⇒歴代后妃(伝説,,,,,,三国,,北朝,南朝,,,五代,,,,清)
[清(1636〜1912)]

宣皇后(?〜1569)
  喜塔臘氏。清の太祖ヌルハチの母。阿古の娘。タクシ(塔克世)にとつぎ、ヌルハチ(努児哈赤)・シュルガチ(舒爾哈斉)・ヤルガチ(雅爾哈斉)の三男とアジガの一女を産んだ。

孝慈高皇后(1575〜1603)
  名は孟古姐姐。納喇氏。清の太祖ヌルハチの夫人。イェヘ部の出身。楊吉砮の娘。十四歳のとき、ヌルハチにとついだ。ホンタイジを産んだ。

元妃(?〜?)
  佟佳氏。清の太祖ヌルハチの夫人。チュエン(褚英)・ダイシャン(代善)を産んだ。

継妃(?〜1620)
  富察氏。清の太祖ヌルハチの夫人。マングルタイ(莽古爾泰)・徳格類・莽古済を産んだ。天命五年(1620)、罪をえて処刑された。

大妃(1590〜1626)
  名は阿巴亥。納喇氏。清の太祖ヌルハチの夫人。ウラ部の出身。満泰の娘。万暦二十九年(1601)、ヌルハチにとつぎ、側福晋となった。アジゲ(阿済格)・ドルゴン(多爾袞)・ドド(多鐸)を産んだ。天命十一年(1626)、ヌルハチが没すると、殉じて亡くなった。

寿康太妃(?〜1665)
  博爾済吉特氏。清の太祖ヌルハチの夫人。モンゴル・コルチン部の出身。孔果爾の娘。ヌルハチの諸妃の中で最も長命で、康熙四年(1665)まで生きた。

孝端文皇后(1599〜1649)
  名は哲哲。博爾済吉特氏。清の太宗(ホンタイジ)の皇后。モンゴル・コルチン部の出身。莽古思の娘。万暦四十二年(1614)、ホンタイジにとついだ。三人の娘を産んだ。崇徳元年(1636)、皇后に立てられた。順治帝(フリン)が即位すると、皇太后となった。

孝荘文皇后(1613〜1687)
  名は布木布泰。または本布泰。博爾済吉特氏。清の太宗(ホンタイジ)の夫人。モンゴル・コルチン部の出身。寨桑の娘。孝端皇后の姪にあたる。天命十年(1625)、ホンタイジにとついだ。崇徳元年(1636)、永福宮荘妃に封ぜられた。フリン(のちの順治帝)を産んだ。太宗死後の諸子の争いを制し、フリンを帝位につけた。順治帝が立つと、皇太后に上った。康熙帝(玄Y)が立つと、太皇太后となった。一説によると、太宗の死後、ドルゴンに降嫁したといわれる。

敏恵恭和元妃(?〜1641)
  博爾済吉特氏。清の太宗(ホンタイジ)の夫人。モンゴル・コルチン部の出身。寨桑の娘。孝荘文皇后の姉にあたる。天聡八年(1634)、ホンタイジにとついだ。崇徳元年(1636)、関睢宮宸妃に封ぜられた。太宗の寵愛を受け、一子を産んだが、命名されないうちにその子は亡くなった。妃は病の床に伏せ、太宗は急遽戦地から帰還したが、到着しないうちに亡くなり、太宗は哀哭してやまなかったという。

懿靖大貴妃(?〜1674)
  博爾済吉特氏。阿霸垓郡王額斉格諾顔の娘。崇徳元年(1636)、麟趾宮貴妃に封ぜられた。博穆博果爾を産んだ。

康恵淑妃(?〜?)
  博爾済吉特氏。阿霸垓塔布嚢博第塞楚祜爾の娘。崇徳元年(1636)、衍慶宮淑妃に封ぜられた。

廃皇后(?〜?)
  博爾済吉特氏。清の順治帝(フリン)の皇后。呉克善の娘。孝荘文皇后の姪にあたる。順治八年(1651)、皇后に立てられた。十年(1653)八月、順治帝により「無能」を理由として廃されることとなった。諸臣が廃位に反対したが、聞き入れられず静妃に降格された。

