⇒歴代皇帝(秦,,三国,,北朝,南朝,,,五代,,,,
[秦(前221〜前206)]
(前259〜前210)
  姓は嬴、また姓は趙ともいう。秦王政。秦の始皇帝。在位前247〜前210。秦の荘襄王(子楚)の子。母は趙姫。実父は呂不韋との説もある。幼少時には父とともに人質として趙にいた。荘襄王の三年(前247)に父の跡を継いで秦王として即位した。はじめは呂不韋に政治を専断されたが、成人すると彼を斥けて親政した。将軍・王翦らを用いて、韓・趙・魏・楚・燕・斉を次々と滅ぼし、中国を統一した。自ら始皇帝を名乗り、朕と自称し、天下を三十六郡に分けて統治した。蒙恬に匈奴を討たせ、オルドスを攻略。また万里の長城や阿房宮など巨大な土木工事をおこなわせた。焚書坑儒などの思想統制も大規模におこない、また度量衡を統一した。東方巡狩中、沙丘の平台で病没した。

胡亥(?〜前207)
  秦の二世皇帝。在位前209〜前207。始皇帝(嬴政)の末子。始皇帝の死後、宦官の趙高と丞相の李斯によって皇帝として擁立された。酷刑厳罰を容認し、自身は酒色にふけり、群臣の朝見を受けなかった。趙高に政治を専断されて、天下は乱れた。関東に乱が起き、劉邦の軍が関中に迫ると、趙高によって望夷の離宮に移され、さらに脅迫されて自殺した。

子嬰(?〜前206)
  秦王。在位前206。始皇帝の孫にあたる。宦官の趙高が、二世皇帝を殺害した後、擁立された。皇帝を称さず秦王を称した。宦官の韓談と謀って趙高を殺し、国力の回復を図ったが力及ばず、沛公劉邦に降伏した。のち、項羽に殺害された。


⇒歴代皇帝(,漢,三国,,北朝,南朝,,,五代,,,,
[前漢(西漢)(前206〜8)]
劉邦(前247〜前195)
  字は季。前漢の初代高帝。廟号は高祖。在位前202〜前195。泗水郡沛県豊邑中陽里の人。父母は名が不詳(父は太公、母は劉媼と伝わる)。若いころ、学問を好まず家を修めず遊侠の徒と親交を結んだ。泗水の亭長という下級警吏に就き、驪山の皇帝陵築造現場へ囚人護送の任につくが、囚人の脱走を防ぎきれず、独断で釈放し、郷里の山中に隠れて、盗賊の頭目となった。陳勝・呉広の乱が起こると、沛の子弟を率いて決起し、沛公と号した。項梁・項羽らの楚に帰順した。項羽らが鉅鹿で激戦を繰り広げている間に、軽兵を率いて西進し、南陽から武関に入って藍田で秦軍を破り、咸陽を陥して子嬰を降伏させた。咸陽の父老らに法三章を約し、また財宝・婦女の略奪を禁じた。遅れて到着した項羽と衝突し、函谷関を破られるが、鴻門の会において和解し一命を救われた。項羽が諸侯を分封すると、漢中に封じられ、漢王となる。項羽が義帝を殺害すると宣戦。項羽が斉の田栄を討伐に赴いた隙に、諸侯の大軍を糾合して、彭城を占拠。しかし、取って返した項羽の軍に大敗し、父母や妻を人質に取られながら、ほとんど身ひとつで逃亡。残兵を集めて滎陽に立てこもった。戦場での圧倒的な強さをほこる項羽軍に対して、補給・後方攪乱・離間策で優位に立った劉邦軍が一進一退を繰り返し、両軍は広武山で対峙、和睦した。ところが、項羽が軍を退く背後から、漢軍は襲いかかり、項羽を垓下に追いつめて自刃させ、中国を統一した。諸将に推されて帝位に就き、長安に都を置いた。国号は漢。諸侯分封と官僚支配を並立させた郡国制を取り、功績ある臣下を諸侯として封じた。匈奴を攻めて、平城に包囲され、陳平の策でからくも脱出した。晩年には韓信・彭越・黥布らの巨大な勲功ある功臣を次々と粛清した。黥布を討ったときに受けた矢傷がもとで崩じた。
劉盈(前213〜前188)
  前漢の二代恵帝。在位前195〜前188。高祖(劉邦)の子。六歳にして太子に立てられた。性格が寛仁で気弱だったので、高祖は晩年にかれを廃して趙王劉如意を立てようとしたが、群臣の反対で取りやめた。高帝十二年(前195)、父帝が崩ずると即位した。呂太后が趙王を毒殺し、戚夫人を惨殺すると、無力感にとらわれて酒色に溺れた。朝政をみることなく、体をこわし夭逝した。在位中に秦以来の苛酷な法令が除かれた。

