[前漢(西漢)(前206〜8)]
楚漢抗争期,高祖呂后期,文帝景帝期,武帝期,昭帝宣帝期,元帝成帝期,哀帝平帝期,,匈奴,南越,,夜郎
高祖(劉邦)恵帝(劉盈)少帝恭(劉恭)少帝弘(劉弘)文帝(劉恒)景帝(劉啓)武帝(劉徹)昭帝(劉弗陵)宣帝(劉詢)元帝(劉奭)成帝(劉驁)哀帝(劉欣)平帝(劉カン)孺子嬰(劉嬰)
武帝(前159〜前87)
  
劉徹⇒
公孫弘(前200〜前121)
  字は季、または次卿。淄川国薛の人。はじめ獄吏となったが、罪をえて免職された。家は貧しく、海辺の地で豚を飼って暮らした。四十歳をすぎて『春秋』経や雑家の説を学んだ。武帝が立つと、賢良として召されて博士となった。匈奴に使者として立ったが、帝の意に沿わなかったため、病気と称して免職された。元光五年(前130)、賢良科の対策で第一とされ、博士に任じ、金馬門に待詔とした。朝廷において持論を開陳するも、人主の過ちを責めず、是非を争わない慎重な態度を取った。法律や行政に通暁しながら、それを儒術のものとして飾っていたため、そのことが武帝の気に入り、一年のうちに左内史にまで上った。継母のために喪に服し、のち御史大夫に進んだ。元朔五年(前124)、丞相となり、平津侯に封ぜられた。賓客館を建てて賢人を集め、儒者を抜擢して官吏とした。俸禄はみな賓客のために散じ、自身は粗食に甘んじたので、家には余財がなかった。しばしば西南夷や蒼海郡との交通をやめるよう武帝に進言した。外向きには寛弘であったが、内には猜疑心が強く、また旧怨ある人々には必ず報復した。八十歳で丞相在任のまま没した。

李広(?〜前119)
  隴西の成紀の人。代々弓術を習い伝えて巧みであった。狩猟に出かけたとき、虎と見間違えて石を射たが、矢が石に突き立ったという。文帝の十四年(前166)、匈奴討伐に従軍して功績をあげ、中郎に任ぜられた。文帝は、「もし高祖の時代に生まれていれば、一万戸の大名になっていたろう」と、李広を評した。景帝が即位すると、隴西都尉・騎郎将を歴任した。呉楚七国の乱のとき、驍騎都尉に任ぜられて、周亜夫の下で功を立てた。次いで、上谷の太守となり、匈奴と戦った。隴西・北地・雁門・代郡・雲中・上郡の太守を歴任した。上郡の太守であったとき、わずか百騎の供で数千の匈奴の騎兵と遭遇してしまったことがあったが、逃げることなく、まるで大軍を控えたおとりであるかのように行動したため、匈奴を退かせることができたという。武帝が即位すると、未央衛尉に任ぜられた。元光六年(前129)、将軍に任ぜられて匈奴と戦ったが、捕らえられた。隙を見て逃げ出し、長安に戻ったが、罪を問われて平民にされた。藍田の終南山に隠居暮らしを始めた。数年後、武帝に召し出されて、右北平の太守に任ぜられた。匈奴は李広を漢の飛将軍と恐れて、右北平に侵入してこなかった。元朔六年(前123)、後将軍となって、大将軍・衛青の下で出陣して、匈奴を攻撃した。しかし、匈奴と戦う機会を逃して、功績を立てられなかった。元狩二年(前121)、郎中令として出陣したが、四万の騎兵に包囲されて、半数の兵を失った。功罪半ばとされ、恩賞を与えられなかった。元狩四年(前119)にも出陣したが、衛青の命にそむいて単于を攻撃しようとし、あげくに道に迷って戦うことができなかった。李広は自分が年老い、天運に恵まれなかったことを嘆きつつ、自刎した。

