⇒歴代皇帝(秦,漢,三国,晋,北朝,南朝,隋,唐,五代,宋,元,明,清)
[清(1636〜1912)]
ヌルハチ(1559〜1626)
姓はアイシンギョロ(愛新覚羅)、名はヌルハチ(努児哈赤)。追尊して清の初代太祖。タクシ(塔克世)の子。建州女真のスクスフ部の首長の子として生まれた。十九歳のとき、家を出て、明の将軍の李成梁に従い、才覚を認められた。万暦十一年(1583)、ヌルハチの祖父と父が、李成梁に従って戦ったが、明軍に誤殺された。そのため建州左衛都指揮使を継いだ。李成梁のはからいで明の左都督・龍虎将軍となった。海西女真の内紛により力をつけ、万暦十七年(1589)には建州女真五部を統一した。その後、海西女真のハダ部・ホイファ部・ウラ部を次々と征服した。万暦四十四年(1616)、ヘトゥアラでハーン位に就き、国号を大金とした(後金、アイシン・グルン)。天命と建元し、軍事組織を八旗に編成した。天命三年(1618)、七大恨を挙げて明朝にそむいた。撫順の戦い、サルフの戦いで明軍に大勝し、海西女真最強のイェヘ部も平定した。天命六年(1621)には瀋陽・遼陽を落とし、天命十年(1625)には瀋陽に遷都して盛京と改名した。寧遠を攻撃して明の将軍の袁崇煥のために敗退し、そのとき受けた砲弾による負傷がもとで死去したという。
ホンタイジ(1592〜1643)
名は知られていない。通称はホンタイジ(皇太極)。清の第二代太宗。在位1626〜1643。太祖ヌルハチの八男。はじめ正白旗の旗主たる貝勒(ベイレ)となり、ダイシャン(代善)・アミン(阿敏)・マングルタイ(莽古爾泰)と並ぶ四大貝勒の末席を占めた。兵を率いて征戦におもむき、しばしば戦功があった。天命十一年(1626)、ヌルハチが没すると、後金のハーン位を継いだ。明制にならって三院・六部・都察院・理藩院を設けた。来帰した漢人武将やモンゴル諸王の軍によって自己の軍事力を強化し、三大貝勒の権力を抑制した。漢人官僚を登用し、人材と文化の吸収につとめ、漢土統治の基礎を築いた。また八旗の軍制を拡大して、蒙古八旗・漢軍八旗を新たに編成した。天聡九年(1635)、チャハル部を逐って内モンゴルを平定し、大元伝国の璽を入手し、朝鮮を従属させた。女真の称を満洲に改めた。翌年四月、大清皇帝の位につき、国号を大清(清、ダイチン・グルン)と改め、崇徳と改元した。崇徳五年(1640)、松錦の戦いで明軍主力に大打撃を与えた。明朝打倒をめざし、山海関に迫ったが、関を越えることなく翌年に没した。
フリン(1638〜1661)
福臨。清の三代順治帝。廟号は世祖。法名は行痴。号は痴道人、太和主人。在位1643〜1661。太宗(ホンタイジ)の九男。崇徳八年(1643)、太宗が崩ずると、帝位についた。叔父の鄭親王ジルガラン・睿親王ドルゴンを輔政王とし、国政を総理させた。順治元年(1644)、呉三桂の先導により清軍が入関して北京を落とすと、北京に遷都した。ドルゴンが独裁を確立し、帝はその傀儡となった。このころ薙髪令を出して、漢人に弁髪を強要した。二年(1645)、予親王ドドに南征させて揚州を屠り、南京を落とした。福建に朱聿鍵を殺し、広州に朱聿鍔を滅ぼした。八年(1651)、ドルゴンが病没すると、帝は親政を開始し、ドルゴンの生前の罪を問うてその官爵を剥奪し、英親王アジゲを自殺させた。漢人官僚を重用し、吏治を整え、開墾を奨励し、『賦役全書』を編纂させた。西南に呉三桂を派遣して南明の永暦政権を討たせた。帝ははじめキリスト教を信じて、アダム・シャールを尊崇した。のちに仏教に傾倒し、高僧の玉林e・木陳サらを尊んだ。十七年(1660)、愛妃の棟鄂氏が病死すると、出家しようとしたが、群臣に止められた。翌年、病のため養心殿で崩じた。
玄Y(1654〜1722)
