[前漢(西漢)(前206〜8)]
楚漢抗争期,高祖呂后期,文帝景帝期,武帝期,昭帝宣帝期,元帝成帝期,哀帝平帝期,,匈奴,,夜郎
高祖(劉邦)恵帝(劉盈)少帝恭(劉恭)少帝弘(劉弘)文帝(劉恒)景帝(劉啓)武帝(劉徹)昭帝(劉弗陵)宣帝(劉詢)元帝(劉奭)成帝(劉驁)哀帝(劉欣)平帝(劉カン)孺子嬰(劉嬰)
宣帝(前91〜前49)
  劉詢,劉病已⇒
霍光(?〜前68)
  字は子孟。霍仲儒の子。霍去病の弟にあたる。十余歳で郎に任官し、諸曹・侍中・奉車都尉などを経て、光禄大夫に上った。武帝に幼い昭帝の補佐を託され、大司馬大将軍に任ぜられた。昭帝が即位すると、博陸侯の爵位を受けた。霍光の長女が上官桀の子・安の妻となり、ふたりの間の娘が昭帝の後宮に入り、皇后に立てられた。しかし、霍光が専横を極めると、上官桀との間は険悪となった。燕王(劉旦、昭帝の兄)と上官桀・安、桑弘羊らが結託して謀反を起こそうとしたが、事前に漏れてことごとく誅殺された。これより霍光は政務を独裁するようになった。昭帝の死後、昌邑王(劉賀)を帝位につけたが、暴恣なためこれを廃し、病已(劉詢、第九代・宣帝)を立てた。引き続いて専権を握ったが、地節二年(前68)に病没した。

韋賢(前143〜前62)
  字は長孺。魯国鄒県の人。のちに平陵にうつった。『礼』『尚書』に通じ、『詩経』を教授して、魯鄒の大儒と称された。京師に召されて博士・給事中となった。昭帝に『詩経』を教え、大鴻臚に進んだ。宣帝擁立の謀に参与し、関内侯の爵と食邑を賜った。本始三年(前71)、丞相に上り、扶陽侯に封ぜられた。地節三年(前67)、老病を理由に退官した。子の韋玄成も丞相に上った。

丙吉(?〜前55)
  字は少卿。諡は定侯。魯国の人。魯国の獄吏に任ぜられ、廷尉右監に上ったが、罪をえて免官され帰郷した。武帝の末年に巫蠱の乱が起こると長安に召され、巫蠱事件の関係者を裁いた。衛太子(劉拠)の孫で生後数ヶ月の病已(のちの宣帝)が獄中にあるのを見出してひそかに保護・扶育した。その後も軍市令・長史を経て、光禄大夫に上った。昭帝が崩じ、昌邑王・賀が廃されると、霍光に病已のことを進言して、帝に立てるよう勧めた。宣帝が即位すると、関内侯の爵をえた。地節三年(前67)、皇太子が立てられると、太子太傅となり、次いで御史大夫に上った。丙吉は宣帝を扶育した功績を隠して、誇ることがなかったが、あるとき扶育の功績を認めるよう上書した人がいたため、丙吉の働きが世に顕れた。そのため博陽侯に上り、神爵三年(前59)に魏相が没すると代わって丞相に上った。寛大と礼譲を尊び、官吏の小悪や過失を咎めることをしなかったという。

趙充国(前137〜前52)
  字は翁孫。諡は壮侯。隴西郡上邽の人。騎射をよくして、羽林軍に入った。兵法を学んで異民族の事情に通じていた。武帝のとき、李広に従って匈奴を撃ち、李広の軍は匈奴に包囲されて危地に陥った。充国は百余名の兵とともに囲みを破った。この功績のため中郎に任ぜられ、さらに車騎将軍長史に遷った。昭帝のとき、武都の氐族が叛いたため、大将軍の護軍都尉として出征した。中郎将・水衡都尉を経て、後将軍となった。霍光とともに宣帝擁立の功績があって、営平侯に任ぜられた。本始年間にも蒲類将軍として出征し、功績を挙げた。帰還して少府に上った。匈奴が大規模な侵攻を試みたが、充国が九郡に分屯すると、引き揚げていった。羌族が団結して漢に対抗しようとする動きがあることを察知して、その背後には匈奴がいることを上奏して防備を説いた。帝は義渠安国をつかわして羌族を巡視させようとしたが、安国が粗暴な行動を取ったため、羌族は団結して漢に背いた。充国は七十余歳であったが、出征して羌を撃った。隠居した後も兵事あるたびに謀を答えたという。