孝恵章皇后(1641〜1717)
  博爾済吉特氏。清の順治帝(フリン)の皇后。モンゴル・コルチン部の出身。綽爾済の娘。順治十一年(1654)五月、妃として召された。六月、皇后に立てられた。順治帝が棟鄂氏を寵愛したため、かえりみられなかった。康熙帝(玄Y)が即位すると、皇太后となり、慈仁宮に住んだ。康熙二十八年(1689)、寧寿新宮が建てられ、うつり住んだ。五十六年(1717)、七十七歳で崩じた。

孝康章皇后(1640〜1663)
  佟佳氏。清の順治帝(フリン)の夫人。佟図頼の娘。順治九年(1652)、後宮に入り、順治帝の妃となった。十一年(1654)、玄Y(のちの康熙帝)を産んだ。康熙帝が即位すると、皇太后に上った。康熙二年(1663)二月、亡くなった。

孝献敬皇后(1639〜1660)
  棟鄂氏。清の順治帝(フリン)の夫人。満洲正白旗の出身。鄂碩の娘。十八歳のとき、後宮に入った。順治帝に深い寵愛を受けた。順治十三年(1656)八月、賢妃に立てられた。十二月、貴妃に上った。十七年(1660)八月、薨去した。順治帝は彼女の死をひどく悼み、まもなく夭逝した。一説によると、順治帝は棟鄂妃の死を悼んで、五台山に出家したという。また一説によると、棟鄂妃は伝説の董小婉と同一人物といわれるが、信用できない。

淑恵妃(?〜1713)
  博爾済吉特氏。清の順治帝(フリン)の夫人。綽爾済の娘。孝恵皇后の妹にあたる。順治帝の諸妃の中で最も長命で、康熙五十二年(1713)まで生きた。

孝誠仁皇后(1653〜1674)
  赫舎里氏。清の康熙帝(玄Y)の皇后。満洲正黄旗の出身。噶布喇の娘。康熙四年(1665)、皇后に立てられた。十三年(1674)、廃太子允礽を産んで、まもなく亡くなった。

孝昭仁皇后(?〜1678)
  鈕祜禄氏。清の康熙帝(玄Y)の皇后。遏必隆の娘。康熙十六年(1677)八月、皇后に立てられた。十七年(1678)二月、崩じた。

孝懿仁皇后(?〜1689)
  佟佳氏。清の康熙帝(玄Y)の皇后。佟国維の娘。孝康章皇后の甥の娘にあたる。康熙十六年(1677)、貴妃となった。二十年(1681)、皇貴妃に進んだ。二十八年(1689)七月、重病となり、皇后に立てられた。その翌日に崩じた。

孝恭仁皇后(1660〜1723)
  烏雅氏。清の康熙帝(玄Y)の夫人。満洲正黄旗の出身。はじめ宮人として、康熙帝に仕えた。胤メiのちの雍正帝)を産んだ。康熙十八年(1679)、徳嬪となった。二十年(1681)、徳妃に進んだ。雍正帝が即位すると、皇太后に上った。雍正元年(1723)、病没した。

敬敏皇貴妃(?〜1699)
  章佳氏。清の康熙帝(玄Y)の夫人。康熙帝の妃となり、怡親王允祥と二女を産んだ。康熙三十八年(1699)、薨去した。

惇怡皇貴妃(1683〜1768)
  瓜爾佳氏。清の康熙帝(玄Y)の夫人。康熙帝の後宮に入り、和妃となった。雍正帝のとき、皇考貴妃となった。乾隆帝が立つと、温恵皇貴太妃となった。康熙帝の諸妃の中で最も長命で、乾隆三十三年(1768)まで生きた。

孝敬憲皇后(?〜1731)
  烏喇那拉氏。清の雍正帝(胤メjの皇后。満洲正白旗の出身。費揚古の娘。胤モノとついで雍親王嫡福晋となった。雍正元年(1723)、皇后に立てられた。九年(1731)九月、病のために崩じた。

