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[明(1368〜1644)]
朱元璋(1328〜1398)
  もとの名は重八。字は国瑞。明の初代洪武帝。廟号は太祖。在位1368〜1398。安徽省濠州の人。朱世珍の四男。母は陳氏。貧農の出で、至正四年(1344)に両親が疫病で死没すると、皇覚寺で出家した。十二年(1352)に故郷で郭子興の紅巾軍に入り、頭角をあらわした。徐達・湯和らの武将や李善長・劉基・宋濂らの文人が彼のもとに集まった。十五年(1355)、紅巾軍最大勢力をなした劉福通が韓林児を擁して宋国を立てると、その政権下に入り、左副元帥となる。翌年、集慶(南京)を攻撃中、郭子興が殺されたため、その部隊を引き継ぎ、集慶を落として応天と改名し、根拠地とした。二十三年(1363)、陳友諒を鄱陽湖の戦いで破り、二十七年(1367)、張士誠の拠点である蘇州を落として張を自殺させた。同年に浙江の方国珍を降し、翌年に福州の陳友定を捕殺した。二十八年(1368)に応天で即位し、年号を洪武と改め、国号を明とした。同年に徐達を統帥とした明の大軍が北上し、大都に入った。元の順帝は北へ逃れた。洪武二十年(1387)、中国を統一した。即位後は、明王朝の存続に腐心するあまり、功臣を次々と粛正した。左丞相の胡惟庸を殺し、一万人以上を連座させて殺したのを皮切りに、開国の元勲の李善長に死を賜り、三万人余を族誅、藍玉を謀反の罪で処刑し、一万五千人を連座させた。丞相を廃し、皇帝が六部を直轄する皇帝独裁の支配を確立。魚鱗図冊と呼ばれる土地台帳や賦役黄冊と呼ばれる租税台帳を作り、里甲制という村落行政制度を整備して、管理を強化した。対外的には、漢民族による民族国家指向をみせ、朝貢貿易制度を布いたが、元代の世界帝国指向はそこになく、鎖国的とみなされた。
朱允炆(1383〜1402)
  明の二代建文帝。恭閔恵皇帝。在位1398〜1402。太祖(朱元璋)の皇太子朱標の次男。洪武二十五年(1392)、皇太孫に立てられた。三十一年(1398)、太祖が崩ずると、即位した。州県を併合し、官吏の冗員をはぶき、寛政をしいて、罪人を釈放した。兵部尚書斉泰・太常卿黄子澄を登用して宗室諸王の削藩をはからせた。燕王朱棣がこれに反対して起兵すると、相次いで耿炳文・李景隆を大将軍として征討にあたらせたが、連敗し、斉泰・黄子澄を解任した。建文二年(1400)、盛庸を平燕将軍として燕王を討たせると、東昌で燕軍を破った。三年(1401)、斉泰・黄子澄の官を復した。四年(1402)、燕兵が長江を渡り、李景隆らが燕王に降ると、宮中から火が起こって、帝は焼け死んだ。一説に僧侶の姿で各地を流浪し、号を応文といったという。

朱棣(1360〜1424)
  明の三代永楽帝。廟号は成祖。在位1402〜1424。太祖(朱元璋)の四男。母は馬皇后とされるが、疑義もある。洪武三年(1370)に燕王に封ぜられて、十三年(1380)に北平に鎮した。二十三年(1390)に北伐し、北元の乃児不花を捕らえた。建文元年(1399)、建文帝(朱允文)による諸王領削減に反対し、斉泰・黄子澄を除くことを名分として起兵した(靖難の変)。四年にわたる激戦の末、南京を落とし、帝位を奪った。即位後、建文年号を除き、建文遺臣に苛酷な誅罰を加えた。諸王領削減を継続し、内閣を設置し、宦官を重用し、東廠を建て、錦衣衛の獄を復活させ、集権統治につとめた。北方経営を重視し、北平を北京と改め、五回にわたって漠北に親征した。対外積極策を取り、黒龍江の北に奴児干都司を置き、西北に貴州布政使を開き、南に安南を併合した。七回にわたって鄭和率いる大船団を派遣して、東南アジア、インド沿岸、アラビア、アフリカ東岸の諸国に朝貢を求めた。永楽十九年(1421)、北京に遷都した。また『永楽大典』『四書大全』『五経大全』『性理大全』などの大規模な編纂事業をおこなった。二十二年(1424)、群臣の反対を押し切って五度目の漠北親征をおこない、帰還の途中に楡木川で病のため崩じた。

