[前漢(西漢)(前206〜8)]
楚漢抗争期,高祖呂后期,文帝景帝期,武帝期,昭帝宣帝期,元帝成帝期,哀帝平帝期,,匈奴,,夜郎
高祖(劉邦)恵帝(劉盈)少帝恭(劉恭)少帝弘(劉弘)文帝(劉恒)景帝(劉啓)武帝(劉徹)昭帝(劉弗陵)宣帝(劉詢)元帝(劉奭)成帝(劉驁)哀帝(劉欣)平帝(劉カン)孺子嬰(劉嬰)
劉向(前77〜前9)
  字は子政、もとの名は更生。劉徳の子。十二歳のとき、父の保任で輦郎となった。成人して諫大夫となり、宣帝に道家の錬金術の書物について上書して、罪をえた。『穀梁伝』を学んで儒家に転じ、石渠閣会議にも参加した。郎中・散騎諫大夫を経て散騎宗正に上った。元帝の時代になって、蕭望之・周堪らと結んで、外戚の許氏・史氏や宦官の弘恭・石顕らの専横を押さえようとしたが、失敗して獄に下った。成帝の時代になって、中郎として召された。光禄大夫に上り、外戚の王鳳らの専横を排そうとたびたび上書したが取りあげられなかった。帝は劉向を九卿の列に加えようとしたが、王氏の支持を得られず、列大夫のまま没した。『新序』『説苑』『列女伝』など。

谷永(?〜前8?)
  もとの名は并。字は子雲。京兆郡長安の人。建始三年(前30)、日食と地震が起こり、論者は多く王鳳の責に帰した。しかし谷永は王鳳のために上書して、光禄大夫に抜擢された。のち安定太守として出向した。王鳳が亡くなると辞職したが、王音に取り立てられて護菀使者となった。王商のもとで涼州刺史をつとめ、太中大夫・光禄大夫・給事中を歴任した。元延元年、北地太守となり、災異説を説いた。王根のもとで大司農に任ぜられた。のち病のために免官された。

陳湯(?〜前6)
  字は子公。山陽郡瑕丘の人。長安で官職を求めて、太官の献食丞となった。張勃が陳湯を元帝に推挙したが、父の喪に服さなかったので罪をえて獄に下った。また郎となり、西域副校尉に任ぜられた。このころ西域では郅支単于が強大であった。建昭三年(前36)、西域都護騎都尉の甘延寿とともに西域にいたった。甘延寿が病床に伏すと、勅命と偽って西域の将兵を徴集した。独断で兵を発して西進し、郅支単于を討ち取った。詔勅を偽っていたため、論功が長引いた。関内侯の爵をえて、射声校尉に任ぜられたが、成帝が即位すると戦利品の着服が罪に問われて免官された。のちに獄に下り、爵位を奪われて一兵卒とされた。また王鳳に登用されて従事中郎に上った。自分の利益のために解万年と計って、昌陵への民衆の移住を帝に上書した。また賄賂を受けたと告発された張匡を弁護して謝礼をえた。告発されて一庶民とされ、敦煌に流された。耿育が上書して弁護したので、長安に戻されてそこで没した。
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