孝聖憲皇后(1692〜1777)
  鈕祜禄氏。清の雍正帝(胤メjの夫人。満洲鑲黄旗の出身。凌柱の娘。康熙四十三年(1692)、雍親王胤モフ邸に仕えて格格と号された。五十年(1711)、弘暦(のちの乾隆帝)を産んだ。雍正元年(1723)、熹妃に封ぜられ、熹貴妃に進んだ。十三年(1735)九月、乾隆帝が即位すると、皇太后に上り、慈寧宮に住んだ。乾隆四十二年(1777)正月、八十六歳で崩じた。

敦肅皇貴妃(?〜1725)
  年氏。清の雍正帝(胤メjの夫人。年遐齡の娘。年羹堯の妹にあたる。雍親王胤モフ邸に仕えて、側福晋となった。雍正元年(1723)、貴妃に封ぜられた。三年(1725)十一月、病が重く、皇貴妃に進んだ。翌月、薨去した。

孝賢純皇后(1712〜1748)
  富察氏。清の乾隆帝(弘暦)の皇后。満洲鑲黄旗の出身。李栄保の娘。雍正五年(1727)、宝親王嫡福晋となった。永l・永jと二女を産んだ。乾隆二年(1737)、皇后に立てられた。乾隆十三年(1748)、乾隆帝の東巡に従い、徳州で病没した。

烏喇那拉皇后(1718〜1766)
  清の乾隆帝(弘暦)の皇后。満洲正黄旗の出身。佐領那爾布の娘。宝親王弘暦の邸に仕えて、側福晋となった。乾隆二年(1737)に嫻妃となり、十年(1745)に貴妃に進んだ。孝賢皇后が薨去すると、皇貴妃に進んだ。十五年(1750)、皇后に立てられた。三十年(1765)、乾隆帝の南巡に従って杭州にいたり、帝の意にさからい、髪を切って怒りを示し、京師に帰った。翌年七月、崩じた。

孝儀純皇后(1727〜1775)
  魏佳氏。清の乾隆帝(弘暦)の夫人。清泰の娘。乾隆帝の後宮に入り、貴人となった。令嬪に封ぜられ、貴妃に進んだ。顒琰(のちの嘉慶帝)を産んだ。乾隆四十年(1775)正月、薨去した。六十年(1795)、顒琰が皇太子となると、孝儀皇后の号が贈られた。

慧賢皇貴妃(?〜?)
  高佳氏。清の乾隆帝(弘暦)の夫人。高斌の娘。宝親王弘暦の邸に仕えて、側福晋となった。乾隆初年、貴妃に封ぜられた。

純恵皇貴妃(?〜?)
  蘇佳氏。清の乾隆帝(弘暦)の夫人。宝親王弘暦の邸に仕えて、側福晋となった。永kと一女を産んだ。乾隆初年、純嬪に封ぜられた。純皇貴妃に上った。

慶恭皇貴妃(?〜?)
  陸氏。清の乾隆帝(弘暦)の夫人。はじめ慶嬪に封ぜられた。慶貴妃に上った。

哲憫皇貴妃(?〜1735)
  富察氏。清の乾隆帝(弘暦)の夫人。宝親王弘暦の邸に仕えて、永璜を産んだ。雍正十三年(1735)、薨去した。乾隆初年に哲妃に追封され、のちに皇貴妃に進んだ。

淑嘉皇貴妃(?〜?)
  金佳氏。清の乾隆帝(弘暦)の夫人。宝親王弘暦の邸に仕えて、側福晋となった。四子を産んだ。乾隆初年、嘉妃に封ぜられた。のちに嘉貴妃に進んだ。

婉貴太妃(?〜?)
  陳氏。清の乾隆帝(弘暦)の夫人。宝親王弘暦の邸に仕えて、側福晋となった。乾隆年間、貴人から婉妃に進んだ。嘉慶年間、婉貴太妃となった。寿康宮に住んだ。九十二歳で亡くなった。

