[楚漢抗争期(前206〜前202)]
項羽(前233〜前202)
  名は籍。羽は字。下相の人。項氏は楚の将軍の家柄であった。叔父・項梁に養育され、会稽に移り住んだ。陳勝・呉広の乱が起こると、項梁とともに挙兵した。楚の懐王の孫を楚王として擁立して、秦軍と争った。項梁の死後、楚軍の主力を率いて趙の救援に向かい、鉅鹿で力戦。降兵をも殺す苛烈さのため、秦軍の必死の抵抗を呼んだが、それらを撃破し、関中に入った。それ以前に、楚軍の別働隊を率いた劉邦が関中を掌握していたが、鴻門の会の後、項羽は咸陽に入城し、秦王・子嬰を殺して、咸陽を焼き払った。彭城を首府として西楚の覇王を称して天下の実権を握ったが、楚の義帝殺害や諸侯の叙封の不公平から反乱が続発し、漢王・劉邦らと覇権を争った。垓下の戦いに敗れ、四面楚歌を嘆きつつ、寡兵で包囲を切り開いて南下。故地の呉を目指したが、烏江で自刃した。

范増(前275〜前204)
  亜父と呼ばれた。居巣の人。挙兵した項梁のもとに参じたとき、すでに七十歳の老人であった。項梁・項羽の軍師となった。陳勝の死後、楚の懐王の子孫を擁立するように、項梁に進言した。鴻門の会では、劉邦を殺すよう、項羽に進言して容れられなかった。楚漢の抗争において、陳平の離間策にかかって、項羽に信用されなくなったため、項羽のもとを去り、彭城へ向かう途中、背中にできものができて死んだ。

陳余(?〜前204)
  魏の大梁の人。張耳とともに魏の名士と称し、刎頸の交わりを結んだ。秦が魏を滅ぼすと、五百金の賞金が懸けられたので、名を変えて陳に逃れて村里の門番となった。秦の二世元年(前209)、陳勝・呉広の乱に参加して校尉となった。武臣・張耳とともに趙の地を経略し、武臣を趙王に擁立し、自身は大将軍となった。武臣が李良に殺されると、趙歇を立てて趙王とした。のちに張耳と憎みあうようになった。前206年、項羽が諸侯を分封したとき、南皮付近の三県に封ぜられたため、憤慨して田栄につき、兵を率いて常山王張耳を襲い、趙歇を迎えた。代王となった。漢の高帝三年(前204)、張耳・韓信に井陘で敗れ、泜水の上で斬られた。

張耳(?〜前202)
  魏の大梁の人。若くして魏の信陵君の客となった。外黄令となり、陳余と刎頸の交わりを結んだ。秦が魏を滅ぼすと、千金の賞金が懸けられたので、名を変えて陳に逃れて村里の門番となった。秦の二世元年(前209)、陳勝・呉広の乱に参加して校尉となった。陳勝に六国の後裔を立てるよう勧めたが容れられなかった。武臣・陳余とともに趙の地を経略し、武臣を趙王に擁立し、自分は丞相となった。武臣が李良に殺されると、趙歇を立てて趙王とした。鉅鹿で秦の王離に包囲されたとき、陳余が救援軍を出さなかったため、陳余を憎むようになった。項羽に従って関中に入り、常山王に封ぜられ、襄国に鎮した。陳余の襲撃を受けて敗れ、漢に逃れて漢王劉邦に帰順した。韓信とともに趙を攻め、陳余を斬り、趙歇を殺した。漢の高帝四年(前203)、趙王に封ぜられた。翌年秋、薨去し、景王と諡された。
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