霍去病(前145〜前117)
  諡は景桓侯。霍仲儒の子。母は衛少児(衛青の姉)。皇后の姉の子として取り立てられ、十八歳にして侍中となった。匈奴討伐の軍に従軍して度々戦功を挙げた。権門に生まれて傲慢なところがあり、李敢(李広の子)が衛青を殴打したのを根にもち、狩りのときに射殺すという事件も起こした。また兵が飢えているのに気づかず、自分は豪華な兵舎で飽食しているというようなこともあった。しかし勇敢果断で、武帝の恩寵を受けたため人気があった。票姚校尉を経て、冠軍侯に上った。元狩二年(前121)には、驃騎将軍に列せられた。その年の春の出兵では、折蘭王・盧侯王などを殺し、八千余の首級をえた。夏の出兵では、三万余の首級をえて、小月氏の国まで攻めいたった。このため渾邪王が漢に投降し、匈奴を衰退せしめた。元狩四年(前119)にも出陣し、衛青とともに匈奴の本拠を突いて、潰滅せしめた。三年後、武帝に惜しまれながら、二十四歳の若さで病死した。

司馬相如(前179〜前117)
  字は長卿。犬子とも称した。成都の人。若いころ、読書を好み、撃剣を学んだ。郎に任官して、景帝のとき武騎常侍となった。景帝が辞賦を好まなかったので、辞職して梁の孝王(劉武)のもとに賓客となった。このとき「子虚の賦」を作った。孝王が薨ずると、成都に帰ったが職がないため、臨邛県の王吉のもとに身を寄せた。だが、臨邛県の有力者の卓王孫の娘と駆け落ちして成都に帰った。やがて卓王孫に許されて、財産を分与されて富貴になった。武帝に召されて「天子遊猟の賦」を献じた。このためふたたび郎となった。中郎将となって西南夷への使者をつとめ、帰順させた。讒言を受けて失職したが、一年余でまた召されて郎となった。孝文園の令となり、「大人の賦」を作った。病のため免職されて、茂陵に隠居した。封禅の書一巻を残して、没した。

張湯(?〜前115)
  京兆杜陵の人。幼いころ、留守居をして鼠に肉を盗まれて父親に鞭打たれたため、鼠を捕らえて取り調べて審理したのち磔にかけた。その判決文の老練なことに驚いた父親が、裁判の文書を練習させたという。茂陵の尉・侍御史などを歴任した。武帝に才能を認められて太中大夫となり、張禹とともに厳格な律令を定めた。廷尉に上り、武帝におもねって儒者を属官に登用し、帝の意をくんで裁判を行った。また、淮南王らの謀反事件を徹底的に糾明した。武帝の信任ますます厚く、御史大夫に上って、事実上の宰相として政治を行った。法令の運用が厳格で苛酷だったので、貴賤を問わず張湯を怨嗟する声が満ちたという。御史大夫であること七年で、朱買臣らに陥れられて、自殺した。

張騫(?〜前114)
  漢中の人。武帝の建元年間に、郎に任官した。武帝が匈奴を挟撃することを求めて、月氏の国に対する使者を募ったとき、これに応募した。甘父らをともない、出発したが、匈奴に捕らえられて十余年にわたって抑留された。やがて逃亡して、大宛・康居を経て、大月氏にいたった。大月氏は匈奴に報復する気持ちを失っていて、任を果たせなかった。南山に沿って漢に帰ろうとしたが、再び匈奴に捕らえられた。抑留されること一年余りで、匈奴でえた妻を連れて逃げ帰った。朝廷に復帰して、武帝に西域の情勢を報告し、太中大夫に任ぜられた。衛青に従って匈奴討伐に出征したが、かれの地理知識が役立った。この功績で、博望侯に封ぜられた。衛尉に上り、元狩二年(前121)に出征したが、合流に遅れて損害を出し、そのため庶民に落とされた。のちに中郎将に復帰して、烏孫への使者に立ち、かれの副使は大宛・康居・月氏・大夏などにいたった。帰還して、大行に上ったが、一年後に没した。