清の四代康熙帝。廟号は聖祖。在位1661〜1722。順治帝(福臨)の三男。順治十八年(1661)、八歳で即位。翌年には南明最後の永暦帝を昆明で処刑し、康煕三年(1664)には大順軍(李自成)の残党も一掃した。八年(1669)、後見者のオーバイ(鰲拜)を罷免して親政をはじめた。十二年(1673)に三藩の乱が起こると、これを九年がかりで鎮圧した。海上では鄭氏海軍を破り、台湾を占領。二十八年(1689)、北方のロシアとネルチンスク条約を結んで、和平した。三度にわたって西北に親征して、ジュンガル部のガルダンを逐った。運河交通や黄河の治水に意を用いて治績をあげ、六回にわたって江南への巡幸をおこなった。文字の獄によって思想統制をおこなう一方、『全唐詩』『佩文韻府』『康熙字典』『大清会典』『古今図書集成』などを編纂させた。西洋の技術や自然科学にも造詣が深く、フェルビーストらを用いて暦法を制定させた。皇太子允礽を四十七年(1708)に廃し、まもなく再び立て、また廃した。後継者をめぐる諸子の間の争闘は激しくなり、帝は皇太子の選択に悩んで、太子密建を創始した。六十一年(1722)、病のため暢春園で崩じた。一説に四男の胤メi雍正帝)に毒殺されたともいう。康煕年間は清代でも乾隆年間とならぶ盛時とされ、康煕帝は中国の歴代王朝を通じて有数の名君とされる。
胤(1678〜1735)
清の五代雍正帝。廟号は世宗。在位1722〜1735。康熙帝(玄Y)の四男。康煕三十七年(1698)に貝勒に封ぜられ、四十八年(1709)に雍親王となった。熾烈な後継者争いに勝ち抜き、六十一年(1722)に即位した。軍機処をもうけて、内閣に代わる国政の最高機関とした。土地税と人頭税を一本化して、税収を安定化させた。対外的には青海・チベットを征服し、露とキャフタ条約を結んで国境線と貿易関係を確定した。施政は厳格で、近臣や弟であっても処刑・処罰をおこなったという。為政者の義務を果たすために一日四時間しか眠らず、全国の官僚に内密の上奏文を提出させて、地方政治を監督する独特の「奏摺政治」を展開した。中国の独裁君主の典型とされており、その評価は褒貶二分されている。
弘暦(1711〜1799)
清の六代乾隆帝。廟号は高宗。十回の遠征に成功したため、十全老人と号したという。在位1735〜1795。雍正帝(胤メjの四男。雍正十一年(1733)、和碩宝親王に封ぜられた。十三年(1735)、雍正帝が崩ずると、帝位についた。即位後、ジュンガル部のガルダン・ツェレンを討ち、大小ホージャの乱を平定して新疆をおさめた。チベットを安定させるため、「欽定西蔵章程」を公布して民政・軍事の権力を駐蔵大臣に委ねた。また雲南、ビルマ、台湾などに遠征し、これによって清朝の最大版図を形成した。寧波・厦門・雲台山を閉港し、西洋との交易を広州一港に制限した。英国の使節マカートニーの通商の要求もことごとく拒否した。文化面では『四庫全書』を編纂させ、一代のうちに完成させた。また多くの文化財を蒐集して紫禁城に集めた。しばしば巡遊をおこない、馬上朝廷の称もあった。土木工事を好み、多くの人力財力を消費した。帝個人はさまざまな濫費を好んだが、かれの治世は銀の入超に支えられて、前代に類をみない好景気の時代であり、清朝の最盛期であった。在位六十年で退位して嘉慶帝に譲り、太上皇帝となった。その後の三年間、院政を布いた。晩年は和珅を信任して国政が乱れ、白蓮教の乱が起こった。『楽善堂詩文全集』。
顒琰(1760〜1820)
清の七代嘉慶帝。廟号は仁宗。在位1796〜1820。乾隆帝(弘暦)の十五男。乾隆五十四年(1789)、嘉親王に封ぜられた。六十年(1795)、皇太子に立てられた。翌年、父帝に譲られて帝位についた。父が太上皇となり引き続き執政し、和珅が国政を専断した。嘉慶四年(1799)、父太上皇が崩ずると、親政をはじめた。和珅を逮捕して獄に下し、二十大罪を数えて、自殺を迫った。湖北・四川で起こった白蓮教徒の叛乱は五省に波及し、足かけ九年この鎮圧のために全力を尽くした。まもなく蔡牽・朱濆の乱が東南海上で起こり、北方で天理教の乱が起こって京師に迫った。乾隆中期以後、軍紀はゆるみ、軍費は増大し、官僚の汚職はきわまり、連年にわたって黄河が氾濫し、運河の交通も滞って、財政は悪化の一途をたどった。貿易収支も悪化して、嘉慶期には銀の出超となり、デフレによる賦税の実質増によって農民を苦しめた。二十五年(1820)、熱河の避暑山荘で崩じた。
旻寧(1782〜1850)