黄霸(?〜前51)
  字は次公。諡は定侯。淮陽国陽夏の人。居を雲陵に遷し、律令を学んだ。漢の武帝(劉徹)の末年、買官して侍郎謁者に任ぜられたが、兄弟の罪に連座して罷免された。また買官して左馮翊の卒吏に任ぜられた。郡の銭穀の出納を司って清廉を称えられた。武帝の末年から霍光時代にかけて酷吏が跋扈し、刑令の峻厳をもって有能とみなす風潮があったが、黄霸は寛大穏和な吏政に終始した。宣帝(劉詢)が即位すると、長安に召されて廷尉正に任ぜられ、その公平さを称えられた。夏侯勝の不敬罪に連座して、獄につながれたが、三年して出獄した。諫大夫・揚州刺史・潁川郡太守・太子太傅・御史大夫などを経て、五鳳三年(前55)に丙吉が没すると、代わって丞相となった。建成侯に封ぜられた。丞相となると、非難されることが多く、治郡の際の名声を損なった。

烏孫公主(?〜前49)
  楚主ともいう。本名は劉解憂。楚王劉戊の孫にあたる。劉細君が亡くなると、烏孫の岑陬にとついだ。岑陬の死後、従兄弟の肥王(翁帰靡)が烏孫王となると、かれの妻となり三男二女(元貴靡、万年、大楽、弟史、素光)を産んだ。肥王の死後、狂王(泥靡)の妻となり、一男(鴟靡)を産んだ。魏和意らとともに狂王の謀殺をはかったが、失敗して赤谷城に囲まれた。のち解憂は西域都護鄭吉に救われた。烏就屠が狂王を殺して自立し、昆彌を称した。烏就屠が鄭吉に帰順すると、元貴靡を大昆彌とし、烏就屠を小昆彌とした。甘露三年(前51)、解憂は三人の孫とともに漢に帰国し、田宅・奴婢を賜った。その二年後に亡くなった。

蕭望之(?〜前47)
  字は長倩。東海郡蘭陵の人。のちに京兆郡杜陵にうつった。『斉詩』を学び、后倉に師事した。京師の太常を訪れて学業を受け、白奇・夏侯勝に学んだ。昭帝(劉弗陵)のとき、射策甲科に及第して郎となった。魏相に推薦されて大行治礼丞となった。宣帝(劉詢)の地節三年(前67)、霍氏を排斥するよう上奏して、謁者に任ぜられた。諫大夫・丞相司直に累進した。一年に三遷して、官二千石となり、ますます宣帝に信用された。少府・左馮翊・大鴻臚・御史大夫・太子太傅などを歴任した。甘露三年(前51)、石渠閣会議を主導して、儒生たちと五経の異同を議論した。宣帝臨終にあたって前将軍・光禄勲となり、史高・周堪らとともに輔政にあたるよう遺言を受けた。元帝が即位すると、中書に宦官を用いるのをやめ、士人を任用するよう進言した。宦官で中書令の弘恭らに憎まれ、誣告を受けて獄に下された。元帝(劉奭)の詔により解放されたが、前将軍・光禄勲の職を奪われた。関内侯の爵をえて、給事中に任ぜられた。のちに弘恭・石顕らに再び誣告され、自殺させられた。

馮奉世(?〜前39)
  字は子明。上党郡潞県の人。漢の武帝(劉徹)の末年、良家の子弟として郎に選ばれ、宮廷の衛兵をつとめた。昭帝(劉弗陵)のとき、武安県長に任ぜられた。ひとたび罷免されたが、『春秋』と兵法書を学んで習熟し、韓増の推挙により軍司空令となった。宣帝(劉詢)の本始年間に匈奴を討ち、ふたたび郎となった。衛尉の属官として西域に使いしたが、ときに莎車が漢より離反して西域をおびやかした。馮奉世は西域の兵一万五千を集めて莎車を攻め落とした。大宛にいたり、名馬象龍を得て長安に帰還した。光禄大夫・水衡都尉となった。元帝(劉奭)が即位すると、執金吾となった。胡伊酋若王を討ち、右将軍・典属国となり、諸吏の号を加えた。のちに光禄勲となった。永光年間、隴西の羌が漢にそむくと、任千秋の兵とともにこれを討ち、大いに破った。光禄勲のまま、左将軍に上った。功により関内侯の爵位を受けた。
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