衛青(?〜前106)
  字は仲卿。諡は烈侯。河東平陽の人。鄭季の子。鄭季が、平陽侯(曹寿)の妾であった衛媼と密通して衛青を生んだ。衛青は、はじめ平陽侯の家人となり羊の世話をしたが、奴隷同然の扱いを受けていた。成人すると、平陽侯の騎士となり、平陽公主(武帝の姉)に随従した。建元二年(前139)、衛青の姉の衛子夫が、武帝の後宮に入って寵愛されるようになった。そのため、衛青も宮中に召し出されて、建章監侍中となり、太中大夫に累進した。元光五年(前130)、車騎将軍として出陣し功績をあげた。元朔元年(前128)にも出兵して、数千の匈奴兵の首級をあげた。翌年の出兵ではオルドスを漢土に帰し、長平侯に封ぜられた。元朔五年(前124)にも大勝利をあげて、一万数千人の捕虜をえた。そのため大将軍に任ぜられた。そののちもたびたび出兵して功をあげ、元狩四年(前119)の出兵では、匈奴の本拠を突いて、潰滅せしめた。温厚な性格で物腰も低かったが、武帝に媚びたため評判はよくなかったという。以前の主・平陽公主を妻とした。息子たちは侯位をえたが、不手際があって次々と侯位を失った。

董仲舒(前176〜前104)
  広川の人。『春秋』および儒学を研究して、景帝のとき、博士となった。武帝が即位すると、召し出されて策問に答えた。公孫弘と対立し、膠西王の丞相に遷された。たひたび上疏諫言を行って、その驕慢を正した。やがて退官して家に帰ったが、朝廷に事案があると、武帝は張湯を派遣して仲舒に問わせた。天寿を全うして没した。

杜周(?〜前95)
  南陽郡杜衍の人。はじめ南陽太守義縦のもとで爪牙となり、推薦を受けて廷尉吏にうつった。張湯の下で働き、賞讃を受けた。辺地を失陥した案件を審理して、武帝の意にかない、御史中丞に任ぜられた。のち廷尉に上り、武帝の意におもねって人を罪に落としたり、無罪をほのめかしたりした。詔によって審理される疑獄も増え、年間千余件を裁き、取り調べられたものが六、七万人に及んだという。天漢三年(前98)、御史大夫となった。若いときは馬を一匹持っていただけだったが、身は三公に列し、家産は巨万をかさねた。

李広利(?〜前90)
  中山の人。妹の李夫人が武帝の寵愛を受けたために登用された。太初元年(前104)、弐師将軍に上った。武帝の命により汗血馬を求めて西域の大宛(フェルガナ)に出征して、これを降して馬三千余頭を得た。この功績により、海西侯に封ぜられた。天漢二年(前99)以降、たびたび匈奴討伐に参加した。征和三年(前90)、匈奴に対して出戦して敗れ、降伏して単于に殺された。

孔安国(?〜?)
  字は子国。孔子十一世の子孫とされる。詩を甲公に、尚書を伏生に学んだ。諫大夫・臨淮太守にまで上った。尚書に訓詁して『孔安国伝』を著した。

蘇武(?〜前60)
  字は子卿。蘇建の次男。杜陵の人。若くして郎となり、移中廏監に上った。天漢元年(前100)、匈奴への使者に選ばれ、中郎将として使節を率いたが、匈奴で虞常らの謀反が起こったため、抑留された。自殺しようとしたが、妨げられて果たせなかった。単于は蘇武に臣属するようにたびたび強迫・説得したが、蘇武は節を持して応じなかった。北海のほとりに移って、羊を牧して暮らした。単于の使いとして李陵が訪れたが、やはり節を曲げなかった。昭帝の時代となり、漢と匈奴が和親すると、蘇武は帰還した。始元六年(前81)に京師にいたり、典属国に任ぜられた。上官安・桑弘羊らが謀反すると、連座して免官となった。宣帝即位に加担したため、爵関内侯となり、典属国に復した。

李陵(?〜前74)
  字は少卿。李当戸の子。李広の孫に当たる。若くして侍中・建章宮監となった。匈奴とたびたび戦って、騎都尉に上った。李広利の下につくことをいとい、武帝に奏上して歩兵五千で別働隊を率いることとなった。匈奴の本軍に遭遇して善戦したが、ついに降伏した。李陵が匈奴の単于に漢軍に対抗する戦術を授けていると、誤って武帝のもとに伝えられたため、武帝は李陵の家族を誅殺した。漢への帰参の道を絶たれたため、単于の女婿となって右校王に立てられ、匈奴で重用された。昭帝の時代となり、霍光・上官桀らが任立政を遣わして、漢に帰参するよう求めたが、李陵は応じなかった。匈奴にいること二十余年で没した。

