[前漢(西漢)(前206〜8)]
⇒楚漢抗争期,高祖呂后期,文帝景帝期,武帝期,昭帝宣帝期,元帝成帝期,哀帝平帝期,新,匈奴,南越,滇,夜郎
高祖(劉邦)−恵帝(劉盈)−少帝恭(劉恭)−少帝弘(劉弘)−文帝(劉恒)−景帝(劉啓)−武帝(劉徹)−昭帝(劉弗陵)−宣帝(劉詢)−元帝(劉奭)−成帝(劉驁)−哀帝(劉欣)−平帝(劉カン)−孺子嬰(劉嬰)
申屠嘉(?〜前155)
梁国の人。弩手として高祖(劉邦)に従って項羽・英布を討ち、都尉となった。恵帝のとき淮陽太守となった。文帝の元年(前179)、関内侯に封ぜられた。十六年(前164)、御史大夫・丞相に上り、故安侯に封ぜられた。人となり廉直で、私の請託を受けなかった。文帝の寵臣のケ通が君臣の礼をわきまえなかったので、申屠嘉はケ通を丞相府に呼びつけて法によって斬罪に付そうとし、文帝が符節を持たせた使者を派遣しなければ、そのまま処刑するところだった。景帝が立つと、晁錯が権力を握り、法令を多く変更し、申屠嘉の建言は用いられなくなったため、申屠嘉は晁錯を憎むようになった。晁錯が宗廟の外垣をうがったことを理由に、晁錯の誅殺を奏請したが、帝に容れられず、憤怒のあまり血を吐いて急逝した。
晁錯(?〜前154)
潁川の人。張恢に刑名学を学んだ。掌故・太子舎人・門大夫・家令・中大夫・内史を経て、御史大夫に上った。人柄は峻厳にして苛酷であったが、景帝に親任された。諸侯領をことあるごとに削減する政策を取ったため、呉楚七国の乱をまねき、呉・楚などは晁錯を除くことを大義名分とした。竇嬰や袁盎が晁錯を除くことを進言したため、晁錯は召し出されて斬られた。
張蒼(?〜前152)
陽武の人。律暦に精通した。秦のときに御史となり、四方の文書をつかさどった。のちに罪を犯して故郷に逃げ帰り、劉邦の起兵に従った。楚漢抗争の間、常山守・代の相・趙の相を歴任した。漢の高帝六年(前201)、北平侯に封ぜられ、計相にうつり、まもなく列侯として主計となった。律暦や財政をつかさどった。のちに淮南王劉長の下で相となった。高后八年(前180)、御史大夫となり、周勃らとともに文帝を擁立した。文帝四年(前176)、丞相に上った。文帝後元二年(前162)、漢朝を土徳の朝として暦と制度を定めることに反対した。補任した中候が奸利をむさぼったため、責任を問われて免職された。景帝五年(前152)に亡くなった。
袁盎(?〜前148)
字は絲。楚の人。呂后の時代、呂禄の舎人であった。文帝が即位すると、郎中に任ぜられた。絳侯・周勃が丞相であったころ、周勃を評して功臣であっても社稷の臣ではないと皇帝に述べたという。そのおかげで、周勃と不仲となったが、周勃が謀反をたくらんでいると告発されたときは、彼を弁護した。淮南脂、(劉長、文帝の弟)が審食其を殺害したとき、淮南王の増長を押さえるよう文帝に進言したが、聞き入れられなかった。柴奇の謀反が発覚し、それに淮南王がつながりがあることが発覚して、蜀へ流罪となったが、袁盎はそれに反対した。淮南王が蜀への道中に絶食して死ぬと、文帝は袁盎の諫言を聞かなかったことを後悔した。袁盎はたびたび直諫したので敬遠され、隴西の都尉に転出した。のちに斉の丞相に遷り、次いで呉の丞相に代わった。呉王(劉濞)は驕慢で佞臣が多かったので、保身のため直諫を控えるよう袁種に勧められてそのとおりにした。袁盎は晁錯と不仲であり、景帝が即位して呉楚七国が叛乱を起こすと、晁錯は袁盎が呉王から賄賂を受けて呉王が謀反の準備をしていることを隠したと告発した。