朱高熾(1378〜1425)
  明の四代洪熙帝。廟号は仁宗。在位1424〜1425。成祖(朱棣)の長男。洪武二十八年(1395)、燕世子となった。父の朱棣が靖難の師を起こすと、北平の留守を守った。永楽二年(1404)、皇太子となった。成祖が北伐をおこすたびに、監国をつとめた。弟の漢王朱高煦が軍功により寵愛をえて、太子に取って代わることを望んだが、果たさなかった。二十二年(1424)、成祖が崩ずると、帝位についた。内政につとめ、英主と期待されたが、在位一年足らずで崩じた。

朱瞻基(1399〜1435)
  明の五代宣徳帝。廟号は宣宗。在位1425〜1435。仁宗(朱高熾)の長男。永楽九年(1411)に皇太孫に立てられ、成祖(朱棣)の北巡や征討にしばしば同行した。仁宗が即位すると、皇太子となった。洪煕元年(1425)、仁宗が崩ずると即位した。宣徳元年(1426)、漢王の変を平定した。翌年、閣臣の楊士奇・楊栄らの議に従って、交趾への出兵を停止した。吏治と財政の整理につとめて、仁宗の時期と合わせて仁宣の治と後世に称揚された。しかし、田賦の減免は空文に終わり、内朝における宦官の権力がさらに強化されるなど、課題を残した。

朱祁鎮(1427〜1464)
  明の六代正統帝。重祚して八代天順帝。廟号は英宗。在位1435〜1449、1457〜1464。宣宗(朱瞻基)の長男。九歳のとき即位。太皇太后張氏に後見され、三楊(楊士奇・楊栄・楊溥)に補弼された。三楊の死後、宦官の王振に専権をふるわれ、政治は腐敗して土地の兼併が横行し、葉宗留の乱やケ茂七の乱などの民衆叛乱も頻発した。正統十四年(1449)、オイラート部の侵入があり、王振の進言に従ってみずから迎撃しようとした。しかし土木堡においてオイラート部のエセン・ハーンの捕虜となった(土木の変)。翌年、釈放されて帰国したが、すでに弟の朱祁ト(代宗)が即位しており、太上皇帝として南宮に幽閉された。景泰八年(1457)、石亨・徐有貞・曹吉祥らによって擁立され、ふたたび帝位についた。

朱祁ト(1428〜1457)
  明の七代景泰帝。廟号は代宗。在位1449〜1457。宣宗(朱瞻基)の次男。宣徳十年(1435)、郕王に封ぜられた。正統十四年(1449)、土木の変によって兄の英宗(朱祁鎮)がオイラート部の捕虜となると、皇太后の命により監国となり、一月後に帝位についた。于謙を任用して軍事を統括させ、北京の守りを強化し、京畿近郊でオイラート部を撃退した。英宗が帰国すると、太上皇として南宮に監禁した。景泰八年(1457)、英宗が復辟すると、廃されて郕王となり、西宮で亡くなった。成化十一年(1475)に帝号を復された。

朱見深(1447〜1487)
  明の九代成化帝。廟号は憲宗。在位1464〜1487。英宗(朱祁鎮)の長男。正統十四年(1449)、皇太子に立てられた。景泰年間に沂王に落とされたが、天順元年(1457)に、再び皇太子に立てられた。八年(1464)、英宗が崩ずると、帝位についた。于謙の名誉を回復し、代宗(朱祁ト)の帝号を復した。宦官の汪直を重用して、西廠を設置し、検察刑獄をまかせた。しばしば疑獄事件が起こり、朝政は日増しに腐敗していった。民間の不満は高まり、荊襄の流民の乱や大藤峡の瑤族の乱が起こった。