司馬遷(前145〜前87)
  字は子長。司馬談の子。左馮翊郡夏陽の人。幼少のころ、耕作牧畜を営み、古文を暗誦していた。董仲舒に『春秋』の学問を受け、孔安国に『尚書』の疑義を質した。二十歳のとき、旅に出て各地の名所旧跡をまわり、伝説・稗史を収集した。仕官して郎中となり、西南地方の遠征に従軍した。父の司馬談は太史令でありながら、武帝が封禅の礼を行ったとき、扈従することができなかった。司馬談は無念のうちに没し、その三年後に司馬遷は太史令となった。故事旧志を整理して、文章に綴った。中途に、李陵を弁護して投獄され、宮刑(去勢を受ける刑罰)を受けた。だが、太史公書(『史記』)の編纂を続け、堯帝から漢の武帝の麟止にいたる歴史記述を完成させた。彼の死後、この著書は世間に広まった。

烏孫公主(?〜?)
  本名は劉細君。江都王劉建の娘。武帝の時代となり、漢と匈奴が激しく衝突しはじめると、漢朝は匈奴と対抗するため、烏孫との同盟を必要とした。ちょうどそのころ烏孫はたびたび漢の公主の輿入れを求めていた。元封六年(前105)、漢の皇族の娘の中から細君が選ばれて、烏孫の昆莫のもとに嫁ぐこととなった。烏孫において単于の右夫人となった。昆莫は、自らの死期をさとると、細君を孫の岑陬にめあわそうとした。細君はこれを拒み、帰国を望んだ。武帝に窮状を訴えたが、武帝は烏孫の俗に従うよう返書した。細君はついに岑陬の妻となった。岑陬との間に一女(少夫)をもうけた。烏孫の地で没した。

東方朔(前154〜前93)
  字は曼倩。平原郡厭次の人。若いころ、詩書や兵家の文章を学んで暗誦した。成人して、不遜な自薦文を武帝に上書して登用された。能弁で機知に富んでいたため武帝に気に入られ、常侍郎に任ぜられて帝に近侍した。太中大夫給事中に上った。その言説は諧謔が多く、奔放であったという。

金日磾(前134〜前86)
  字は翁叔。匈奴の休屠王の太子。十四歳のとき、昆邪王が休屠王を殺して漢に降ったため、漢の官奴となり、馬を飼育した。武帝に見出されて馬監に任ぜられ、侍中・駙馬都尉・光禄大夫に進んだ。武帝に近侍して尊重され、日磾の長男は武帝の弄児となった。長男が成長しても節度がなく、宮女と戯れたため、日磾は長男を殺した。江充の党の莽何羅が乱を起こすと、武帝を守って莽何羅を捕らえた。武帝に昭帝を補佐するよう遺嘱され、大将軍霍光の下で副将となった。昭帝を補佐すること一年余、病床で列侯の爵位を受けた。まもなく病没した。敬侯と諡された。

桑弘羊(?〜前80)
  洛陽の人。商人の子で、十三歳のとき宮中に召されて武帝の側近となった。はじめ宮廷の宿衛としてつとめたが、のち財務官僚として立身した。元狩四年(前119)には塩鉄専売政策を立案実施し、元鼎二年(前115)には大農丞となって均輸法を実施した。元封元年(前110)には治粟都尉となって塩鉄専売・均輸平準法の施行を担当した。天漢元年(前100)には、大司農令となって国家財政をつかさどった。武帝の死後、御史大夫に上ったが、依然として財政管掌を続けた。始元六年(前81)、塩鉄専売・均輸平準法の存廃をめぐって賢良・文学らとはげしく議論した(塩鉄会議)。この議論の内容は桓寛『塩鉄論』に詳しい。その翌年、燕王旦・上官桀らの謀反に連座して誅された。
↓次の時代=前漢−昭帝期

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