿納失失里。コンギラト(弘吉剌)氏。仁宗(アユルバルワダ)の荘懿慈聖皇后。シディバラ(のちの英宗)を産んだ。皇慶二年(1313)、皇后に立てられた。英宗が即位すると、皇太后となった。
スガバラ(?〜1327)
  速哥八剌。イキレス(亦乞烈)氏。英宗(シディバラ)の荘静懿聖皇后。昌国公主益里海涯の娘。至治元年(1321)、皇后に立てられた。
バブカン(?〜?)
  八不罕。コンギラト(弘吉剌)氏。泰定帝(イスン・テムル)の皇后。斡留察兒の娘。アリギバ(のちの天順帝)を産んだ。泰定元年(1324)、皇后に立てられた。
ピカン(?〜?)
  必罕。コンギラト(弘吉剌)氏。泰定帝(イスン・テムル)の妃。買住罕の娘。文宗の天暦初年、東安州にうつされた。
スガダリ(?〜?)
  速哥答里。コンギラト(弘吉剌)氏。泰定帝(イスン・テムル)の妃。買住罕の娘。文宗の天暦初年、東安州にうつされた。
マイライディ(?〜1320)
  邁来迪。ハラル(哈剌魯)氏。明宗(コシラ)の貞裕徽聖皇后。コシラがアルタイ西麓に逃れたとき、妃として納れられた。延祐七年(1320)、トゴン・テムル(のちの順帝)を産んだ。
バブサ(?〜1330)
  八不沙。ナイマン(乃蛮)氏。明宗(コシラ)の皇后。寿寧公主の娘。イリンジバル(のちの寧宗)を産んだ。天暦二年(1329)、寧徽寺を立て、皇后宮の事務をつかさどらせた。至順元年(1330)、ブッダシリ(卜答失里)に害されて死んだ。
ブッダシリ(?〜1340)
  卜答失里。コンギラト(弘吉剌)氏。文宗(トク・テムル)の皇后。琱阿不剌の娘。天暦元年(1328)、文宗が即位すると、皇后に立てられた。翌年、大承天護聖寺を建てさせた。至順元年(1330)、宦官バイジュ(拝住)と謀議して明宗后バブサ(八不沙)を害した。三年(1332)、文宗が崩ずると、イリンジバル(寧宗)を擁立した。順帝(トゴン・テムル)が立つと、太皇太后となり、臨朝称制した。至元六年(1340)、明宗(コシラ)が害された事件が究明され、尊号を削られて、東安州に蟄居させられた。まもなく亡くなった。
ダリエテミシ(?〜1368)
  答里也忒迷失。コンギラト(弘吉剌)氏。寧宗(イリンジバル)の皇后。至順三年(1332)、皇后に立てられた。
ダナシリ(?〜1335)
  答納失里。バヤウト(伯牙吾)氏。順帝(トゴン・テムル)の皇后。エル・テムルの娘。至順四年(1333)八月、皇后に立てられた。至元元年(1335)六月、兄タンキシュの謀反のため幽閉され、翌月に開平で毒殺された。
バヤンクトゥ(1324〜1365)
  伯顏忽都。コンギラト(弘吉剌)氏。順帝(トゴン・テムル)の皇后。ボロテムルの娘。至元三年(1337)、皇后に立てられた。チンキムを産んだ。
ワンゼクトゥ(?〜?)
  完者忽都。奇氏。順帝(トゴン・テムル)の皇后。高麗の人。奇子敖の娘。順帝の第二皇后となり、皇太子アユシリダラを産んだ。至正十九年(1359)、皇太子に帝位を継がせようと画策したが成らなかった。二十五年(1365)、ボロテムルに捕らえられて諸色総管府に幽閉されたが、百日後に解放された。ボロテムルが死ぬと、ココテムルに皇太子を擁して入城させ、順帝に譲位を迫らせようと謀ったが、またも成らなかった。十二月、皇后に立てられた。二十八年(1368)、明軍が大都に迫ると、順帝とともに北に逃れた。
歴代后妃(明)

人物事典トップへもどる