劉恭(?〜前184)
  前漢の三代少帝恭。在位前188〜前184。恵帝(劉盈)が後宮の美人に生ませた子。恵帝の皇后に子がなかったため、呂太后がかれを太子に立てた。恵帝の死後、帝位を継いだ。年が幼かったため、呂太后が臨朝称制した。高后四年(前184)、皇后の子でなかったことを知り、呂太后に怨み言を吐いたため、廃されて幽閉され、殺された。

劉弘(?〜前180)
  はじめの名は義。前漢の四代少帝弘。在位前184〜前180。はじめ恒山王に封ぜられた。高后四年(前184)、少帝恭が呂太后に廃殺されると、迎えられて帝位についた。呂太后が臨朝称制した。八年(前180)、周勃らが呂氏を滅ぼすと、少帝は恵帝の実子ではないとして、これを廃殺した。

劉恒(前202〜前157)
  前漢の五代文帝。廟号は太宗。在位前180〜前157。高祖(劉邦)の子。母は薄氏。高帝十一年(前196)、代王に封ぜられた。高后八年(前180)、呂太后が崩じ、呂氏の乱が平定されると、周勃らがかれを迎えて帝に擁立した。民力の休養につとめ、農耕・養蚕を勧奨し、租税の減免をしばしばおこなった。諸侯王の勢力削減を進め、斉国と淮南国を小国に分割した。十四年(前166)に匈奴の老上単于が北辺を侵すと、ほぼ連年の侵攻を受けた。このころ社会秩序は相対的に安定し、経済は回復と発展に向かい、戸口は増加した。後世、文帝と景帝の時期をあわせて文景の治と称する。

劉啓(前189〜前141)
  前漢の六代景帝。在位前157〜前141。文帝(劉恒)の子。母は竇皇后。文帝後七年(前157)、父帝が崩ずると、即位した。民力休養、軽徭薄賦の政策を継承し、社会経済は回復と発展に向かった。田租は十五分の一から三十分の一にまで下がり、漢朝の定制となった。中央集権を強化し、晁錯の建議を採用して諸侯の削藩を実行した。景帝前三年(前154)、呉楚七国の乱を平定した。その後貨幣の鋳造権を諸侯から取り上げ、諸侯王国の官制も改めて、王国官吏の任免を皇帝の手におさめた。