容妃(1734〜1788)
  和卓氏。清の乾隆帝(弘暦)の夫人。回部の出身。台吉和札賚の娘。乾隆帝の後宮に入り、貴人となった。のちに妃に進んだ。いわゆる香妃伝説の原型となる人物だが、乾隆の寵愛を拒んだとか孝聖憲皇太后に縊られたといったことは、あくまで伝説上のことである。

孝淑睿皇后(?〜1797)
  喜塔臘氏。清の嘉慶帝(顒琰)の皇后。和爾経額の娘。顒琰にとつぎ、嫡福晋となった。旻寧(のちの道光帝)を産んだ。嘉慶帝が即位すると、皇后に立てられた。嘉慶二年(1797)二月、崩じた。

孝和睿皇后(1776〜1849)
  鈕祜禄氏。清の嘉慶帝(顒琰)の皇后。恭阿拉の娘。顒琰にとつぎ、側室福晋となった。綿ト・綿忻と一女を産んだ。嘉慶帝が即位すると、貴妃に封ぜられた。嘉慶二年(1797)に皇貴妃となり、六年(1801)に皇后に立てられた。道光帝が立つと、皇太后となった。道光二十九年(1849)十二月、崩じた。

恭順皇貴妃(?〜?)
  鈕祜禄氏。清の嘉慶帝(顒琰)の夫人。嘉慶初年、選ばれて後宮に入った。如貴人となり、のちに如妃に進んだ。綿愉と二女を産んだ。道光帝(旻寧)が立つと、皇考如皇妃となり、寿安宮に住んだ。咸豊帝(奕詝)が立つと、皇祖如皇貴太妃となった。

和裕皇貴妃(?〜?)
  劉佳氏。清の嘉慶帝(顒琰)の夫人。顒琰の邸に入って仕えた。嘉慶初年に誠妃となり、のちに誠貴妃に進んだ。道光帝(旻寧)が立つと、皇考誠禧皇貴妃となった。

孝穆成皇后(?〜1808)
  鈕祜禄氏。清の道光帝(旻寧)の夫人。布顔達賚の娘。旻寧にとつぎ、嫡福晋となった。嘉慶十三年(1808)正月、薨去した。道光帝が即位すると、孝穆皇后の諡が贈られた。

孝慎成皇后(?〜1833)
  佟佳氏。清の道光帝(旻寧)の皇后。舒明阿の娘。旻寧にとつぎ、嫡福晋となった。道光帝が即位すると、皇后に立てられた。道光十三年(1833)四月、崩じた。

孝全成皇后(1808〜1840)
  鈕祜禄氏。清の道光帝(旻寧)の皇后。頤齡の娘。道光帝の後宮に入り、全嬪となった。のちに全貴妃に進んだ。奕詝(のちの咸豊帝)を産んだ。道光十三年(1833)、皇貴妃となり、六宮の事をつかさどった。翌年、皇后に立てられた。二十年(1840)正月、崩じた。

孝静成皇后(1812〜1855)
  博爾済吉特氏。清の道光帝(旻寧)の皇后。花良阿の娘。道光帝の後宮に入り、静貴人となった。のちに静貴妃に進んだ。孝全皇后の死後、奕詝(のちの咸豊帝)の養育にあたった。咸豊帝が即位すると、皇考康慈皇貴太妃となり、寿康宮に住んだ。咸豊五年(1855)七月、病が重くなり、康慈皇太后と尊せられた。まもなく崩じた。

荘順皇貴妃(?〜1866)
  烏雅氏。清の道光帝(旻寧)の夫人。道光帝の後宮に入り、琳貴人となった。のちに琳貴妃に進んだ。咸豊帝(奕詝)のとき、皇考琳貴太妃となった。同治帝(載淳)のとき、皇祖琳皇貴太妃となった。同治五年(1866)、薨去した。

彤貴妃(?〜?)
  舒穆嚕氏。清の道光帝(旻寧)の夫人。道光帝の後宮に入り、彤貴人となった。二女を産んだ。のちに彤貴妃に進んだ。また彤貴人に降された。咸豊帝(奕詝)が立つと、皇考彤嬪となった。同治帝(載淳)が立つと、皇祖彤貴妃となった。