清の八代道光帝。廟号は宣宗。在位1820〜1850。嘉慶帝(顒琰)の次男。嘉慶二十五年(1820)八月、帝位についた。道光六年(1826)、ジハーンギールがカシュガル・ヤルカンドを占領し、台湾では黄文淵が乱を起こした。このころ、天災や政治腐敗や重税が重なり、農民の叛乱や少数民族の反抗が相次いだ。十八年(1838)、林則徐を欽差大臣に任じて広東におもむかせ、アヘンの吸引と販売を厳禁させた。二十年(1840)、イギリスがアヘン戦争をしかけ、舟山島の定海を占領した。のちに英軍は、広州虎門の砲台を激戦の末落とし、鎮海・寧波・乍浦を陥落させ、南京を攻撃した。二十二年(1842)、和平派の耆英が欽差大臣となって、英との間に南京条約が結ばれ、香港の割譲、五港の開港、賠償金の支払いが約された。二十四年(1844)、米との間に望厦条約が、仏との間に黄埔条約が結ばれて、治外法権を認めさせられた。三十年(1850)、病のため崩じた。
奕詝(1831〜1861)
清の九代咸豊帝。廟号は文宗。在位1850〜1861。道光帝(旻寧)の四男。道光三十年(1850)、道光帝が崩ずると、帝位についた。咸豊元年(1851)、太平天国の乱鎮圧のため兵を派遣したが、たびたび敗北した。三年(1853)、曾国藩ら漢族の郷紳を起用して団練を編成させ、蕭順らを任用して財政を改革させた。六年(1856)、英仏がアロー戦争を仕掛けると、対外妥協的態度を取った。八年(1858)、露との間にアイグン条約を結び、英仏米露との間にそれぞれ天津条約を結んだ。十年(1860)、英仏軍が北京に侵攻したため、帝は熱河に逃れた。弟の恭親王奕訢に京師の留守を任せて英仏と折衝させ、北京条約を結ばせた。十一年(1861)、病のため熱河の行宮で崩じた。
載淳(1856〜1875)
清の十代同治帝。廟号は穆宗。在位1861〜1875。咸豊帝(奕詝)の長男。咸豊十一年(1861)、六歳で帝位についた。蕭順ら八大臣が補佐し、祺祥と改元した。西太后や恭親王奕訢が政変を起こして権力を握ると、同治と改元した。東太后(慈安太后)西太后(慈禧太后)が垂簾聴政にあたるという形式を取ったが、実質は西太后が権力を握った。かれの治世に太平天国の乱が鎮圧され、洋務運動が起こって諸改革が試みられた。同治十二年(1873)正月、親政を開始したが、なお西太后の専権下にあった。翌年、病のため崩じた。
載湉(1871〜1908)
清の十一代光緒帝。廟号は徳宗。在位1875〜1908。醇親王奕譞の子。同治帝(載淳)が崩ずると、五歳で帝位についた。光緒十五年(1889)から親政したが、西太后に実権を握られて、対立を深めた。日清戦争後は革新思想に傾斜。光緒二十四年(1898)四月、康有為や梁啓超らと図って戊戌の変法を断行したが、保守派の反撃を受けて、わずか百日で失敗した。その後、西太后によって瀛台に幽閉された。翌年に義和団事件が起こり、二十六年(1900)に義和団が北京に入って外国公使館などを襲撃すると、八カ国連合軍が天津を占領して北京に迫った。帝は西太后らとともに西安に逃れた。翌年、辛丑条約が成立すると北京に帰った。三十四年(1908)、西太后の死の少し前に病没した。毒殺説もある。
溥儀(1906〜1967)
清の十二代宣統帝。ラスト・エンペラー。在位1908〜1912。醇親王載澧の長男。母は栄禄の娘。光緒帝(載湉)が崩ずると、西太后の意向により、三歳で即位。父の醇親王が後見した。宣統三年(1911)に辛亥革命が起こると、翌年に革命派と妥協した袁世凱によって退位させられた。宣統帝の号は保持しながらも、紫禁城に軟禁された。1917年、張勲の復辟運動によってわずか十二日間の復位。1924年、直隷派の馮玉祥によって紫禁城を追われ、北京の日本公使館に避難。翌年、天津の日本租界に移った。1932年には日本の保護のもと満洲国の執政となり、1934年満洲国皇帝となった。康徳と建元。しかし、完全な日本の傀儡であった。在位中、二度訪日。1945年、日本降伏後に退位を宣言。日本に亡命する途中、ソ連に逮捕された。1950年、中華人民共和国に引き渡され、撫順・ハルビンの刑務所に服役した。1959年、特赦で出所。一平民となり、植物園の庭師となった。看護婦をしていた婦人と結婚した。1964年、政治協商会議委員をつとめる。歴史学会会員。文革の初期に病死した。『わが半生』。
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