劉徹(前159〜前87)
  字は通。前漢の七代武帝。廟号は世宗。在位前141〜前87。景帝(劉啓)の子。母は王夫人。はじめ膠東王に封ぜられた。景帝後元三年(前141)、十六歳で即位した。当初は祖母の竇太皇太后に実権を握られた。自ら信任した儒者を太皇太后の怒りを買ったため退けたりした。祖母が崩ずると、次は王皇太后とその外戚の王氏・田氏が朝政を専断した。王皇太后が崩じると親政を開始した。対外政策では、従来の消極策を捨て、衛青や霍去病を登用して、匈奴を討たせ、北方に追いやった。東に楽浪郡ほか朝鮮四郡を置き、西に張騫を送って西域との交流を開いた。汗血馬を求めて、フェルガナ遠征まで行っている。内政面では、桑弘羊・東方朔らを登用し、諸侯の力を削ぎ、郷挙里選の法を立て、塩や鉄を専売にし、均輸法平準法を公布して物価を統制しようとした。しかし、相次ぐ外征のため、文帝・景帝時代の莫大な蓄積を食いつぶし、さらに財政を破綻させ、多くの新税を導入して、農民を窮乏化させた。晩年、武帝のもとで辣腕を振るった江充が、皇太子(劉拠)と対立し、武帝死後のことを恐れて、巫蠱事件をでっち上げて皇太子を冤罪に落とそうとした。皇太子は江充を討とうとして謀反の罪を着せられ、長安市街での戦いに敗れ、自殺した(巫蠱の乱)。翌年、無実が判明。武帝は皇太子を悼んで思子宮を造営した。末子の弗陵(昭帝)を後継者に定め、霍光・金日テイ
※1・上官桀の三人に後事を託して崩じた。
劉弗陵(前94〜前74)
  前漢の八代昭帝。在位前87〜前74。武帝(劉徹)の末子。母は趙婕、。年八歳にして即位し、霍光・金日テイ
※1・上官桀・桑弘羊が武帝の遺詔を受けて輔政にあたった。金日テイは間もなく没し、霍光が執政した。免租減賦をしばしば行い、民力の休養につとめた。上官桀・桑弘羊が燕王と結んで霍光を陥れようと謀ったが、霍光は帝の信任篤く、上官桀・桑弘羊は追いつめられて謀反し、敗れて死んだ。始元六年(前81)、郡国の賢良や文学を集めて塩鉄会議を開き、榷酤官を廃し、塩鉄の専売を廃止した。また匈奴と和親を結んだ。政治は比較的安定し、社会経済は回復に向かった。
劉詢(前91〜前49)
  もとの名は病已。字は次卿。前漢の九代宣帝。廟号は中宗。在位前74〜前49。史皇孫の子。武帝(劉徹)の曾孫にあたる。巫蠱の乱で自殺した劉拠の孫にあたる。乱の際は丙吉のはからいで難を逃れた。以後、民間で育ち、詩経を学び遊侠と交友した。元平元年(前74)、昭帝の跡を継いだ昌邑王(劉賀)が廃されると、代わって後嗣となり、十八歳で即位した。はじめ霍光に実権を握られたが、地節二年(前68)に霍光が病没すると、親政をはじめた。外戚・霍氏の権勢を削り、軍権を剥奪していった。四年(前66)、追いつめられた霍氏は叛乱を起こし、敗れて族滅され、霍皇后も廃された。宣帝は、土地・種食の貸与、田租・口賦の減額、常平倉の設置などの政策をしき、救貧・勧農につとめた。尚書の権能を削り、公卿に自由な上表を許し、新たに中書の官を設けた。また、甘露三年(前51)に石渠閣会議を開いて、儒学の諸書の異同を議論させ、自ら制書を下して決定した。対外的には、烏孫と結び、西域都護を置き、西域三十六国を服属させた。匈奴が分裂した一方の呼韓邪単于を服属させた。

劉奭(前75〜前33)
  前漢の十代元帝。廟号は高宗。在位前49〜前33。宣帝(劉詢)の子。母は許皇后。八歳のとき、太子に立てられた。若くして儒学を好み、寛刑をしき儒者を挙げるよう父帝に進言した。宣帝は「我が家を乱す者は太子なり」と嘆いたという。黄龍元年(前49)、父が崩ずると即位した。宣帝の政風を改め、蕭望之・周堪えらの名儒を登用して尚書をつかさどらせ、貢禹・匡衡らを丞相とした。帝は恭謙で、身を慎み、しばしば赦令を下し、租税徭役の減免を行ったが、優柔不断のことが多かった。宦官の弘恭・石顕らが政務を専断し、外戚の許氏・史氏が放縦をきわめて、政界は急速に腐敗していった。

劉驁(前52〜前7)
  字は太孫。前漢の十一代成帝。在位前33〜前7。元帝(劉奭)の子。母は王皇后。即位後は外戚の王鳳が大司馬・大将軍・領尚書事となって、朝政を総覧した。王氏の権勢ははなはだしく、五大司馬七列侯を出した。建始四年(前29)、中書宦官を廃止し、尚書員五人を置いて、宦官の権力を抑制した。綏和元年(前8)、大司馬驃騎将軍を大司馬と改め、御史大夫を大司空とし、その俸禄を丞相と等しくした。帝は酒色にふけり、趙飛燕・趙合徳の姉妹を後宮でもっぱら寵愛した。建昌陵を造営して巨費をついやし、国力は疲弊し庶民で餓死するもの百万に及んだ。前漢は急速に衰退していった。