袁盎は景帝の引見を受けて、呉・楚などの謀反は晁錯の諸侯領削減政策に原因があり、晁錯が死ねば呉・楚に大義名分がなくなると述べた。そのため晁錯は斬られた。袁盎は太常として呉へ使者に赴いて殺されそうになったが、以前の部下で密通の罪を見逃してやった者がいて、彼に助けられて逃亡した。呉楚七国の乱が平定されると、楚王(劉礼)のもとで丞相となった。梁王(劉武)を景帝の太子にしようとする動きに反対したため、梁王に恨まれて暗殺された。
周亜夫(?〜前143)
周勃の子。兄の周勝之が人を殺したかどで領国を召し上げられたので、その後を継いで条侯(絳侯)となった。文帝の二十二年(前158)、将軍として匈奴に対する防備に当たったとき、文帝がねぎらうため陣中に至ったが、「軍中では将軍の令を聞き、天子の詔を聞かず」と部下が言って皇帝を入れようとしなかった。文帝はそのためかえって感心して、軍に威令の行き届いた真の将軍だと称賛した。周亜夫は中尉に任ぜられた。文帝は亜夫を信頼して、「非常のことがあれば周亜夫に頼れ」と景帝に遺詔を残した。景帝が即位すると、車騎将軍となり、太尉を代行した。景帝の三年(前154)、呉楚七国が叛乱を起こすと、その鎮圧に活躍した。凱旋して正式に太尉となり、景帝の七年(前150)には丞相に上った。しかし、対匈奴政策など景帝との折り合いが悪く、免職された。息子の不祥事の責任を問われて逮捕されて、自殺しようとしたが阻まれ、獄中で食事を取らずに死んだ。
枚乗(?〜前140)
字は叔。淮陰の人。呉王濞に郎中として仕えた。呉王が叛乱を起こそうとすると、それを諫めたが聞き入れられなかった。呉を去って梁の孝王(劉武)のもとに身を寄せた。呉楚七国の乱が起こり、景帝が晁錯を斬って諸侯に詫びると、枚乗は再び呉王に説いた。しかし、聞き入れられず、呉は滅ぼされた。枚乗は景帝に召し出されて、弘農郡の都尉に任ぜられた。官にいることを楽しまず、辞職して梁に行き、辞や賦をつづった。梁の孝王が没すると、故郷に帰った。武帝が彼を召そうとしたが、来る途中で病没した。『七発』。
趙佗(?〜前137)
⇒南越の武帝
劉安(前179〜前122)
淮南子ともいう。淮南脂、劉長(劉邦の末子)の子。幼少のころから読書や琴の演奏を好み、武事を好まなかったという。文帝の六年(前174)、父の淮南脂、は、柴奇の謀反に加担していたことが発覚して、蜀に流される途中に絶食死した。その後、劉安は阜陵侯に封ぜられた。文帝の十六年(前164)、淮南王に上った。景帝の三年(前154)、呉楚など七国が乱を起こすと、乱に同調しようとしたが、淮南の丞相・張釈之が淮南の軍を握って動かなかったので、事なきをえた。しかしその後も、父の無念の死を思って、謀反を計画しながら実行をためらっていた。元朔五年(前124)、淮南の太子(劉安の子、遷)と郎中の雷被の間が険悪となって騒動が起こり、淮南王領は削減された。劉安はますます不満をつのらせたが、臣下の伍被という人がたびたび諫めていた。翌年、劉安の孫・劉建が淮南の太子・遷を告発する事件が起こり、劉安はいよいよ叛乱を起こそうとしたが、伍被が武帝のもとに自首して叛乱計画を告白したため、劉安は自殺し一族は処刑された。天下の諸説を集めて編纂し、鴻烈と名づけたという。後世になってその書は『淮南子』と呼ばれた。
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