孝徳顕皇后(?〜1849)
  薩克達氏。清の咸豊帝(奕詝)の夫人。富泰の娘。道光二十七年(1847)、奕詝にとつぎ、嫡福晋となった。二十九年(1849)十二月、薨去した。咸豊帝が即位すると、孝徳皇后の諡が贈られた。

孝貞顕皇后(1837〜1881)
  鈕祜禄氏。東太后。清の咸豊帝(奕詝)の皇后。穆揚阿の娘。咸豊二年(1852)、貞嬪に封ぜられた。のちに貞貴妃に進み、皇后に立てられた。十年(1860)、英仏軍が北京に侵入すると、咸豊帝とともに熱河に逃れた。翌年七月、咸豊帝が病のため崩じ、同治帝が即位すると、皇太后となり、慈安と徽号を受けた。母后皇太后を称した。十一月、辛酉事変が起こると、慈禧(西太后)とともに垂簾聴政した。同治八年(1869)、専横いちじるしい西太后派の宦官の安得海を処刑させた。十二年(1873)、政権を同治帝に返した。翌年、同治帝が崩じ、光緒帝が即位すると、再び垂簾聴政した。光緒七年(1881)三月、病のために崩じた。一説に西太后に毒殺されたともいう。

孝欽顕皇后(1835〜1908)
  葉赫那拉氏。慈禧皇后西太后。清の咸豊帝(奕詝)の夫人。同治帝(載淳)の母。満州鑲黄旗の出身。恵徴の娘。咸豊元年(1851)、選ばれて咸豊帝の後宮に入り、懿貴人と号した。四年(1854)、懿嬪に封ぜられた。六年(1856)三月、載淳を産み、懿妃に進んだ。翌年、懿貴妃に上った。十年(1860)、英仏軍が北京に侵入すると、咸豊帝とともに熱河に逃れた。翌年、咸豊帝が病のため崩じ、同治帝が帝位を継ぐと、皇太后となり、慈禧と徽号を受けた。聖母皇太后を称した。同年、恭親王奕訢らと辛酉事変を起こして、肅順ら八人の大臣を抹殺。慈安(東太后)とともに垂簾政治を行った。同治十三年(1874)、同治帝が亡くなると、妹の子にあたる載湉(光緒帝)を立てた。老仏爺と称して宮中を掌握し、宦官の李蓮英らに皇帝や大官たちの動向を監視させた。光緒十一年(1885)、海軍の予算を流用して頤和園を造営した。奢侈濫費を重ねて国家財政を圧迫し、保守排外的な政策をとりながら、外国の干渉を招いて妥協を重ねた。二十四年(1898)には戊戌の変法を弾圧した。二十六年(1900)、義和団の乱が起こると、叛乱勢力を攘夷に利用しようと図ったが、そのため八カ国連合軍の北京への侵入を招いた。やむなく西安に避難し、翌年になって北京に戻った。三十四年(1908)、光緒帝が崩ずると、溥儀(宣統帝)の即位を遺言して、死去した。

荘静皇貴妃(?〜?)
  他他拉氏。清の咸豊帝(奕詝)の夫人。咸豊帝の後宮に入り、貴人となり、麗妃に累進した。同治帝(載淳)のとき、皇考麗皇貴太妃に上った。死後、荘静皇貴妃と諡された。

端恪皇貴妃(?〜?)
  佟佳氏。清の咸豊帝(奕詝)の夫人。咸豊帝の後宮に入り、祺嬪となった。同治年間、皇考祺貴妃に上った。宣統初年、皇祖祺貴太妃となった。死後、端恪皇貴妃と諡された。

孝哲毅皇后(1854〜1875)
  阿魯特氏。清の同治帝(載淳)の皇后。蒙古正藍旗の出身。崇綺の娘。同治十一年(1872)、皇后に立てられた。十三年(1874)、同治帝が崩じ、光緒帝(載湉)が立つと、両太后の命により、嘉順皇后に封ぜられた。光緒元年(1875)二月、失意のうちに崩じた。