劉欣(前25〜前1)
  前漢の十二代哀帝。在位前7〜前1。定陶恭王劉康の子。母は丁姫。はじめ父を継いで定陶王となった。成帝に子がなかったので、傅太后らの運動により皇太子となった。綏和二年(前7)、成帝が崩ずると即位。丁・傅氏を信任し、王莽・王根らを領国に派遣して、外戚王氏の権勢を削った。また董賢を寵愛して大司馬に任じ田二千頃を与えた。讖緯説を信じて、漢朝の中衰を経て再受命したと称し、建平二年(前5)を太初元将元年と改め、陳聖劉太平皇帝と帝号を改めた。しかしまもなく除去した。また三公・刺史の称をたびたび改めた。

劉衎(前9〜5)
  もとの名は箕子。前漢の十三代平帝。在位前1〜5。中山孝王劉興の子。母は衛姫。中山王を継いだ。元寿二年(前1)、九歳で帝に迎えられた。太皇太后王政君が臨朝称制し、大司馬王莽が執政した。元始五年(5)、病没した。一説に王莽が毒殺したともいう。

劉嬰(4〜25)
  前漢の孺子嬰。広戚侯劉顕の子。平帝の死後、王莽に迎えられ、皇太子となった。王莽は仮皇帝を称し、劉嬰は孺子と号された。王莽が新朝を建てると定安公となった。のち方望に擁立されて天子を称し、臨に拠って数千人を集めた。更始帝の部将の李松に討たれて、殺された。

[新(8〜23)]
王莽(前45〜23)
  字は巨君。在位8〜23。魏郡元城の人。王曼の次男。王曼の姉が元帝の皇后であったため、王曼の兄弟はみな列侯として富貴であったが、王曼は夭逝して侯となれず、王莽は貧しいままだった。母と嫂によく仕えた。成帝の陽朔年間(前24〜前21)に王鳳が病むと、よく看病したため、王鳳は臨終に際して、王莽を帝に推薦した。黄門郎・射声校尉を歴任して、新都侯に封じられた。次いで騎都尉・光禄大夫・侍中となった。王莽は、高位に上っても恭謙で、質倹に心がけて名声をえた。次男・王獲が奴隷を殺したの責めて、自殺させたこともあった。綏和元年(前8)には、大司馬に進んだ。哀帝が即位すると、帝が王氏の排除を図って、解任されて都落ちしたが、やがて長安に戻されて復活。哀帝が崩じると王太皇太后が璽綬を奪取し、平帝を立てて称制した。王莽は安漢公に上った。平帝の外戚・衛氏を陰謀事件を理由に廃し、自分の長子・王宇まで毒殺した。平帝が長じて、王氏の思うままにならなくなると、王莽は平帝を毒殺。孺子嬰を皇太子とし、自らは仮皇帝と号した。初始元年(8)、禅譲を受けて即位。国号を新とした。周の古制を復活させるなどの復古政治を行い、悪貨を鋳造して経済を混乱させ、また異民族の離反を招くなど失策を続けた。各地で劉氏を奉じた叛乱が起こり、更始帝(劉玄)に殺された。新は一代十五年で滅亡した。

[後漢(東漢)(25〜220)]
劉秀(前6〜57)
  字は文叔。後漢の初代光武帝。廟号は世祖。在位25〜57。劉欽の子、母は樊氏。高祖(劉邦)の九世の孫にあたる。南陽郡蔡陽の人。父が早逝したため、叔父に養われて育ち、二十歳過ぎには長安に上って学問に励んだ。王莽時代末期に天下が混乱すると、帰郷して豪族・遊侠らと交友した。兄・劉縯に従って王莽討伐のために起兵し、昆陽の戦いで王莽軍に大勝。河北・山東・関中を平定した。更始三年(25)に即位して、漢朝を再興した。建武と改元し、洛陽に都を置いた。建武十三年(37)、天下の統一を完成した。皇后陰麗華を愛し、即位後も「皇帝になりたかったわけではない。執金吾になりたかった」とよくぼやいたという。