朱祐トウ
※7(1470〜1505)
  明の十代弘治帝。廟号は孝宗。在位1487〜1505。憲宗(朱見深)の三男。成化十一年(1475)、皇太子に立てられた。二十三年(1487)、憲宗が崩ずると、帝位についた。即位後は、奸臣をしりぞけ、僧侶や道士の封号を廃した。正直練達の士を多く起用して、ときに「朝、君子多し」といわれた。財政危機を解決するため、光禄寺の費用を削減し、宗室や勲戚が民田を占有するのを禁じた。『大明会典』を編纂させ、『問刑条例』を修訂させた。後世に弘治の中興と讃えられた。
朱厚照(1491〜1521)
  明の十一代正徳帝。廟号は武宗。在位1505〜1521。孝宗(朱祐トウ
※7)の長男。弘治五年(1492)、太子に立てられた。遊興にふけり、チベット仏教を尊崇して、大慶法王と号した。十八年(1505)、孝宗が崩ずると、帝位についた。はじめ宦官の劉瑾ら八人に政務を任せた。かれらは八虎と称された。のちに江彬・銭寧らを重用して、国姓の朱姓を授けた。微行を好み、威武大将軍朱寿を自称して北辺を漫遊し、兵をもてあそんだ。政治の腐敗により叛乱が相次ぎ、劉六・劉七の農民軍が京師に迫り、また宗室も謀反を起こした。正徳十六年(1521)、南方巡幸の帰途に京師の郊外の豹房で崩じた。
朱厚ソウ
※8(1507〜1566)
  明の十二代嘉靖帝。廟号は世宗。在位1521〜1566。興献王朱祐杬の子。正徳十六年(1521)、藩王の身から帝位を継いだ。即位後、武宗が寵愛した銭寧・江彬を処刑して、宮中の官員を整理し、先代の弊風を一新した。しかし、皇考に実父の興献王をあてようとし、先代の武宗とする廷臣たちと論争し、意見の異なる臣下を二百人あまりも解任または投獄した(大礼の議)。道教を尊崇して、真君・仙翁・帝君を自称した。嘉靖二十一年(1542)より朝見することをやめ、二十年にわたって権臣の厳嵩らに政務を委ねた。在位中、タタール部のアルタン・ハーンが西北を騒がせ、二十九年(1550)には北京を囲んだ。また海禁を厳しくしたため、かえって倭寇が活発化し、東南沿海をしばしば襲撃した。四十二年(1563)、兪大猷・戚継光が福建で倭寇を破り、ようやく下火となった。晩年は方士を盲信して、四方に珍宝を探索させた。方士が献上した丹薬を服して中毒死した。
朱載垕(1537〜1572)
  明の十三代隆慶帝。廟号は穆宗。在位1567〜1572。世宗(朱厚ソウ
※8)の三男。嘉靖四十五年(1566)、世宗が崩ずると帝位についた。父が重用した諸臣をしりぞけ、方士たちを殺した。隆慶二年(1568)、勳戚の荘田を制限ししようとしたが、まもなく頓挫した。五年(1571)、アルタン・ハーンに交易を許し、北方からの圧力を緩和した。内政の努力も報われることなく、財政難は解消しなかった。
朱翊鈞(1563〜1620)
  明の十四代万暦帝。廟号は神宗。在位1572〜1620。穆宗(朱載垕)の三男。隆慶二年(1568)、皇太子に立てられた。六年(1572)、穆宗が崩ずると帝位についた。高拱・張居正・高儀らが補政した。張居正の改革により、税収は増え、国勢は一時回復した。北方には李成梁を起用して、国境も安定した。万暦十年(1582)、張居正が亡くなると親政をはじめた。張居正の官爵を奪い、一家を断絶させた。日本の朝鮮侵攻に対する援朝軍の派遣や東北での後金勃興に対処するため軍費が増大し、財政が逼迫した。東林党が内閣と争い、四十三年(1615)には挺撃の案が起こるなど、政府内の党争は激化した。帝は治世の後半二十五年間にわたって朝廷に出なかったという。

朱常洛(1582〜1620)
  明の十五代泰昌帝。廟号は光宗。在位1620。神宗(朱翊鈞)の長男。神宗が福王朱常洵を偏愛したため、久しく太子に立てられず、万暦十四年(1586)から十五年にわたって後継者をめぐる党争が続いた(争国本事件)。二十九年(1601)、はじめて皇太子に立てられた。四十三年(1615)の挺撃の案ののち、ようやく地位が固まった。四十八年(1620)、神宗が崩ずると、即位した。在位一月で、鴻臚寺丞の李可灼の献じた紅丸を服用して中毒死した。

朱由校(1605〜1627)
  明の十六代天啓帝。廟号は熹宗。在位1620〜1627。光宗(朱常洛)の長男。泰昌元年(1620)、光宗が崩ずると、即位した。遼東でしばしば明軍は後金のために敗北を喫し、白蓮教徒の乱が山東で起こり、奢崇明・安邦彦らが西南で起兵するなど、辺難が続いた。乳母の客氏と宦官の魏忠賢を信任して、しばしば大獄が起こり、東林党人を迫害した。天啓六年(1626)、ついに陝西で流民の叛乱が起こった。翌年、病のため崩じた。

