[南越(前203〜前111)]
武帝(趙佗)−文帝(趙胡)−明王(趙嬰斉)−南越王(趙興)−術陽侯(趙建徳)
趙佗(?〜前137)
  またの名は尉佗。南越の武帝。真定の人。秦の始皇帝のとき、揚越の平定に功績があり、南海郡竜川の県令となった。秦末の乱のときに南海郡に拠って自立した。桂林郡と象郡を併せて、南越国の武王を称した。高祖の十一年(前196)、漢により南越王として承認された。呂后のとき、鉄製の器具の交易を差し止められたため、南越の武帝を自称して長沙国を攻めた。漢は討伐に失敗し、南越の勢力は東西一万里に及んだ。文帝(劉恒)の時代に再び漢に帰順し、帝号を除いて臣従を誓ったが、国内では旧号を使っていたという。

趙胡(?〜?)
  またの名は眜。南越の文帝。趙佗の孫にあたる。閩越王騶郢が南越の境を侵したため、漢の武帝(劉徹)にその非を訴えた。漢が閩越を討って降したため、趙胡は太子の趙嬰斉を人質として長安に送った。漢の使者に入朝を約束したが、病と称して果たさなかった。1983年、広東省広州市でかれの墓が発見され、絲縷玉衣につつまれたかれの遺体や、玉器・剣・璽印が出土している。

趙嬰斉(?〜?)
  南越の明王。趙胡の子。漢が閩越を討った後、長安に送られた。趙胡の死後、帰国して位についた。漢に入朝を求められたが拒み、子の次公を代わりに入朝させた。

趙興(?〜?)
  南越王。趙嬰斉の子。母は樛氏。趙嬰斉の死後、即位した。漢への内属を主張する太后の樛氏と、それに反対する丞相の呂嘉が激しく争った。

趙建徳(?〜?)
  南越王。趙嬰斉の子。術陽侯となる。南越丞相呂嘉に擁されて即位した。漢の伏波将軍路博徳と楼船将軍楊僕の攻撃を受け、城を焼かれて海上に逃亡したが、捕らえられた。

呂嘉(?〜?)
  南越の趙胡・趙嬰斉・趙興の三代に仕え、丞相に上った。一族七十人が顕官に上り、男子はすべて王女をめとり、女子はすべて王室に縁づいた。南越では王以上に士民の信望をえていた。趙興の入朝に反対してしばしば諫めたため、太后の樛氏に殺されかけた。病と称してひきこもり、王命に服さなくなった。漢が韓千秋らを派してかれを害そうとしたため、ついに叛乱して、太后と漢の使者を殺し、術陽侯趙建徳を立てて、韓千秋の軍を殲滅した。漢の路博徳・楊僕らの攻撃を受け、城を焼かれて海上に逃亡したが、捕らえられた。


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