劉荘(28〜75)
  もとの名は陽。字は子麗。後漢の二代明帝。廟号は顕宗。在位57〜75。光武帝(劉秀)の四男。母は陰皇后。建武十五年(39)、東海公に封ぜられた。十七年(41)、王に進んだ。十九年(43)、皇太子に立てられた。中元二年(57)、即位した。父光武の制度を遵奉し、儒学を奨励し、礼教を確立した。外戚を政治から遠ざけ、皇族の封土を減らし、官僚人事を整えた。竇固・耿忠らを用いて北匈奴を討ち、班超を派遣して西域を経営させた。また蔡愔を天竺に派遣して仏法を求めさせたともいう。在位中、内治につとめ、租税徭役を減らし、民政は比較的安定した。後世、明帝と章帝の時期をあわせて明章の治と称する

劉烜(58〜88)
  後漢の三代章帝。廟号は粛宗。在位75〜88。明帝(劉荘)の五男。母は賈貴人。永平三年(60)、皇太子に立てられた。若くして儒学を好み、即位後は寛政を布いた。建初四年(79)、諸儒を集めて白虎会議を開き、五経の異同を議論させ、班固らに『白虎通』を作らせた。また曹褒らに漢礼を定めさせ、百五十篇にまとめさせた。胎養令を出し、多産生育を奨励した。在位中、社会の民生は安定し、生産基盤は発展した。のちに外戚の竇憲とその一族が権勢をふるい、外戚専横の端緒となった。

劉肇(79〜105)
  後漢の四代和帝。在位88〜105。章帝(劉烜)の子。母は梁貴人。十歳にして即位し、竇太后が臨朝称制し、竇憲らが執政した。永元四年(92)、宦官の鄭衆らと謀って、竇氏一族とその党与を捕殺し、親政をはじめた。辺郡の人口に応じて孝廉を挙げさせ、良才徳行の士を集めた。またしばしば匈奴や羌・西域の地に軍を派遣して討伐を行わせた。

劉隆(105〜106)
  後漢の五代殤帝。在位105〜106。和帝(劉肇)の末子。元興元年(105)、生後百余日にして即位し、ケ太后が臨朝称制した。延平元年(106)、在位八カ月にして没した。

劉祐(94〜125)
  後漢の六代安帝。廟号は恭宗。在位106〜125。清河孝王劉慶の子。母は左姫。章帝(劉烜)の孫にあたる。年十三にして即位し、ケ太后が臨朝称制し、后の兄のケ隲が執政した。在位中は叛乱や異民族の侵入が相次ぎ、張伯路が海上にあって沿海諸郡を攻掠し、杜季貢らが羌と連合して漢軍をしばしば破った。建光元年(107)、ケ太后が没すると親政し、宦官の李閏らと謀ってケ隲の一族を誅滅した。これより宦官の専横がはじまった。

劉懿(?〜125)
  後漢の七代少帝懿。在位125。済北恵王劉寿の子。章帝(劉烜)の孫にあたる。北郷侯に封ぜられた。安帝(劉祐)が崩ずると、閻皇后らによって擁立された。在位二百余日にして病没した。

劉保(115〜144)
  後漢の八代順帝。在位125〜144。安帝(劉祐)の子。母は李氏。永寧元年(120)、皇太子に立てられた。延光三年(124)、廃されて済陰王となった。翌年、安帝が崩ずると、宦官の江京らが北郷侯劉懿を帝に迎えたが、まもなく没した。宦官の孫程らが江京を殺して劉保を迎え擁立した。孫程ら十九名の宦官が侯に封ぜられた。外戚の梁商・梁冀が相次いで大将軍となった。朝政は宦官・外戚に操られ、外に羌・鮮卑の侵入を受けるなど、後漢朝衰退の兆しが現れた。