朱由検(1610〜1644)
  明の十七代崇禎帝。廟号は思宗、のちに改めて毅宗。在位1627〜1644。光宗(朱常洛)の五男。天啓二年(1622)、信王に封ぜられた。七年(1627)、兄の天啓帝(朱由校)が崩ずると、遺命を受けて帝位についた。即位後、魏忠賢らの党与を処罰して政争を鎮め、国政の再建につとめた。しかし、袁崇煥を冤罪で殺してしまうなど功臣を信じず、北方から後金が台頭してくるのをとどめることはできなかった。また内政においても、重税と飢饉が重なって農村は荒廃をきわめ、民衆叛乱の火は燃え広がるばかりとなった。崇禎十七年(1644)、李自成軍が北京を攻め落とし、帝は煤山において自殺した。かれの死によって明は滅んだ。

朱由ッ(1607〜1646)
  南明の弘光帝。廟号は安宗。在位1644〜1645。福王朱常洵の長男。崇禎十四年(1641)、李自成が洛陽を陥落させ、父の常洵が殺されると、河南の懐慶に逃れた。十六年(1643)、福王の爵位を継いだ。十七年(1644)、李自成が懐慶を落とすと淮安に逃れ、北京が陥落すると鳳陽総督の馬士英に擁されて南京にいたった。まず監国を称し、まもなく帝を称した。朝臣に内紛が絶えず、主戦派の史可法を排した。弘光元年(1645)、清軍が南下して南京を占領すると、蕪湖に逃れて黄得功を頼ったが、まもなく捕らえられ、北京に送られた。翌年に殺された。

朱聿鍵(1602〜1646)
  南明の隆武帝。廟号は紹宗。在位1645〜1646。崇禎五年(1632)、唐王の爵位を継ぎ、南陽に鎮した。九年(1636)、軍をほしいままに動かしたとして、廃されて庶人とされ、鳳陽に軟禁された。弘光のとき、恩赦にあって広西の平楽にうつされることになった。道中、弘光帝(朱由ッ)が清軍に捕らえられると、福州で鄭鴻逵・黄道周らに擁立されて、帝を称した。隆武二年(1646)、清軍が福建に入ると、汀州に逃れ、清将の李成棟に殺された。永暦朝により思文皇帝と追尊された。

朱以海(1618〜1662)
  南明の魯王。明の太祖(朱元璋)十世の孫にあたる。崇禎十七年(1644)、魯王を継いだ。弘光帝(朱由ッ)が清軍に捕らえられると、銭粛楽・朱大典らに擁されて、紹興で監国となった。ときに浙東で抗清の軍が次々と起こり、諸軍を遣わして銭塘江を守らせた。また各地の南明将領の間の抗争は熾烈で、福建の隆武朝と正統を争った。魯監国元年(1646)、清軍が銭塘江を渡ると、浙東を守ることができず、海上に逃亡した。四年(1649)、舟山に進駐した。六年(1651)、清軍が舟山を攻め落とすと、張煌言らに従って厦門にいたり、まもなく金門にうつった。八年(1653)、監国の号を除いた。のち金門で病没した。

朱聿鍔(?〜1646)
  南明の紹武帝。在位1646。隆武二年(1646)、唐王に封ぜられた。兄の隆武帝(朱聿鍵)が滅ぶと、広州に逃れ、まもなく帝を称した。肇慶で立った永暦帝(朱由榔)の攻撃を受けたが、撃退した。のち清軍に広州を陥され、李成棟に捕らえられて殺された。

朱由榔(1623〜1662)
  南明の永暦帝。在位1646〜1662。桂王朱常瀛の子。崇禎九年(1636)、永明王に封ぜられた。隆武のとき、桂王を継いだ。隆武二年(1646)、丁魁楚・瞿式耜らに擁されて、肇慶で監国となり、まもなく帝位についた。両広・雲貴・湖広・四川・江西の地に展開し、大順・大西の農民軍の残党の帰順を容れ、鄭成功の海上での活動と連絡して、一時期は抗清の気勢が高まった。しかし、朝臣の党争はつづき、行在も定まらなかった。農民軍出身の孫可望が清に降って、情勢は決定的に不利になった。永暦十年(1656)、李定国に迎えられて昆明にいたった。十二年(1658)、清軍が雲南に入ると、滇西に逃れた。翌年、ビルマに入った。ビルマ人によって捕らえられて清軍に引き渡され、呉三桂により昆明篦子坡で殺害された。
歴代皇帝(清)

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