淑慎皇貴妃(?〜1904)
  富察氏。清の同治帝(載淳)の夫人。同治帝が即位すると、慧妃に封ぜられた。のちに皇貴妃に進んだ。光緒帝(載湉)が立つと、敦宜皇貴妃となった。のちに敦宜栄慶皇貴妃に進んだ。

荘和皇貴妃(?〜1913)
  阿魯特氏。清の同治帝(載淳)の夫人。賽尚阿の娘。同治帝の後宮に入り、c嬪となった。のちに妃に進んだ。光緒年間、貴妃となった。宣統年間、皇考c皇貴妃となった。

敬懿皇貴妃(?〜?)
  赫舎里氏。清の同治帝(載淳)の夫人。同治帝の後宮に入り、嬪から妃に進んだ。光緒年間、貴妃となった。宣統年間、皇貴妃に上った。

栄恵皇貴妃(?〜?)
  西林覚羅氏。清の同治帝(載淳)の夫人。同治帝の後宮に入り、貴人から嬪に進んだ。光緒年間、妃となった。宣統年間、皇貴妃に上った。

孝定景皇后(1868〜1913)
  葉赫那拉氏。隆裕皇后。清の光緒帝(載湉)の皇后。満州鑲黄旗の出身。桂祥の娘。光緒十四年(1888)十月、西太后に召されて、光緒帝の後宮に入った。翌年正月、皇后に立てられた。光緒帝が珍妃を寵愛したため、かえりみられなかった。二十七年(1900)、八カ国連合軍が北京に侵入すると、光緒帝や西太后らとともに西安に避難した。翌年、北京に戻った。三十四年(1908)、宣統帝(溥儀)が即位すると、兼祧母后を称し、皇太后となった。隆裕太后の号をえた。宣統三年(1911)十二月、袁世凱の強迫をうけて、宣統帝退位の命を下した。民国二年(1913)正月、失意のうちに崩じた。

端康皇貴妃(?〜1924)
  他他拉氏。清の光緒帝(載湉)の夫人。満州鑲紅旗の出身。長叙の娘。光緒十四年(1888)に選ばれて瑾嬪となり、二十年(1894)に瑾妃に進んだ。妹の珍妃が西太后の怒りを買ったため、貴人に降格された。二十一年(1895)、また瑾妃に封ぜられた。宣統初年、兼祧皇考瑾貴妃となった。民国成立後も皇貴妃の号を保持した。

恪順皇貴妃(1876〜1900)
  他他拉氏。清の光緒帝(載湉)の夫人。端康皇貴妃の妹にあたる。光緒十四年(1888)に選ばれて珍嬪となり、二十年(1894)に珍妃に進んだ。光緒帝の変法を支持し、帝の寵愛を受けた。隆裕皇后や西太后に憎まれ、貴人に降格された。翌年、また珍妃に封ぜられた。二十六年(1900)、八カ国連合軍が北京に侵入したとき、西太后は西安に避難することになったが、そのとき太后の命により珍妃は楽寿堂の井戸の中に落とされて殺された。翌年、光緒帝が北京に戻ると、遺体は引き上げられ、恪順皇貴妃の諡を追贈された。

郭博勒皇后(1906〜1946)
  名は婉容、字は慕鴻。清の宣統帝(溥儀)の皇后。満洲正白旗の出身。栄源の娘。民国十一年(1922)、溥儀にとつぎ、皇后の称号をえた。十三年(1924)、馮玉祥により紫禁城を追われ、皇后号を剥奪された。翌年、天津にうつった。二十一年(1932)三月、満洲国が建国されると、執政夫人となった。二十三年(1934)、満洲国皇后となった。長年の習慣として、アヘン吸引の悪癖に溺れたという。三十四年(1945)八月、日本の敗戦とともに満洲国は解体し、彼女も退位した。翌年、吉林で病没した。


人物事典トップへもどる