劉炳(143〜145)
  後漢の九代冲帝。在位144〜145。順帝(劉保)の子。建康元年(144)、二歳で即位した。梁太后が臨朝称制し、大将軍梁冀が専権をふるった。永嘉元年(145)、在位六ヶ月にして病死した。

劉纘(138〜146)
  後漢の十代質帝。在位145〜146。渤海孝王劉鴻の子。章帝(劉烜)の玄孫にあたる。永嘉元年(145)、八歳にして梁太后と大将軍梁冀に迎えられて擁立された。梁太后が臨朝称制し、梁冀が専権をふるい、太尉李固らが排斥された。このころ徐州や揚州で民衆の叛乱が続いた。帝は朝議で梁冀を指して「跋扈将軍」と呼んだため、梁冀に憎まれ、在位一年半にして毒殺された。

劉志(132〜167)
  後漢の十一代桓帝。在位146〜167。劉翼の子。はじめ父の位を継いで蠡吾侯となった。本初元年(146)、梁太后と大将軍梁冀に迎えられて即位した。梁冀が朝政を専断し、梁氏一門に七封侯・三皇后・六貴人・二大将軍が出て専横をきわめた。延熹二年(159)、中常侍の単超・唐衡ら宦官とはかり、張彪らに梁冀の邸第を囲ませて、梁氏一族を誅滅した。単超らが県侯に封ぜられ、のち宦官が政権を牛耳った。大臣の陳蕃・李膺らが太学生らと連係して、宦官の政治への干渉に反対し、宦官を指弾する党派を結んだ。九年(166)、党人を逮捕するよう詔が下されて、清流派官僚の多くが捕らえられた(党錮の獄)。翌年、恩赦が出たが終身禁錮となった。

劉宏(156〜189)
  後漢の十二代霊帝。在位167〜189。劉萇の子。章帝(劉烜)の玄孫にあたる。はじめ父の爵を継いで会涜亭侯となった。永康元年(167)、桓帝が崩ずると、竇太后と竇武に迎えられて、年十二にして即位した。竇武と陳蕃が宦官の誅滅をはかったが、失敗し、宦官の専横が続いた。党錮の獄が再び起こり、李膺・杜密ら百余人が処刑され、流刑・禁固などの刑を受けたものは七百人におよんだ。政治は乱れ、宮室の大改修をおこなう費用を、売官や増税でまかなった。中平元年(184)、黄巾の乱が起こって、後漢王朝は倒壊に向かった。

劉弁(173〜190)
  後漢の十三代廃帝。在位189。霊帝(劉宏)の子。母は何太后。幼いころ、道人史子眇の家で養われ、史侯と号した。中平六年(189)に十七歳で即位した。何太后が臨朝称制した。叔父の何進が兵権を握り、宦官の誅滅を計画したが、事が洩れ、かえって殺された。袁紹が宮中の宦官二千人を殺したので、帝は陳留王劉協とともに宮中から脱出して小平津に逃れた。涼州から進軍してきた董卓に保護され、洛陽に帰還したが、董卓により廃され、弘農王となった。

劉協(183〜234)
  後漢の十四代献帝。在位189〜220。霊帝(劉宏)の子。母は王美人。中平六年(189)六月に兄の劉弁が即位すると、渤海王に封ぜられ、のち陳留王にうつされた。九月、董卓が劉弁を廃すると、擁立されて帝となった。初平元年(190)、董卓に連れられて長安に遷都した。董卓が王允・呂布らに殺された後、董卓の部将の李カク
※2・郭らが朝政を専断した。建安元年(196)、曹操により許に迎えられた。曹操が丞相・録尚書事となって政権を握った。在位中、各地に割拠した勢力が連年にわたって混戦し、帝は名のみで実際の支配力を持たなかった。伏皇后と二皇子が曹操のために殺され、曹皇后を迎えた。曹操の死後は曹丕が丞相となり、帝位をうかがった。延康元年(220)、曹丕に帝位を譲り、後漢は滅んだ。魏のもとで山陽公に封ぜられた。魏の明帝のときに、没した。
歴代皇帝(三国・晋)

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